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聖霊のバプテスマの恵み(39)勇亜弥

 

函館ベテル・キリスト教会
勇亜弥

滝のように注がれる神の愛

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

(ヨハネの手紙第一 4章16節)

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

滝のように注がれる神の愛

 私は教会で行われたユースキャンプで聖霊のバプテスマを受けました。 

 日曜学校でも、聖霊のバプテスマや異言について、教えてもらい、教区の中高生サマーキャンプでも、求めれば与えられると御言葉が語られていました。求めれば与えられるなら、頂きたいと思い、教区キャンプの夜、聖霊のバプテスマを求める人のための招きの祈りが導かれるときに前に出て、祈っていました。その時も、神様の愛がわかり、聖霊様の豊な御臨在の中、祈りが導かれ、悔い改めと、神様を求める祈りをしたことを覚えています。しかし、その時は異言で祈ることはできませんでした。 

 その後、教会のユースキャンプに参加しました。そのキャンプでも、聖霊のバプテスマを求める祈りの場が導かれ、私もその場所に出て、祈り求めていました。牧師先生が、「ハレルヤ、ハレルヤ、と声を出して祈ってごらん。」と、アドバイスをくださいました。「悔い改めるべきことがあるなら示して下さい。求めます。与えて下さい。」と祈りつつ、ハレルヤ、ハレルヤと声を出して祈っていました。後ろで、日曜学校の先生が、ずっと手を置いて祈ってくださり、しばらくお祈りしていると、天から神様の愛が、滝のように私の上に注がれるのを感じました。神様の愛は、読むだけ、聞くだけのものではなくて、本物なんだということを、感じました。それがとても嬉しくて、心が満たされて、涙が流れてきました。泣きながら、またしばらく祈っている時に、ハレルヤ ハレルヤという祈りの言葉が、徐々に変えられて、自分の意思ではない言葉が、口から出てきました。神様の臨在に覆われて、満たされる経験でした。時間を忘れて祈っていました。教会でのキャンプの2日目の出来事でした。 

 次の日の朝、起きてみると、景色が変わってみえました。空気がキラキラしていて、素晴らしい世界に変わっていました。これがあれば、何もいらないとおもいました。また、聖書に書かれていることは、本当に体験できるのだと私の信仰が、引き上げられました。 

 その恵は今も続いていて、異言のバプテスマを受けてから、日本語や自分の考えを超えて祈ることができる恵みを体験しています。日本語で祈るときは、自分の頭にあることしか、祈れません。でも、日本語で祈り、異言で祈り、日本語で祈り、異言で祈りということをしていると、今まで考えの及ばなかった、国のため、世界のため、人のために祈りが導かれることがあります。また、異言で祈るときに、聖霊様に覆われる、その臨在を顕著に体験することがあります。 

 感じるか感じないかは、私側の問題で、あの時感じた、滝のようにふってくる神様の愛は今も私に注がれていて、心を満たしてくださる聖霊様は今も私のうちにおられます。成就される約束と、注がれた聖霊様に心から感謝し、お証とさせて頂きます。

この証は、書籍『聖霊のバプテスマの恵み』との連動企画です。
書籍はAG福音出版でお買い求めいただけます。

※教会名は、掲載時点のものです。

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