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片平勝
聖霊のバプテスマの恵み
イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。…」
(ヨハネによる福音書20章21-22節)
日本聖書協会・口語訳聖書
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もうずいぶん昔のこと。わたしは牧師の長男でしたが、小学生の時に父を亡くしてから、「教会に縛られなくていいんだ…!?」と教会を離れ、いわゆる「放蕩息子」のような生活をしていました。
そんなわたしが、いくつかの挫折を経験して、世にある居場所を失い、救いを求めて教会に帰ってきたのが21歳の頃です。
その後、極端かもしれませんが、ただひたすら聖書をむさぼり読み、毎晩深夜2時になると会堂で、ひとり神さまに助けを求めて祈りました。その祈りの中で、繰り返し叫び求めたのが、「どうかわたしを聖霊に満たして下さい!」というものだったのです。
ところが当時のわたしは、聖霊が何であるのか理解していたわけではありませんでした。ただ異言で祈れるようになる、というだけの認識しかありませんでした。それでも、必死だったのです。
その頃のわたしは、大学の友人たちに救いを証しし、教会に連れて行ったりもしていました。それでも、まだ神さまの恵みを受け損ねている…という、飢え渇きの中で、全国聖会に出席。そこで献身の決心をするとともに、聖霊の満たしを求めて必死で祈ったのです。
「必死」と表現すると、大げさに聞こえるかもしれませんが、確かにそういう気持ちで毎回祈りの招きには出て行き、休憩時間の祈祷室でも祈り続けたことを覚えています。
そうやって前に出て祈る中で聖霊のバプテスマを受けました。それは特別な感動の経験でした。
その聖会が終わって翌朝のことです。牧師の母が一緒に祈り、わたしの頭に手を置いてくれた瞬間、それまでの異言が、さらに明確で豊かな”言葉”となってあふれでてきました。それは、喜びと感動の波が怒涛のようにあふれ出てくる経験でした。この祈りを止めたくない、このままずっと祈っていたい。止めたらなくなってしまいはしないか…、そうも思ったことを覚えています。
それから後の歩み。さまざまな霊的な惑わしや戦いを経験することがありました。自信を失うことも、また失敗すること過ちを犯すこともありました。もう聖霊が離れてしまうのではないか…、そんな恐れをいだくこともありました。
けれども、主の前に立ち帰って祈り始めていくとき、聖霊さまは赦しと癒しと共に、満たしの感動を回復して下さるのです。そうして今も、小さな働きながら献身者としての歩みをささげることができています。すべては主の憐れみ、聖霊の守りと助けによることと、心から感謝しています。
※教会名は、掲載時点のものです。
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