
長澤聖志
嬉しくて、嬉しくて
この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。
(使徒の働き2章39節)
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

私が聖霊のバプテスマを受けたのは、イエス様を信じて二ヶ月程経った頃でした。私はキリスト教の異端のカルトグループに所属していましたが、そこから助け出されてイエス様を信じる恵みにあずかりました。まだ水のバプテスマは受けていませんでしたが、聖書のお話しを聞くことの喜びを味わっていました。聖書を学ぶことは自分の信じていたことの間違いに気付くことであり、それと同時に聖書の約束に触れることでもあったからです。その中で聖霊のバプテスマについて聞きました。信じた者が聖霊に満たされる体験があるというのです。そしてこの約束は求める者に、今も与えられる約束だと知りました。
「この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」(使徒の働き2:39)
私は聖霊のバプテスマを受けたいと思いました。そしてその願いを神様に祈りました。そんなある夜、おそらく午前二時頃だと思いますが、布団に横たわって寝ていると「主をほめたたえよ」という思いが私の心にわき上がってきました。今思えば聖霊なる神様の語りかけではなかったかと思います。私は布団から起き上がり布団の上に座りました。語りかけにこたえて主をほめたたえようと思ったのです。しかし、「主をほめたたえよ」といわれても自分にできることは知っていた賛美を歌うことぐらいです。しかも信仰をもって僅かしかたっていませんから知っている賛美の歌も多くはありません。
しかし、その時知っていた賛美を歌いはじめ、その合間、合間に自分の言葉で祈り始めました。すると私の舌がもつれ自分の知らない言葉が私の口からでてきたのです。そのとき、私は「これが異言なのか」、と思いました。そして同時に、「神様がここにおられる」、「神様が来てくださった」、という思いがわき上がってきました。神様の圧倒的な臨在に私は包まれたのです。「一人暮らしのぼくの六畳一間の小さな部屋に神様が来てくださった」、その思いは私の心を喜ばせました。嬉しくて、嬉しくて仕方なかったのを覚えています。「神様がぼくを知っていて下さる、ぼくを大切に思っていてくださっている」ということが私のあらゆる感覚を通して伝わってきたのです。私は喜びの涙を流しながら異言で神様をしばらくほめたたえました。この異言と賛美は私が疲れて知らぬ間に眠るまでつづきました。
この体験は私にとって大きな体験でした。以前のグループでは、聖書の奇蹟は今は起こらないと聞かされていたので、聖書に書かれているような奇蹟を私は期待していませんでした。しかし、聖書に書かれていることがそのまま自分に起こったのです。この体験は、聖書のことばは真実であると信じることへと私を導き、今も私の信仰を支えてくれています。また聖書の約束を信じ求めて与えられた体験でもあったのです。神様は約束を真実に成し遂げてくださるお方であり、神様の約束を信じて求めることの大切さを知った体験でもあります。
神様の約束を握ってさらに聖霊の満たしを求めて歩ませていただこうと思います。私たちには聖霊に満たされることを求める恵みが与えられているからです。
※教会名は、掲載時点のものです。

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