どこへでも、いつでも、何にでも
私たちの証し
ラマドゥ・ダン&ポーラ師

「どこへでも、いつでも、何にでも」——これは、16歳の少年だった私が、聖霊のバプテスマを受けたばかりの頃、日曜夜の礼拝で講壇の前に進み出て、主の召しに応答したときの言葉です。『主よ、あなたが行けと言われるならどこへでも。あなたが呼ばれるならいつでも。あなたが望まれることなら何でも、私は従います!』
どこへでも、いつでも、何にでも
私の物語は、そのオハイオの教会の講壇での決定的な瞬間より、ずっと前から始まっています。私の信仰の物語は、私が生まれて数年後に、父も母もイエスを信じる信仰に導かれたところから始まりました。父も母も、厳しい環境で育ちました。父は、暴力が当たり前のような荒れた通りで育ち、後にその通りの若者の一人は『手が凶器』と認定され、もし再び喧嘩をすれば刑務所に行くと言われるほどでした。貧しさが蔓延し、父はアルコール依存で言葉の暴力を振るう父親のもと、7人兄弟の一人として育ちました。ありがたいことに、祖父母は後年、主を知るようになりました。父は大きなトラブルに巻き込まれずにいましたが、中学(8th grade)で学校を中退しました。その後、アメリカ海軍に入り、配属先のアイスランドでもポルカダンスに行くような人でした。やがて帰国し、金髪の若い女性と出会って恋に落ちました。それが私の母です。母もまた、父親がアルコールと闘う家庭で育ちました。母は子どもの頃、祖母に連れられてルーテル教会に行き、父も時々聖公会の教会に行っていましたが、二人とも『新しく生まれる(born again)』ことが何を意味するのか、まだよく分かっていませんでした。

やがて二人はキリストに信仰を置きました。中学で中退した父は、その後G.E.D.(中退者が取得する高校卒業資格に相当するもの)を取りましたが、信仰を持ったばかりの父は、『この信仰をもっと知りたい』と強く願うようになりました。父と母はオハイオを離れ、父はバイブル・カレッジに入学しました。父は当初、牧会の召しを感じていたわけではなく、ただ信仰を学びたいと思っていたのです。二人は、巡回ユースクワイアを導くなどの奉仕にも携わりました。母は歌い、ピアノを弾き、父はいつも冗談めかして『自分は運転手でマネージャーなだけだ』と言っていました。
最初の一年はフロリダ州クリアウォーター、二年目は転校してケンタッキー州パインビルへ。そこで私は、両親がバル夫妻(Mr. and Mrs. Ball)と話しているのを耳にしました。引っ越しのトレーラーを積み終え、翌朝オハイオに戻るという、最後の夜でした。私は昔から好奇心旺盛で、会話を“盗み聞き”していたのです。イエスへの信仰と、主に従う決断について語り合う両親の言葉を聞きながら、私は『自分はまだ、その決断をしたことがない』と気づきました。私は一人で外に出て、トレーラーのバンパーに腰かけ、イエス様を救い主、そして主として受け入れる祈りを捧げました。その瞬間は、私の人生を永遠に変える出来事となりました。

私は成長期、バプテスト教会に通いました。そこで神の御言葉への敬意を学び、御言葉の暗唱をし、音楽を愛する心が育まれました。妹が二人いて、二人は一卵性の双子です。幼い頃、私たち姉妹…ではなく(笑)、私たち兄妹は、教会で一緒に賛美を捧げていました。私は自分への挑戦として、賛美歌の四声(ソプラノ、アルト、テナー、バス)を全部歌い分けようとしていたこともあります。

それが私の教会経験の中心でしたが、中学生になる頃、家族はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会へ移りました。私はユースグループに深く関わるようになり、そこで聖霊の臨在をはっきりと体験しました。特に日曜夜の礼拝と、祭壇の周りでの祈りの時間は、神の臨在に満ちていました。牧師はジョン・バニー先生でした。先生ご夫妻は宣教師でもあり、聖霊の働きについて語る証しや、宣教への強い強調は、私の魂に消えない刻印を残しました。

聖霊のバプテスマ、そして奉仕への召し
当時の私は、静かで、内気で、とても内向的で、社会的にも不器用な十代でした。人と目を合わせることができず、社交の場を避けるような少年でした。ある日曜の夜、私は講壇の前で聖霊のバプテスマを求めていました。祈ってはいたのですが、声は出せず黙っていました。牧師は、声に出して祈り、声に出して賛美し、聖霊に働いていただこう、と励ましてくれました。私はそれに従い、手を少し上げながら祈っていました。その時、聖霊がとても明確に語られました。『手を上げなさい。』実は私は汗をかきやすく、手を上げると脇の下の汗が見えるのが恥ずかしくて、手を上げたくなかったのです(遺伝的なもので、母は若い頃に汗腺を取る手術まで受けたほどでした)。その瞬間、私はもう一度はっきりと聞きました。『手を上げなさい!』私は従って手を上げ、礼拝し始めました。すると私は、異言を伴う聖霊のバプテスマを受けたのです。御霊の臨在の中で礼拝していると、聖霊はさらに明確に、『あなたの人生を奉仕の働きに捧げなさい』と語られました。私は自分が裏方で日曜学校のカリキュラムを書くような働きをするのだろうと思っていましたが、私は主にこう答えました。『どこへでも、いつでも、何にでも!』主は本当に、その言葉どおりに私の人生を導いてくださいました。
その後、私はミネソタ州ミネアポリスにあるノース・セントラル・バイブル・カレッジへ進むよう導かれました。故郷のオハイオ州クリーブランド近郊からは遠く(約1200キロ)、けれどもユース牧師のジェリー・ハント先生が私と数人を連れて訪問した時、車を降りる前から、ここが主の召しの場所だと確信しました。
ノース・セントラルでは聖歌隊で歌いました。そこでもう一人の学生『リッチ(Rich)』が私のルームメイトになるのですが、そこには少し複雑な経緯がありました。彼はいろいろな事情を抱えていて、私は聖歌隊の中で彼の妹と話すようになりました。そこでポーラと出会ったのです。続きは後ほど。
ポーラの物語
ポーラの物語は、彼女の三世代前から始まります。曾祖父オリバー・ワイドマンは救われ、ある時、列車でたばこを売る仕事を頼まれましたが、良心に示されてそれを断り、仕事を失いました。家族はオハイオ州クリーブランドへ移り、彼は路上で福音を語る伝道者となり、多くの人に福音を伝えました。その流れは子どもたちにも受け継がれていきます。オリバーの娘ルースは中国へ宣教師として行き、そこで宣教師ビクター・プライマイアと出会って結婚します。二人の息子デイビッド・プライマイアも中国で奉仕を続けました。オリバーとミニーのもう一人の娘エリザベスも中国へ渡り、宣教師ジョージ・ロイ・ウッドと結婚しました。
その息子もまた奉仕者となり、ジョージ・O・ウッドは後にアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教団総理(General Superintendent)となります。
ポーラの祖父は、オリバーとミニーの息子ポール・ワイドマンで、彼はヴァージニア・リンジーと結婚しました。ヴァージニアの叔母リディア・リンジーはすでに宣教師として仕えており、日本の仙台で、宮城学院(女子教育の学校)で宣教師教師として奉仕していました。彼女は1907年から第二次世界大戦まで奉仕し、戦後も再び仙台に戻って1952年まで奉仕しました。1951年には、日本の女性教育と社会への貢献が認められ、昭和天皇より『勲四等瑞宝章』を授与されています。


さて、ポールとヴァージニア、ポーラの祖父母の話に戻ります。二人は西アフリカへの開拓宣教師として22年間奉仕し、その後は東京でもしばらく奉仕しました。二人には息子ジョン・ワイドマンがいて、妻ベティとともにアフリカの宣教師となりました。そして娘——フェイス・ワイドマンもいました。
フェイスがポーラの母です。フェイスは聖書学校でエド・ファーガソンと出会いました。二人には息子が二人と、娘のポーラが与えられました。


ポーラが2歳の時、一家は宣教師としてアフリカへ向かう船に乗りました。最初の任期で、息子(後にポーラの兄リッチ)が重い病気になりました。これは大きな不安でした。というのも、フェイスはアフリカで病気により亡くなった兄弟を失っていたからです。のちにリッチは、抗マラリア薬にアレルギーがあることが分かりました。医師は両親に、『もし彼を連れてアフリカに戻れば、彼は死ぬ』と告げました。そこで一家はオランダへ移り、ポーラの幼少期から思春期にかけて、オランダで宣教師として奉仕することになりました。

日本への召し
ポーラの父(エド)もまた、主とアッセンブリーズ・オブ・ゴッド世界宣教(Assemblies of God World Missions)に対して、『必要とされる所ならどこへでも行きます』と約束していました。すると彼らは尋ねました。『沖縄はどうですか?』——『え?どこですか?』当時、彼らは沖縄がどこにあるのかさえ知りませんでした。それでも彼らは『はい』と答えました。来日準備の中で、彼らはユースパスターが必要でした。しかし、支援集めで訪問する教会からユースパスターを“引き抜く”ことは宣教師にとって大きなタブーです。そこでエドとフェイスは、どこで人材を見つければよいか悩みました。二人は息子リッチに相談しました。すると彼は言ったのです。『ダンは、どこかに行きたいと思っているはずだよ。』
その通りでした。私はミネソタ州の教会で副牧師として忠実に奉仕していましたが、主は少しずつ私を“手放し”、次の場所へ導こうとしておられるのを感じていました。実際、その時私は母と電話で話していて、ある教会の面接ではとても好意的に迎えられたのに、役員全員が霊のうちに『この先は進めない』というチェックを感じている、と共有していました。私は母に、『アブラハムとイサクのように、主が私をもっと遠くへ行く覚悟へと整えておられる気がする』と話していたのです。その電話が、コールウェイティング(キャッチホン)で中断されました。かけてきたのは、ポーラの父エド・ファーガソン。沖縄で一緒に奉仕しないかという招きでした。私はすぐに、これが主の望みだと分かりました。そしてそれは、『どこへでも、いつでも、何でも』が、さらに大きな確かさとして現実になることを意味していました。
さて、ダンとポーラの話に戻ります。私は知らなかったのですが、ポーラ自身も『仕事(旅行業界でのキャリア)を一度手放し、1年間両親と沖縄で奉仕しなさい』という主の導きを感じていました。理解していただきたいのですが、大学時代の私たちは、私は“兄のうるさい友だち”、彼女は“友だちのうるさい妹”という関係で、お互い特別な感情などありませんでした。ところが沖縄に着くと、エドが私たちを座らせて言いました。『二人とも、仲良くしなさい。』——そして私たちは本当に仲良くなったのです。私は1991年11月に沖縄へ、ポーラは1992年1月に到着し、3月には交際、4月に婚約、そして1992年7月に結婚しました!長い間お互いを知っていたからこそ、『これは神の計画だ』とすぐに分かりました。私たちは沖縄で、ユース、ヤングアダルト、礼拝、その他さまざまな分野を担う副牧師として奉仕し、その後、主任牧師(Lead Pastor)として教会を導くようになりました。

沖縄で私たちは、日本の地域社会の中で神が働かれる姿を見始めました。ネイバーフッド教会(Neighborhood Church)は長年、米軍関係者に仕える教会でした。しかしエドとフェイス、そしてポーラと私は、周囲の沖縄の人々/日本の人々にも福音を届けられると信じていました。祈る中で、主は礼拝の日本語通訳を始めるビジョンを与えてくださいました。東京に行った時、秋葉原でFMトランスミッターと複数のFMラジオ、ヘッドセットを購入し、自前の同時通訳システムを作りました。やがて多くの日本人が礼拝に来るようになり、イエスに従う決断をする人々が起こされました。では、彼らをどう弟子訓練するのか?主はそこに、ミルトとキャロル・アホラ夫妻を送ってくださいました。夫妻は30年前に日本で宣教師として奉仕しており、ミルトは当時、米軍に関わる民間技術者として派遣されていました。二人は流暢な日本語で忠実に仕え、主が導かれるところには、主が備えてくださるのだと、改めて確信しました。


予期せぬ転機
私たちは、沖縄にずっといるつもりでした。ネイバーフッド教会の主任牧師としての奉仕が大好きで、島も人々も愛していました。二人の子どもも沖縄で生まれました。彼らは私たちにとって奇跡の賜物でした。日本の健康保険制度と、アドベンチスト・メディカルセンターで受けられた不妊治療が、私たちにとって大きな助けとなったからです。アメリカなら費用的に到底難しかったでしょう。日本にいたから子どもたちが与えられた——私たちはいつもそのことを感謝しています。長女はダニエル、そして弟がクリスチャンです。

ところが主は、私たちに明確に語り始められました。私は9か月間、神と“議論”しました。去りたくなかったのです。しかし、主が私たちをアメリカへ戻し、牧会へと召しておられることは明らかでした。
アメリカでは、教会の『牧師招聘委員会(pastoral search committee)』に履歴書を送り、牧師候補として選考を受けるという形が一般的です。私たちは、健康で規模も大きい教会から、いくつも良いオファーをいただきました。けれども主は、それらに『ノー』と言いなさいと明確に語られました。最終的に主が導かれたのは、わずか20人の教会でした。しかも直近6か月で2度の分裂を経験し、教区(ディストリクト)は教会を閉鎖しようとしていたのです。主は言われました。『そこが、あなたが行く場所だ。』——どこへでも、いつでも、何でも…。

訓練の時
私たちは、『祈り、御言葉を教え、人々を愛すれば、教会は健全になり成長する』と信じていました。だからその通りにしました。人々を愛し、仕え、説教し、教え、聖霊の臨在を大切にする教会文化を育てようとしました。ところが教会はなかなか健全にならず、成長もしませんでした。そんな時、地区の集まりで、フロリダ州のサウスイースタン大学(Southeastern University)で、1年間の集中型修士課程が開講されると聞きました。毎月1週間フロリダへ行き、ホテル、レンタカー、授業料——現実的には不可能に思えました。でも主は私の心を押し続けられました。そして、授業開始のたった1週間前、私は入学を決め、ノートパソコンを買い、航空券を買い、泊まる場所も分からないままフロリダ行きの飛行機に乗りました。すると主はそのフライト中に宿泊先を開いてくださり、さらにその後、引退した牧師夫妻が毎月私を自宅に泊めてくださるようになりました。主が導かれるところには、主が備えてくださる——その真実を味わいました。
その学びの中で私は、後に『Acts 2 Journey(A2J)』で用いられているものと非常によく似た原則を学びました。これらの原則とプロセスは、オハイオの教会で私たちが取り組む中心的な土台となりました。私たちはビジョンチームを立ち上げ、共にそのプロセスを歩みました。すると教会は健全になり、成長し、地域の人々に届くようになりました。
その年、私の母は肺がんを患い、肺を一つ切除しました。がん自体は癒されましたが、その後の別の手術の際、病院内で黄色ブドウ球菌(スタフ)感染を受け、それが心臓にまで及んでしまいました。母は、私が修士課程を修了するほんの数か月前に、イエスのもとへ召されました。
オハイオで過ごした日々を振り返ると、神が母に、孫たちと共に過ごす時間を与えてくださったその5年間を、私たちは深く感謝しています。母が生きている間に、愛する孫たちと時間を分かち合うことができたのは、まさに神の完全なタイミングであったと感じています。
その後、神は私たちをフロリダの教会へ導かれました。その教会は、私たちが赴任する前から内部の混乱を経験していました。さらに、私たちが到着した年に不動産市場が崩壊し、地域全体の経済状況が深刻になりました。教会は、以前は8人いたスタッフを雇い続けることができなくなりました。私たちは学んだことを実践しながら、次世代に投資することの価値も学びました。私は個人的に4人の若い大人をメンタリングし、彼らが主要なミニストリーをリードするようになりました。『万人祭司(priesthood of the believers)』の真理のもと、多くの人が立ち上がり、奉仕が前進しました。私たちがただ主の召しに『はい』と答え続ける時、主は忠実であり、力強く働かれることを見ました。
宣教への再召命、そして日本へ!
その後、主は私たちを再び宣教へと導き始められました。祈る中で、私たちは国際教会を牧会することになると確信しました。どの地域へ行くべきかを祈ると、ポーラが思春期を過ごしたヨーロッパへ行くことも簡単に思えましたし、アフリカの聖書学校で教える招きも以前にいただいていました。では、どこへ?祈る中で、私たちの霊は再び日本へと引き寄せられました。それは沖縄への感情的なつながりだけではなく、本土日本へ導かれているという感覚でした。
祈る中で主は『Yokota Church(横田教会)』を思い起こさせてくださいました。私たちは以前、東京エリアを訪れた際に数度ここを訪れ、私はそこで説教したこともありました。教会の状況を尋ねると、前任の牧師ご夫妻は、アメリカにいる子どもや孫のもとへ帰るため、後任を探しているところだと分かりました。彼らは本来2年のミッショナリー・アソシエイト任期のつもりが、忠実に8年間も仕えてくださっていました。地域ディレクターからそれを聞いた時、私たちは『ここが主の導きだ』と確信しました。

私たちの支援を集めるプロセスは、教会を訪問し、教会や個人の方々に月々の支援者となっていただくことです。私たちは2019年に宣教師として再任命され、巡回(itineration)を始めました。ところがCOVIDが起こりました。数か月間、教会訪問ができなくなりましたが、それでも主は必要額の10%分の月額支援が増えるという形で備えてくださり、御心を確認してくださいました。私たちは必要支援を満たし、2021年に来日する準備が整いましたが、日本の入国制限でビザが取れませんでした。

そこで私たちは、アメリカにいながら土曜夜にオンラインでライブ配信し、日本の日曜礼拝に合わせて『テレ・パストリング(遠隔牧会)』を1年間行いました。やがてついに、2022年5月に日本へ到着しました。主がこの召しの地へ再び私たちを連れ戻してくださったことを、私たちは心から喜びました。
私たち夫婦が戻っただけではありません。娘のダニエルは2020年にエバンジェル大学(Evangel University)を卒業し、主から『1年間、両親とともに日本で仕えなさい』と語られました(結果的に彼女は約3年間仕えました)。興味深いのは、ポーラの大叔母リディアから始まり、東京で奉仕した祖父母、沖縄で奉仕した(岩国の教会も開拓した)両親、そしてポーラと私へと続いた流れが、今度は娘ダニエルを通して日本で続いたことです。1907年から数えると、ポーラの家系は5世代にわたり日本で宣教師として仕えてきたことになります。
またアメリカにいた時、私は教会健全化のミニストリー『Acts 2 Journey(A2J)』のファシリテーターとして訓練を受ける恵みにも与りました。日本へ向かうことをアルトン・ギャリソン先生に話した時、先生は『日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド(JAG)は、何年も前からA2Jが日本に来ることを望んでいた』と教えてくださいました。その瞬間、私は思わず言いました。『この20年の歩みが、ここに来て初めて理解できた気がしました。』私たちは日本を離れたくありませんでしたし、去ることはずっと不思議でした。

主はこの20年間を通して、牧師たちの葛藤、ミニストリーの困難さを本当に理解するために必要なことを、私たち自身が学ぶことによって、私たちを備えておられました。それは、「Acts 2 Journey」のような聖霊に力づけられたプロセスの中にある希望を、私たち自身が深く理解するためでした。このプロセスは、牧師たちとビジョンチーム、そして教会そのものを健全へと導き、成長させ、地域の中で与えられた使命を果たせるよう備えるものです。
この2年間、日本でA2Jに参加してくださった牧師先生方、ビジョンチームの皆さん、そしてJAG A2Jプロジェクトチーム、三箇先生に心から感謝しています。3年目を迎えるこれから、さらに多くの教会が力づけられていくことを願っています。私たちは、忠実に仕えながらも疲れ果て、『できる限りのことをしているのに教会が苦しい』という牧師の気持ちを知っています。同時に、希望と期待が回復し、効果的なミニストリーが生まれて教会が息を吹き返す喜びも知っています。主が私たちをここへ連れてきてくださり、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの諸教会で神がなさっていることの一部にしてくださっていることを、私たちは本当に感謝しています。
私たちはまた、JAGの牧師先生方とできる限り協力し、共に歩みたいと願っています。これまでにも、いくつかの教会や牧師先生方と奉仕を分かち合う機会が与えられ、複数の教会で説教の奉仕をさせていただけたことは大きな名誉でした。日本全国のJAG諸教会で神がなさっていることの証しを聞くたびに、私たちの心には希望と信仰が満ちてきます。聖霊の力によって、イエスのいのち、光、愛が、この日本という国に輝き出すことを、私たちは心から期待しています。



私たちの第一の責任は、横田教会を牧会することです。私たちは、仕えている三つのコミュニティすべてにおいて教会が成長していくのを見ることができ、本当に祝福されています。すなわち、米軍コミュニティ、国際コミュニティ、そしてもちろん日本人コミュニティです。私たちの礼拝は英語で行われていますが、ヘッドフォンを通して日本語に通訳しています。また、日本語のライフグループがあり、さらに新しく信仰を持った方々のための個別的な弟子訓練も行っています。この弟子訓練には、JAGの「Start! Christian Life」『スタート!クリスチャンライフ』の教材を用いています。

私たちは、横田教会を「触媒(カタリスト)」となる教会(編集者注:「触媒」とは、動きや変化を加速させる存在のこと)であると考えています。まだ信仰を持っていない日本の方々が、好奇心から、英語話者の中に身を置きたいという思いから、国際的な環境に居心地の良さを感じて、友人(英語話者または日本語話者)に招かれて、あるいは聖霊に導かれて来られることを祈っています。そして、この国際的な教会が持つ「触媒」としての働きを通して、イエスから救いと新しいいのちを受け取る場所へと導かれることを祈っています。私たちは、人々が私たちの中にいる間に、聖霊がイエスを示してくださり、また聖霊の力と臨在を感じ取ることができるようにと祈っています。


また、私たちが「ブリッジ・ピープル」と呼んでいる方々の存在にも感謝しています。彼らはバイリンガルで、言語の壁を越える架け橋となり、福音が分かち合われ、関係が築かれ、弟子が育てられていくのを助けてくれています。私たちは、聖霊の力強い働きが日本全体を覆い、多くの人々がイエスのもとへ導かれることを祈っており、その中で神がなさっている御業の一部に加えられていることを光栄に思っています。
個人的なこととして、私たちには二人の子どもがいます。娘のダニエルは日本を離れ、アメリカ空軍の士官として任官しました。また、彼女はアッセンブリーズ・オブ・ゴッドのライセンスを受けた牧師でもあります。軍のコミュニティの中で、今も彼女の人生を通してイエスの光を輝かせ続けていることを、私たちは感謝しています。


息子のクリスチャンはアディソンと結婚し、4月に私たちにとって初めての孫が誕生しました。孫娘の「トリニティ」は、世界で一番かわいい赤ちゃんです!ええ、親ばか(祖父母ばか)かもしれませんが、本当に感謝しています。
また、クリスチャンはサウスイースタン大学で修士号を取得し、現在は軍に関連する進路を目指しています。そして、カイ・アルファ(Chi Alpha)で出会ったクリスチャンとアディソンが、共に強く、聖霊に満たされた信仰者であることを、私たちはとても感謝しています。距離が離れていることは簡単ではありませんが、私たちをつないでくれる神の恵みとテクノロジー、そして主がその召しに忠実である私たち一人ひとりを祝福し、守ってくださるという確信のゆえに、心から感謝しています。


私たちの証しを分かち合う機会をくださり、また日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの多くの牧師先生方から受けている温かさと愛に、心から感謝いたします。私たちはこの場所に置かれていることを光栄に思っています。『どこへでも』『いつでも』『何にでも』と主に応答した私たちを、主が素晴らしい横田教会の家族へと導いてくださり、主の忠実な僕たちから成るこの美しい家族——日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド——の皆さんと、人生と奉仕を共にできる特権を与えてくださっていることを、私たちは深く感謝しています。

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