
※本記事内の個人名や国名等についてイニシャルで表記しています。
御霊が結ばせてくださる実
~南アジア某国における
NGO設立の軌跡~

第2回となる今回は、当団体(NGO・D〈仮称〉)の児童養護施設におけるお証しをお分かちしたいと思います。
◆ 涙を聞いた日々
もし、あなたの教会で、子どもたちの泣き声が絶えず聞こえていたとしたら――。
B国にある、当団体(NGO・D〈仮称〉)が運営する児童養護施設では、かつて夜になると、男子寮、女子寮のそれぞれから、子どもたちの泣き声が絶えず聞こえていました。
この施設には、親と死別し、貧しい祖父母や親戚に預けられていた遺児たち、また親はいるものの、深刻な貧困の中で暮らしていた子どもたちがいます。彼らは、故郷を離れざるを得なくなった孤独と悲しみに加え、親や祖父母、親戚と引き離されたことによる喪失感や不安を、幼い心に抱えていたのです。
◆ 賛美へと変えられる日々
施設を始めて半年ほどが過ぎた頃、施設から聞こえる声は、誰の耳にも分かるほど、はっきりと変わりました。毎晩の泣き声に代わって、朝と夕に、子どもたちの大きな賛美の歌声と祈りの声が聞こえるようになったのです。
それは生活環境に慣れたからでも、規律ある日課に順応したからでもありませんでした。子どもたちの内側で、「私は神に愛されている存在だ」という確信が、静かに、しかし確かに育ち始めていたのです。

◆ 一人の少年の証し
ある日、すでに父親を失い、私たちの施設で生活している16歳の少年が、こう証ししてくれました。
「この施設は、僕にとって安心して生きられる場所です。僕はここで一人ではありません。ここには神様がくださった兄弟がいます。そして神様は、真に良い父で、僕と、ここにいる兄弟たちみんなを養ってくださっています。」

◆ 任命への応答-共同体の歩み
イエスは弟子たちにこう語られました。
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」
ヨハネの福音書 15章16節(聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会)
私がB国でこの働きに関わり、今日まで歩んでくることができたのは、神からのこの働きに対する任命への、私の信仰の応答だけによるものではありません。この働きを覚え、祈り、また支えてくださっている日本の多くのクリスチャンの兄弟姉妹の、信仰の応答がありました。
同時に、この地に立てられているB国のスタッフ一人ひとりもまた、神の召しに応答し、祈りをもって日々子どもたちに仕え続けています。神の愛を語り、かつ具体的な行いとして表し続けている彼らの忠実な働きは、この働きに欠かすことのできないものです。
そして何よりも、その祈りと献身の一つひとつに応えて、働きを導き、実を結ばせておられるのは主ご自身です。遣わされたところで実が結ばれていくのは、人の力や熱心によってではなく、恵みと慈しみに富んでおられる聖霊の御業なのです。

◆ 日々の礼拝と御言葉の実践
当団体の施設では、日々の生活の中心に聖書があります。朝と夕の礼拝において、施設のスタッフは「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」という御言葉を、子どもたちに語り続けてきました。
そして、その御言葉をただ口にするのではなく、日々の関わりの中で実践し続けてきたのです。神の言葉が語られ、また実践される中で、子どもたちの恐れは平安へ、不安は信頼へ、涙は賛美へと、少しずつ変えられていきました。

◆ 洗礼と聖霊のバプテスマ
今では、毎日の礼拝において、スタッフはただ礼拝者として参加する側となり、子どもたち自らが礼拝の内容を考え、聖書を朗読し、祈りと賛美を導き、さらにはメッセージを語るようになっています。
施設の子どもたちは、一人ひとりが神の恵みのもと、個人的にイエス・キリストを信じています。中学生以上の子どもたちは皆、自らの意思によって受洗の決断をし、洗礼を受けました。
また、子どもたちの多くが、日々の深い祈りの生活の中で、聖霊のバプテスマの恵みに与りました。主の臨在に触れ、涙を流しながら祈る姿は、今も生きて働かれる聖霊ご自身の顕著な御業です。
◆ 祈りは支援者へ、そして世界へ
子どもたちは日々、日本の支援者一人ひとりを覚え、また支援教会を覚えて、祝福を祈っています。また、日本をはじめとする世界の社会問題や大きな事件、自然災害のニュースを聞くと、緊急で集まり、心から心配し、時に涙を流しながら祈っています。
◆ 御霊の実が結ぶ日常
御霊の実は、子どもたちの生活の中で具体的に現れています。
ある暑い日のことです。施設のスタッフと子どもたちが一緒にボートピクニックに出た際、強い日差しの中で体調を崩す子どもが出ました。すると年長の子どもが、すかさずその子のそばに寄り添い、自分の膝にその子の頭を乗せ、自分の持っていた傘を差して日陰を作り、静かに介抱を始めたのです。
またある日、移動の途中で、子どもたちの飲み水が足りなくなったことがありました。私が手元にあった水を差し出し、「欲しいだけ飲んでいいよ」と声をかけると、子どもたちはそれぞれの小さなボトルに、ほんの数口分の水だけを入れ、「ありがとう」と言って蓋を閉めました。

ある子に水を追加で注いであげようとすると、その子は「私はこれだけで大丈夫だから、他の子にあげて」と、はっきりと、しかし穏やかに言いました。
普通なら断らない場面でした。しかしその子は、自分の欲求を満たすことよりも、他の子の必要を優先したのです。
さらに別の日、外出中に突然の雨と冷え込みの中で、震えている子がいると、年の近い子が自分の上着を惜しげもなく脱ぎ、その子にかけてあげ、自分は何事もないように笑顔を保ちながら、寒さに震えて耐えていました。これらは誰かに命じられた行動ではありません。子どもたちが聖霊に触れられ、愛された者として生きる中で結ばれた実でした。
◆ 地域へと広がる実

御霊の実は、施設の子どもたちの間だけに留まりません。
子どもたちは学びの中で、プラスチックごみが地域にもたらす問題を知りました。すると彼らは、「これは自分たちとは関係ない問題」ではなく、「私たちの村の問題だ」と受け止め、自ら進んで地域のごみ拾いをしました。
村の人々に変な目で見られ、村の他の子どもたちに馬鹿にされながらも、拾ったごみを手に、「プラスチックごみは生き物たちに有害だから捨てないでね」と地域の人に声をかける子どもたちの姿は、かつて「守られる側」だった彼らが、今や地域を愛する隣人として遣わされている存在であることを示していました。
◆ 生きた福音の力の証し
ヨハネ15章16節の御言葉は、今、日本に生きる私たちにも問いかけています。
私たちは、イエスに任命され、遣わされている者として生きているでしょうか。
B国の子どもたちの人生のドラマは、遠い国の感動的な話ではありません。それは、イエスの任命に応答して遣わされるところに、今も確かに聖霊が働かれ、御霊の実が豊かに、しかも残る実として結ばれていることを示す、生きた福音の力の証しなのです。
第2回となる今回は、当団体(NGO・D〈仮称〉)の児童養護施設におけるお証しをお分かちしました。第3回となる次回は、当団体が取り組む教育支援センターの働きを通して、主がどのように子どもたちと地域を導いておられるのか、そのお証しをお届けしたいと思います。どうぞご期待ください。


*私たちは現在、新キャンパスにおける児童養護施設ならびに小学校建設プロジェクトに取り組んでいます。ホームページ「URL:delightbangladesh.com」をご覧いただき、祈りとご支援に加わっていただければ幸いです。

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