
野川悦子
最高の宝もの
すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリス
トの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として
聖霊を受けます。
(使徒言行録 2章38節)
聖書 新共同訳

「洗礼を受けた者は聖霊のバプテスマを求める」…そう聞いていた私は、当然のこととしてイースターに洗礼を受けた後、毎朝大学に行く前に教会に寄り、1 時間、異言を伴う聖霊のバプテスマを求めて祈りの時を持ちました。その時間、同じように求めていた大学生の兄弟もいましたが、しばらくして彼の方が異言で祈りだし、「ねえねえ、聞いた?聞いた?」と言いながら、喜び一杯の受霊の報告を聞きました。受霊した兄弟と一緒に祈れることを楽しみにしていたのですが、その後、この時間帯で祈るのは私 1 人になってしまい、一抹の寂しさを感じたものです。
夏の CA キャンプの時、「聖霊に満たされる時をもてますように…」と祈って参加しましたが、1 日目 2 日目と何も起こりません。2 日目の夜のキャンプファイヤーの時には、「神様、必ず聖霊で満たしてください!」と祈っていたのに、その日は雨で、感動的な外でのキャンプファイヤーができず、体育館でキャンドルファイヤーになりました。正直、メッセージを聞きながらも(甚だ 高慢ではありますが)心を激しく動かされることなく終わってしまい、「あぁ、私にはまだどこか頑ななところがあって、聖霊のバプテスマを受けるのはまだなのか…」と失望していました。ところが説教者が、「では立ち上がって祈りましょう」と言い、そのようにして声を出した瞬間、何か自分に圧倒的なものが働いたのです。そして立っていられない思いと、無理に立ち続けようとする自分がぶつかり合って、ふらふらしている状態になりました。心はとても冷静で、「私は何をやっているのだろう?おや?なぜ私は泣いているのだろう…?」と思いながら、涙が次から次へと溢れ、ボロボロに泣きました。おそらく異言で祈ったのです。でも誰からも「受霊したね!おめでとう!」と言ってもらえず、受霊を確認された日は、11 月の関東聖会の祈祷室ということになりました。
聖霊のバプテスマを受けて一番に変わったことは、聖書がよく理解できるようになったことです。それまでは聖書を読んでいても字面を追っているだけで表面的にしか書いてあることが分かりませんでした。でも受霊してから聖書は全く違うものになりました。例えばマタイ 9:36-37.にこう書かれてあります。
「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。」
ここを読んだ時イエス様がどのように群集を見たか、自分がイエス様の目となって群集を見ることが初めて出来ました。弱り果てている群集の姿、彼らの心がどれ程打ちひしがれているか、全てお分かりになるイエス様が、どんな思いを持たれたか。それは、内臓を締め付けられるような思いだったのです。でもその時、私自身も胸が締め付けられる思いになりました。さらに「収穫は多いが、働き手が少ない。」と言われたイエス様の思いが迫りました。「収穫は多いのに。収穫は多いのに。収獲は多いのに…。」イエス様の思いが聖霊によって示され、こんなにも主は人を罪のもたらす苦しみから救いたいと願われているのか…、と圧倒されました。
また聖霊のバプテスマを受けた後は、何時間でも祈れるようになり、祈りによって肉体的な疲れが取れることも体験しました。喜びや平安も与えられ 信仰生活が充実しました。そしてもっと主に仕えたい、お役に立ちたい、収穫の為の働き手になりたいという思いを持ちました。
異言を伴う聖霊のバプテスマを体験して、変わったこと、得たこと、気づいたこと、力与えられたことは数え切れないほどあります。それは、救いに次ぐ、私にとって何よりの、最高の「宝」となっています。
~すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。~ 使徒言行録 2:38. 新共同訳
※教会名は、掲載時点のものです。
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