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『献身生活70年の一齣』北野耕一師:月刊アッセンブリー誌NEWS連動

 月刊アッセンブリーNEWS連動
 -引退に寄せて-

 北野 耕一 師

中央聖書神学校前校長 
巡回教師 

 「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(1コリ15:10)と述べる使徒パウロの「今日」は、私の献身者生活70年(神学生時代の二年半を加算)を振り返った「今日」でもあります。いや、私の場合、「神の恵みと憐れみがなければ今日の私はない」と言い換えるべきでしょう。なぜなら、主を悲しませ、キリストの体を傷つけるような言動が余りにも多かったからです。そんな欠けだらけ土の器でも、主は用いて下さいました。あれもこれもと書き出すと、どれも中途半端で終わりそうなので、これまでの伝道・牧会の一齣だけを取りあげることにしました。

2022年3月31日に引退された先生方による手記です。
この記事は「月刊アッセンブリーNEWS 2022年5月号・引退レポート」に連動しています。ぜひそちらもご覧ください。

『献身生活70年の一齣』

アコーディオン,スピーカ-などを
装備して「いざ出陣!

 伝道師ととして活動を始めたものの、私の至らぬ所行の所為で、任命地のない「無任所」という身分となった私達新婚夫婦に、救いの手を差し伸べてくださったのはアール・テイラー宣教師ご夫妻でした。佐賀県の唐津聖書教会を私共夫婦に、そっくりそのまま移譲して下さったのです。1959年のことです。新来の私共と信徒との間に信頼感が生まれ、土地柄に馴染んできた頃、私の記憶から決して消え去ることのない「五間岩ミッション」プロジェクトのヴィジョンが、主から与えられました。

五間岩の山肌に点在する村落 典型的な家屋

 唐津市内から車で40分ほどの厳木(きゅうらぎ)町に五間岩と呼ばれる廃坑があり、その山肌には22軒の村落が点在していました。ライフラインはなく、貧困の極みの中を細々と暮らす住民でした。そこに接触する切っ掛けは、1959年9月26日に日本を襲った伊勢湾台風でした。惨状を知った米国のアッセンブリー教会が、大量の衣料支援を送って下さったのです。バザーを開いて資金にし、地方新聞やテレビのニュースに注意を払って使い道を探っていたところ、佐賀県にも廃鉱跡に住民票すら持たない家族が、生活を続けていることを知ったのです。早速その部落のある厳木町松尾町長の承諾を得て、厚生課長と現地を訪れました。日本にもこんな生活を強いられてる家族がいるのだという事実に衝撃を受けました。地方の村落に見られる暖かい共同体意識は皆無。それぞれが孤立してやっと生き延びるという極限の状況でした。そこで祈りの中に示されたことは、一時的な物質的支援だけではなく、村民の間に連帯感を醸成する場を提供することではないか、ということでした。教会員に計ったところ全員が一致してプロジェクトに参加することを表明してくれました。

無償提供の一軒家
建築現場に興味深く集まる子供達

 まずは子供からということで、「五間岩子供会」のビラを作成、正月が間近だったので、お餅と御菓子の包を全家族に配布することにしました。たった22軒でも険しい山肌を登らなければたどりつけないので、手分けしても、殆ど一日がかりとなりました。残念なことに人々の反応は冷たく、疑い深い目で見られたというのが共通した報告でした。最初の訪問は、寒さも手伝って空振り。何とか子供や親達の心のケアができないものかと、教会員と祈り、協議した結果、やはり必要なのは誰でも出入りできる集会所だということになりました。具体的な方策が示されるように祈り始めたところ、降って湧いたように、唐津市の進藤病院院長が唐津市内にある一軒家を無償で提供して下さったのです。それだけではなく、解体、運搬、再築すべての費用を負担して下さることになりました。早速町役場に出かけ、五間岩麓の土地の借用を申し出たところ、これも無償でと、全面的に協力してくれました。しかし、電気の架線を引き込む費用の捻出というハードルが立ちはだかったのです。ところが米国とカナダの教会から、思いも掛けぬ40万円相当の献金が送られてきました。更に、それを聞いた町長が自ら九州電力会社と交渉して下さり、工事費用の6割を九電が負担することになりました。厳木町の支援などを合わせ、こうして「五間岩ミッション」プロジェクトがみるみる具体化し始めたのです。早速、高校生や婦人部、壮年部が代わる代わる時間を割いて、土地の整地に取りかかりました。やがて建築が始まると、興味を持った子供達があちこちから集まるようになり、今までの堅い表情が少しずつ溶け始めたのに気付きました。私も何とか大人の心がつかめればと、彼らと一緒に廃坑にもぐって、いわゆる「ぼた拾い」(廃坑に残された粗悪な石炭を集めること)を手伝いました。余り効果が無かったようです。

 子供達の心の雪解けを察知した教会のメンバーは、この機会をのがすまいと、夏休みを利用し、バスをチャーターし、唐津聖書教会の日曜学校生徒と「虹の松原」で合同ピクニックを企画したところ、五間岩の子供達全員と一部の家族が応募に応えてくれたときには感動しました。これで一気に子供達との絆が結ばれたようでした。笑顔で近づいてくるようになりました。

唐津聖書教会日曜学校生徒と合同のピクニック
電灯点灯に大喜びの子供達

 1961年に「五間岩福音館」と名付けた集会所が完成。電灯が灯ったときには子供達が大歓声をあげて喜んだ姿が忘れられません。8月20日の献堂式には松尾町長をはじめ五間岩の住民、子供達全員、近隣の住民、宣教師代表などが大勢参加しました。式典の模様は西日本新聞にも大きく取りあげられました。この日を機会に病院長が無料定期的診断日を設け、投薬を続けて下さいました。それ以来福音館はいつも大人子供で満員。特にクリスマスは初めてのことで、子供達は早くから楽しそうに降誕劇の準備をする様子は唐津聖書教会の信徒にとって、何にも代えがたい慰めであり、喜びでした。ことにクリスマスのフィナーレに、母親達が輪になり炭鉱節を踊ったときの生き生きとした顔つきは今でも私の脳裏に焼き付いています。(クリスマスにふさわしい出し物だったかどうか、少々気になりましたが、これもキリストにある共同体意識啓発の一助になったことは確かです。) そうこうしている間に、帝王切開によって、赤児の頭と同じくらいの筋腫と一緒に、奇蹟の子、ジョイスがこの世に誕生しました。ハバクク書3章18節(Yet I will rejoice in the LORD, I will be joyful in God my Savior.)からの命名です。聞きつけた数人の親達が、摘み取った野花の花束と自然薯を携え、わざわざ五間岩から荒木産婦人科の病室を訪れてくれました。五間岩の人々と主にある愛の絆が一層深められたひとときでした。不登校だった中学生が何とか卒業し、就職先が決まったと、わざわざ自宅まで挨拶にきた時の感動は今も私の記憶から消えていません。

「五間岩福音館」献堂式(1961年8月20日)
ジョイスの誕生と大きな筋腫

 「五間岩福音館」に灯った光りは、いのちの光となり、生きる希望を与え、連帯感を生み出しました。しかし、子供達が次々と就職し、自立すると同時に、家族は徐々に五間岩を去り、今では、福音館は跡形もありません。しかし、初めてのクリスマスに大声で歌った「きよしこの夜」が、12月になると彼らの心にきっと甦ってくるのではないか、と信じています。

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