MENU

宣教師|木崎智之師&オリヴィア師②

わたしの日本での宣教師としての道のり

フィリピン・ベンゲット州コルデリラ山脈の町から、日本への宣教師として

オリヴィア・ラグマン・キサキ

 













木崎智之師&オリヴィア師

私の名前はオリヴィア・ラグマン・キサキです。家族や友人からはオリヴと呼ばれています。私はフィリピンのルソン島北部にある山岳地帯コルディリエラのベンゲット州マンカヤン出身です。クリスチャンホームで生まれました。

記憶にある限り毎週日曜日に自宅で礼拝を行っていました。巡回伝道者、宣教師、牧師、聖書学校の学生たちが訪ねてきて我が家に滞在したりしました。彼らは神様のみことばと自身の証しをシェアしました。その霊的影響は私の幼い心に深い印象を残しました。小学3年生の頃、ある牧師とその家族が私たちの町で教会を開拓するために来ました。私たちの家族は最初の会員となりました。9歳の時、キッズキャンプで主イエス・キリストに人生を捧げました。その後、聖霊のバプテスマを受けました。その時、私は心の中に理解できない何かが動き始めるのを感じました。それは後に、10代半ばになって「神の召命」として理解するようになりました。

私の母教会は、アントニオ・カプット師と妻のエリザベス師が牧会するアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会です。両親に加え、彼らは私の霊的な指導者でした。宣教師が時々教会を訪れ、滞在することもありました。1976年、日本の宣教師である佐々木正明師が私たちの教会を訪れました。これが私にとって初めての日本人との出会いでした。その後、佐々木先生とは様々なところで再会しました。私たちの教会堂の特徴的な三角形の形状は、佐々木先生の奥様が設計しました。その建物は、彼女の記憶を偲んで現在も残っています。 

佐々木陽子先生の設計によるマンカヤンAG教会

宣教師たちと会い、彼らの証を聞くことは、私が聖霊のバプテスマを受けた時から始まった心の動きをさらに刺激しました。大学1年生の時、その心の動きに耐えられなくなり、牧師に相談しました。彼は私が聖書学校に行くべきだと確信しました。両親の承認と祝福を得て、私は大学を離れ、山間の故郷から遠く離れたマニラのベテル聖書学校(BBC)へ進学しました。聖書学校の1年目に、私は日本人夫婦の内村保先生と尚子先生と出会いました。保先生はFEASTの学生で、尚子先生はBBCでいくつかの授業を受けていました。彼らと友人になりました。その頃、FEASTの舎監だった北野耕一先生とも出会いました。当時、FEASTはBBCと同じキャンパスを共有していましたが、後にバギオ市に移転し、名称がアジア太平洋神学大学院(APTS)に変更されました。

1988年に聖書学校を卒業後、アメリカ人宣教師のアーヴィン・ラザフォード氏の指導の下、アジア・ミニストリー・チームズ(AMT)で6ヶ月間の宣教訓練のためシンガポールに奨学金で赴きました。訓練後、チームと共にインドネシアのメダン、その後マレーシアへ派遣されました。フィリピンに戻った後、私たちの教区の聖書学校であるルソン聖書学院で教えるよう依頼されました。その時期、私はフィリピン・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの牧師として按手を受けました。また、その頃、韓国人宣教師のウォンスク・マ博士からAPTSで修士号を取得するよう招待されました。彼は当時舎監を務めていました。私はその招待を受け入れ、1993年に修士号、1995年に神学修士号をそれぞれ取得しました。私は、韓国のクリスチャンや会ったことのない人々から、3年間の神学訓練の学費を経済的に支援して頂いたことに感謝しています。これもウォンスク・マ博士の仲介によるものでした。 

APTS在学中、学校図書館の前で佐々木先生と出会ったことがあります。会話の途中で、彼は突然私に「オリヴ、日本への宣教師になりたいか?」と尋ねました。「5年間努力しても1人の決心者しか得られないだろう」と言いました。私は冗談だと思ったので、冗談交じりに「神が導かれるなら、なぜダメでしょう」と答えました。その時まで、私は日本を宣教地として考えたことはありませんでした。佐々木牧師との会話から間もなく、共通の友人を通じて木崎智之を紹介されました。友人たちは彼をトムと呼んでいます。彼は「イギリス英語を話す日本人」として紹介されました。英国アッセンブリーズ・オブ・ゴッド世界宣教局は、彼が日本に戻って宣教活動を行う前に、APTSで神学訓練を受けるよう勧めました。当時、私はマウンテン・チャーチ・ミニストリーに積極的に関わっていて、彼も友人を介して関与していたため、時々出会うことがありました。1年間の交際を経て1996年に結婚しました。

APTSで、トムと私は家族と共に勉強に来た日本の牧師、和田佳士牧師と知り合いました。彼と奥様から日本の宣教について学びました。彼らは、日本に移住して宣教を始める前に日本を訪れてその土地と人々を感じ取るようアドバイスしてくれました。和田牧師は私たちを京都の村上密牧師に推薦してくれました。彼と奥様は親切に私たちを迎えてくれました。1997年に私たちは彼らの教会のゲストルームに3ヶ月間滞在しました。トムは1998年に神学校を卒業しました。その後間もなく、私たちはフィリピンから日本へ移住しました。知り合いのいない状況だったため、和田牧師は再び私たちを大阪の高槻市にある藤井敬朗牧師に推薦してくれました。彼と奥様は、私たちを知らないにもかかわらず親切に受け入れてくれました。私たちはその教会の一員として3年間過ごしました。

2001年、私たちは東京の八王子市に移り、和田先生と奥様の実樹子先生と共に活動しました。この期間に、私たちは英国アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会の宣教師として任命されました。私たちはめじろ台シオンチャペルで協力宣教師として奉仕しました。この期間中、私たちは様々な牧師と出会い、異なる教会を訪問し、日本の伝道についてより深く学びました。和田先生と教会の支援、および船津行雄先生の励ましを受けて、2005年に「ティーンチャレンジ・インターナショナル・ジャパン」を設立しました。これは信仰に基づいて薬物依存症から回復させる世界的な宣教団体です。最初のセンターは2007年に沖縄の賃貸住宅で、ティーンチャレンジ・ハワイの卒業生である山城テモテをセンター長として開設しました。2011年には、内川牧師と奥様が提供してくださった土地を利用して、岡山にティーンチャレンジ・センターを建設しました。

2013年には、トムがセンターの運営を監督するため、八王子から岡山に移住しました。2020年にコロナが発生し、生徒とスタッフがいなくなりました。次に何をすべきか祈っていると、主は2021年に岡山に教会を設立するよう導いてくださいました。当初は私たちの家族4人+数人でスタートしましたが、主は新しい人たちを加えてくださいました。現在、子どもを含めて30人を超えるメンバーがいます。2025年11月に「ホープセンター岡山」の4周年を祝う予定です。主が私たちをここまで導いてくださったことに感謝するばかりです。また、宣教の働きを支えてくださったすべての方々に感謝しています。

ティーンチャレンジ10周年記念聖会(2015)
洗礼式(2024)

神の恵みにより、私は今ここにいます。聖書学校に行くことを決めてから、一度も振り返ったことはありません。日本に来てから食事には苦労しませんでしたが、2人の娘を育てながら言語と文化を学ぶことは簡単ではありませんでした。しかし、私たちを支えてくださった先生方や教会の方々に感謝しています。

日本に来て20年以上が経ちました。今なら、佐々木先生が「5年間努力しても、1人の決心者しか得られない」と言われた理由が理解できます。日本の伝道はフィリピンよりもずっと困難です。私はよく自分に問います。「私は最善を尽くしたか?日本での宣教師として何か貢献できたのか?」と自問自答しています。私はコリント人への手紙第一10章31節「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」を心に留めるよう努めています。また、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」(ヘブル人への手紙12章2節)ようにも努めています。

家族写真(2022)

※ これはオリジナルの英語原稿をDeepL.com(無料版)で翻訳し、少し修正したものです。

Information

HP、FB、インスタ、Xは「ティーンチャレンジ・ジャパン」、「ホープセンター岡山」または「木崎智之」で検索。
フォロー&コメント大歓迎。

この記事が気に入ったら
いいねしてね!

お友だちへのシェアにご利用ください!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

感想・コメントはこちらに♪

コメントする

CAPTCHA