Coming Home
日本宣教師に召された証し
松永ダニエル師

(左からダニエル、エレナ、リオナ、和音)
私はクリスチャンホームに生まれ育ち、両親はとても熱心な教会員でした。両親は日本で生まれ育ち、私が生まれる前にアメリカへ移住しました。母は日本にいる時にすでにクリスチャンでしたが、父はアメリカに移ってからキリストを信じました。父がクリスチャンになった時、母がずっと願っていた「クリスチャンホーム」が実現したため、両親は私たちが常に教会に通えるようにしていました。
育った環境の中で
私の最も初期の記憶の一つは、2歳頃に教会で腕を骨折したことです。人によっては、それが「教会には近づかないほうがいい」という決定的な出来事になったかもしれません。しかし私はまだ幼かったため、そういった考えは全く浮かびませんでした。物心ついた時から、私にとって地元の教会はたくさんの時間を過ごす場所でした。
カリフォルニアにある私のホームチャーチでは、宣教が大きな重点となっていました。毎月宣教師が来て証しをしてくださり、年に一度は「宣教強調週間」がありました。8日間にわたって世界中から宣教師が来て、聖霊の働きを通して起こった素晴らしい出来事や勝利の証しをしてくださいました。この環境の中で育つ中で、私は「神の言葉を分かち合い、広めることはすべての信徒にとって重要で不可欠なことだ」と感じるようになりました。


宣教師の召し
ある夜、別の伝道集会で、伝道者が「男性は男の子に、女性は女の子に手を置いて祈ってください」と促した時がありました。その夜、私は神様が自分を宣教に召しておられると感じました。その時私はまだ7歳で、その意味を十分に理解していたわけではありません。当然、両親にそのことを伝えましたが、両親はそれを「7歳の子どもの一時的な気持ち」ぐらいに受け止めていたと思います。しかし後になって母は、私の召しが「一つの円として完成するのを見た」と言いました。母自身、日本に来た宣教師によって福音を聞き、救われたからです。
私のホームチャーチには、すべての年代のための多くのミニストリーの機会がありました。中学生になると、クワイアツアーや地域のアウトリーチなどの地元の働きに参加できました。高校生になると、それらの働きがより遠方・長期間のものになり、海外宣教旅行にも参加できるようになりました。そうした経験を通して、神様が私の宣教師としての召しを確認しておられると、さらに強く感じるようになりました。
宣教地を尋ねて
高校卒業後、私は聖書学校に進学し、宣教学を専攻しました。しかし、私は「自分がどの国で、どんな働きをするのか」が全くわからない唯一の宣教学専攻の学生だったと思います。祈りながら「どの国へ行くべきなのか」神様に尋ね続けましたが、聖書学校にいる間、明確な導きを感じることはありませんでした。

ただし専攻の中で「地域と宗教」を選ばなければならず、私が一番馴染みのあったアジアとアジアの宗教を選びました。クラスメートからは「日本に行く気はないの?」とよく聞かれましたが、私の答えはいつも「いいえ」でした。私は日本を「外国」として考えたことがなかったからです。幼い頃から毎年日本に行っていましたし、アメリカの夏休みが早く始まるため、小学校の頃は毎年6月と7月に日本の公立学校にも通っていました。中学生以降は学校に通うことはありませんでしたが、それでも毎年日本を訪れていました。親戚の多くが日本に住んでいて、友達もいて、休暇のたびに行く場所でした。しかし「宣教地」として考えたことは一度もありませんでした。

聖書学校の最後の年、私は教会で実習をし、複数の宣教旅行を率いる機会がありました。チームを率いて他国に行くたびに、現地の人々から「あなたはどこの国の人ですか?」と聞かれました。私は「アメリカです」と答えます。すると次に「ご両親はどこの国の出身ですか?」と聞かれ、「日本です」と答えると、彼らはとても喜んで、「日本人が大好きだ」と話し始めるのです。
日本企業が仕事を生み出したこと、道路やダムなどのインフラを整備したこと、日本政府が支援金を提供してくれたことなど、日本や日本人に対して非常に好意的な話をたくさん聞きました。特にその時期、テロとの戦いが長く続いており、アメリカの好感度が非常に低かった時期でした。ある時ジンバブエに行った際、一緒にいたチームメンバーは「白人が現地人の同行なしで街を歩くのは危険だ」と言われました。しかし私には「あなたは日本人だから大丈夫、自由に出入りしていい」と言われました。ジンバブエの人々は日本人に好意的だったからです。


日本に行く決断
聖書学校を卒業した後、私は大学院に進みました。この時期、私は宣教に対する自分自身の理解を深め始めました。当時、宣教界では大きな変化が起こりつつありました。従来は宣教師は主に「教会開拓」に焦点を当てるという考えが一般的でしたが、その流れが変わりつつあり、「創造的アクセス」や「ビジネス」や「クリニック」など、さまざまな形で国に入っていく宣教のあり方が重視されつつありました。

また大学院時代、コミュニケーションに関する本を読みました。その著者は「二人の人間が会話を始めた瞬間、すでにコミュニケーションの壁が存在する」と述べていました。なぜなら、二人とも互いに異なる背景や考え方を持っており、それが会話以前から影響しているからです。著者は、効果的なコミュニケーションのためには、二人の文化・考え方・年齢・性別などが近ければ近いほど、意思疎通がスムーズになると言っていました。特に福音を伝える時にそれが当てはまる、と。
その時、私は気づきました。「私は人生を通して、気づかないうちに、神様から日本で宣教をするための準備をされてきたのだ」と。そして日本人に福音を伝えるだけでなく、日本のクリスチャンたちが職場や世界で宣教できるように励ます働きに召されているのだと。

すでに述べたように、日本人は世界中で働いており、現地の人々から非常に良い評判を得ています。もし彼らがクリスチャンであれば、働きながら同時に福音を伝えることができるはずです。これらすべての理由から、私は日本に宣教師として行く決断をしました。
日本宣教師の働き
2005年、私は日本宣教師として任命され、2007年に福岡に着任しました。最初の任期と2期目前半は、百道シンフォニー教会でゴンザレス先生一家の教会開拓を助けました。
百道シンフォニー教会






2期目後半は、吉山先生の福岡キリスト教会で奉仕しました。
福岡キリスト教会





2017年には、派遣団体の方針により、家族とともにフィリピンへ送られました。バギオのアジア・パシフィック神学校で英語を教え、学生部副部長として仕えました。正直なところ、この時期は家族にとって非常に苦しい時間でした。日本に召されていると感じていたのに、フィリピンに送られたからです。

苦しい時期に祈っていると、神様は一人の学生のことを思い起こさせてくださいました。その学生は日本人で、宣教に対して強い心を持っていました。すでに10年以上前に「なぜ自分が宣教師なのか」を理解していましたが、この時改めて「私は日本人に福音を伝え、そして彼らが海外で福音を伝えるために備える」という自分の召しを思い出しました。まさに神の計画を信頼するための気づきの瞬間でした。
もしその学生がどうなったのか気になっているなら、彼女は現在、日本アッセンブリー・オブ・ゴッドから派遣され、フィリピンで宣教師として働いています。彼女の名前は山城良美さんで、福音宣教の仲間として共に働けることを光栄に思います。

※左端が山城良美師
幸いにも、フィリピンでの時期は永遠ではなく、2020年に日本へ戻ることができました。戻ってからは、矢吹先生の川崎ゴスペル教会で奉仕しました。
川崎中央福音教会




その後、私たちの働きは大きく変わり、現在は関東南西地区の地区宣教師として仕えています。私たちの役割は、必要のある教会や牧会者の代わりを務めたり、特別集会で説教したり、新しいアウトリーチを始める手助けをしたり、既存のアウトリーチをサポートすることです。また、日本の教会と短期宣教チームをつなぐ働きもしています。私たちのミニストリーは主に牧会と教会ケアであり、地域の教会が地域や世界により深く福音を届けられるようにサポートし、協力することを目指しています。
関東南西教区



これから何が起こるかは分かりませんが、私たちは神様の御手の中にあることだけは確かです。

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