
横山唯一
御霊の導きに身を任せて
風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。
(ヨハネの福音書3章8節)
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

私はクリスチャンの両親のもとに生まれました。そして、毎日早天祈祷会が開かれ、諸集会でも異言の祈りが満ちあふれていて、毎年浜名湖のほとり(旧・浜名福音荘)で断食祈祷聖会を行う教会で育ちました。私にとって異言の伴う聖霊のバプテスマは、ごく身近で自然なものでした。
小学生の頃、浜名福音荘で行われた聖会の中で聖霊待望会が開かれました。「私もいよいよ聖霊のバプテスマを受けられる」と期待して祈りました。長く祈りましたが、その時には受けられませんでした。助祷してくださった先生からは「もう少しだったね」と励まされました。しかし、私は「なぜ受けられなかったのか」と不満を感じました。
次に開かれた聖霊待望会で、私は前回より熱心ではないものの祈り求めました。ところがこの時、意外にもあっさりと受けてしまいました。私の心には、受霊した喜びよりも「なぜ前回受けられなかったのか」という口惜しさの方が強く残りました。
その後、私の生活には期待していたような劇的な変化はありませんでした。そのことでも「私は本当に聖霊を受けたのか」という疑う心を持つことがありました。
しかし今振り返ると、確かに御霊は私のうちに宿り、多感な思春期にあった私を助けてくださいました。その当時、自宅は教会から遠く離れていて、身近には私の家族以外のクリスチャンはいませんでした。学生時代、社会人時代にも様々な人生の岐路に立たされ、数多くの悪の誘惑もありましたが、その都度私は祈りへと導かれました。すると、不思議なことに進むべき道がその都度開かれました。それは自分の実力によることではなく、私のうちに宿る御霊の導きによるものであることを認めざるを得ませんでした。
「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」ヨハネの福音書3章8節(新改訳2017)
「信仰によって生きる」とはどのような人生か、自ら理解して選べるようになるには長い年月がかかりました。今までの人生は、私の願い通りに進まなかったかもしれません。しかし、私の願いをはるかに超えて良い道が開かれ、前進することができたと今、私は確信をもって言うことができます。信仰によって生きるとは、御霊の導きに身を任せて生きることです。御霊は、人が悩む時に道を開かれるだけでなく、一生のあいだ私たちを導き続けてくださる、まことの助け主です。

※教会名は、掲載時点のものです。

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