力と愛と慎みの霊
神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。
(Ⅱテモテ1章7節)
中学生の頃、教区のサマーキャンプから帰ってきた私の顔を見られた教会員の方が、「あら、聖霊に満たされてきたね」と言われて驚きました。満天の星の下、偉大な主がここにおられるという畏れとこんな私に目をかけてくださる神の愛が迫ってきて、キャンプファイヤーの炎と同時に、中学生の私の心の中も確かに聖霊によって燃やされていたのです。
引っ込み思案の中学生でしたが、聖霊に満たされてから「イエス様のために何かをしたい」という思いを抑えきれず、「日曜日の朝、早く教会に来てラッキー(教会の犬)の散歩をしても良いですか?」と申し出たのが初めての奉仕でした。隠れキリシタンのような私が、クラスメイトを積極的に教会に誘うようになったのもその頃でした。今思うと、聖霊によって奉仕の力、伝道の力が与えられていたのでした。
高校生になって、洗礼を受けることを父から大反対されました。初めての信仰の試練です。「どうしてクリスチャンホームに産まれなかったのかなあ」と思うこともありました。毎朝、毎晩聖書と『一日一章』(榎本保郎著)をあわせて読み、賛美CDをBGMに心を注いで祈り続けました。「真実の愛は待つことができる」という言葉を口ずさみつつ、教会の兄姉の具体的な愛にもどれほど励まされたことでしょうか。
1年後、父からの「反対も賛成もしない」という大人の返事をもらうことができました。1989年10月8日、犬鳴山のふもとの小さな川で洗礼の恵みに与った時、ヨルダン川で洗礼を受けられた主イエスのことを思い出しました。それから32年後、私は牧師として父に洗礼を授けることになりました。あの時、親として本気で反対した父の思いも、痛いほどによく分かります。聖霊は神の愛を注ぎ、全てを愛で包んでくださいます。
また年に何度か「主よ、私を砕いてください」という祈りに導かれます。砕かれることは痛いのですが、いつの間にか高くなっている鼻、意固地になっている心も聖霊によって砕かれる時、今まで見えなかったものを見させていただけます。聖霊は自分では持ち得ない慎みや思慮分別を確かに与えてくださいます。
今も自信をなくしたり、心を固くしがちな私なのですが、聖霊に満たされる時、力と愛と慎みが与えられることを感謝します。
※教会名は、掲載時点のものです。
感想・コメントはこちらに♪