
林由佳
身動きすら取れないほどの大きな喜び
神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
(第二コリント 3章6節)
聖書 口語訳 ©日本聖書協会

1995年4月9日、棕櫚の主日。出身教会の礼拝の中で揺るぎない平安に満たされ、私の口から異言の祈りがゆっくりと静かに流れ出てきました。これがあの体験・・・!誰の目に見ても礼拝をささげている一信徒である私が受霊したとは思えなかったでしょう。イエスを乗せた子ロバのメッセージを語る廣瀬牧師の礼拝説教の中で語るみことばの確かさが最終的な決定打となったのか、それは静かに強くあふれ出したのです。ただ聖霊は静かに臨み、私の内側が完全に新しく塗り替えられ、受難週が始まるというのに、私は何にも例えようのない充実感と感動にただ満たされました。身動きすら取ることの出来ない大きな喜びです。
聖霊の風は願っている方向から吹いてくるのではなく、ただ神の時が満ちると受け取るのみです。私は受洗後、聖霊待望や聖会があると「恵みのみ座」に引きずり出されように出て、何人もの兄弟姉妹や牧師に手を置かれ祈られ続けました。「聖霊のバプテスマが受けられない」烙印とともに自分を囚人のごとく思っていましたが、ある時「朝の9時」という本との出会いを通して、文中に登場する司祭も祈り始めて7年後に与えられた神の賜物であることを知り、私が今日この場で雷に打たれるように体験するものではないということに気づかされました。必ず主がくださるのだからいつまでも祈って待ち望もうと思うようになり、今まで迷惑をかけていると感じていた「祈られる」ということにも積極的に「祈ってもらおう」という方向へ転換されていきました。
しかし、聖霊のバプテスマは異言をともなうしるしとして現れただけではなく、その後の奉仕の力によりますます顕著になりました。神に仕えるように教会に仕える時、年齢も性別も立場も何もかもかかわらず「なんでもすることができる」ということを体験しました。それは献身し、1人での礼拝をささげる時も起こり続ける「主が共にいてくださる」平安となり、今なお遣わされた結城教会でも新しく塗り替えられ続ける恵みとなっています。


※教会名は、掲載時点のものです。

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