聖会Report! (舞台裏 & メッセージアウトライン)
この記事は、「月刊アッセンブリーNEWS 7月号」に連動しています。
聖会奉仕の各部門担当者が集合。
そして、音響・映像配信業者(プロ)により、たくさんの機材の搬入・設営が行われました。
- 業者人数 11人~13人(日によって異なる)
- 全員検温・抗原検査を各自実施、陰性確認の上で参加です。
講師:土屋 潔 理事長
新規加入教職認証・辞令式|正教師按手礼式
司会:天野弘昌師 WL:神谷恵美師 奏楽・ソンアシ:教職&CBC神学生
司会:林幸司師 WL&奏楽:東京メトロチャーチ
2022年5月3日(火・祝)
聖会Ⅰ(13:30-15:00)
説教要約(土屋潔理事長)
挨拶と報告
第42回全国聖会は、本来は昨年2021年に開催予定であったが、新型コロナウイルスの為に延期となり、今年2022年に完全オンラインという形で開催することになった。また、教団本部の建て替え計画についても2024年の着工を目指して進んでいるが、新しい施設においてもメディアを用いた発信がますます出来るようにと進めている。最低5億円の予算のうち4億はすでに捧げられているが、残りの1億においても必要が満たされるように祈り捧げて頂きたい。
序:復活の主を伝えること
使徒4:33は、使徒達が復活の主を力強く証したことを強調している。そして、それは2000年経った今も変わらない。私たちの信じる主は復活された主なのである。使徒達は、私たちがこの復活を通して様々な困難に打ち勝つことが出来るというメッセージを送っているのである。私は、使徒1:8にあるように、一か八か(1:8)の伝道を掲げている。それは、聖霊が降る時に、私たちは力を受けて地の果てまでも証人となるからである。そして、この今も生きておられる主の証人になるとはなんという幸いだろうか。私は10代の最初の頃に父を亡くした。喪失感の故に生きる意味を失い、自殺を考えた時もあった。家の仏壇に手を合わせながら祈り、神社に行っても祈った。そのような中で18歳の時に教会に導かれ、マタイ11:28の「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところにきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」という御言葉に出会った。それ以来、今日に至るまで、私は主の虜になっている。それは、私が生きた主に出会ったからだ。そして誰でも、どんな状況でも、求めるなら、あなたも今も生きておられるイエス・キリストと歩むことが出来るのだ。
1.世界が私たちを見ている。
1900年代初頭にアズサ街で起きた出来事が聖霊運動となって広がり、1914年には初めて米国アッセンブリーズが設立された。ここから世界中にアッセンブリーズが広がり、1949年には日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団も設立され、2024年には設立75周年を迎えようとしている。このような聖霊の働きの中において、今世界が私たち日本を見ているのだ。
1988年にWAGF (World Assemblies of God Fellowship; 世界アッセンブリーズフェローシップ連盟) が発足した。現在、世界には70万のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会があるが、WAGFは、地の果てまでも福音を届ける為に、キリストが十字架にかかられてから2000年後に当たる2033年までに100万教会を目指している。そして、私たち日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団も、また一人の魂の救霊のために用いられることを願っている。アジア48ヵ国には人口約45億人がいるが、韓国や中国を含む、アジアの諸国では近年著しいリバイバルが起きてきた。一方、日本においてはそうではなく、なかなかクリスチャン人口1–2%の壁を破れないでいる。しかし、あの使徒4:33で、使徒達が復活の主イエスを力強く証したのと同じように、今もアジアの隣国がこの復活の主を力強く証しているのだから、日本もまた同様にこの復活の主イエス・キリストを証していかなければならない。なぜなら、初代教会に起きた出来事は、あの時あの場所の昔話ではなく、今も起こることだからだ。
そして、その宣教を可能にするのは聖霊そのものである。使徒の働きで120名の者達の上に聖霊が降ったことが宣教を可能にしたように、この時代においても、聖霊に満たされ、地の果てまでも出て行き、遣わされたれた地において神の栄光をあらわすことが必要なのだ。そして、その復活の主は、教会を通して神の栄光を表し、神の国を表していくことを願っておられる。そしてその教会に、主は臨在されるのである。私たちがそれぞれ参加する教会の礼拝の中に、神は御国を表してくださり、癒しがあり、解放があり、豊かに証する者へと変えられていく。従って、教会だけが神の栄光を表すことができるのであり、教会こそが神の御国を体験させ、そして教会の中心にこそ復活の主が臨在されるのである。
日本はこれからどんどんと人口が減少し、地方では過疎化が進み、そういう中で教会に仕えている人々がいる。そのような戦いと苦しみの最前線においてこそ、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する217の教会が、それぞれの場所で栄え、また一つの体として祈りあい、前進「Go Forward」したい。神は、日本のクリスチャンに期待しておられる。それはイエス・キリストが諦めないお方だったからである。十字架の上にあっても最後の最後まで福音を説いたように、キリストの心を私たちの心としようではないか。
2. 宣教を阻むものを見定めること
エペソ2:2にあるように、悪しき者の働きは今も活発に存在している。しかし、ヨハネ1:5は「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」と語るのである。私たちは、闇が今も働いて、日本人の心を蝕んでいる現実を理解する必要と同時に、十字架が光であることを覚えたい。出エジプトにおける神の幕屋には至聖所と呼ばれているものがあったが、そこは神が最も豊かに臨在された場所である。シャカイナ・グローリーという言葉で呼ばれるその栄光とは、ヘブル語では、隣人の間に住む神という意味を持つ。それは、神が火と雲の柱によってイスラエルの荒野の旅を40年間導き、その中に住まわれたということに見られる。至聖所は大祭司しか入ることが許されない場所であった。しかし、新約聖書ではイエス・キリストが十字架に架かられた時、神殿の幕が上から真っ二つに裂けた(マタイ27:50–51)。そして、このイエス・キリストの十字架を通して、私たちは大胆に神の御前に祈り、集まることが許されるようになった。そして、教会の礼拝こそがこのシャカイナ・グローリーなのである。そして、私たちは、神を「アバ父」「お父ちゃん」と呼ぶことさえも許されるようになった。それは、神が私たちを通して地の果てまで福音を伝える為である。神はあなたを通して神の栄光、シャカイナ・グローリーを表わそうとしておられるのである。しかし、私たちの目の前には混乱とキリストに反するもので渦巻いている。知識や様々な状況の中において、世は復活の主を認めないという現状がある。だからこそ改めて聖霊の力を頂いて、出かけて行こうではないか。
司会:スリヤ佐野一夫師 WL&奏楽:東京シティチャーチ
2022年5月3日(火・祝)
聖会Ⅱ(16:00-17:30)
説教要約(永井信義師)
ヨハネの黙示録2:1~7(聖書 新改訳2017)
今回、私は会場に少人数が集まっている程度と思っていたが、一つの地方教会ぐらいの人数が奉仕している。みなさんは、本当に素晴らしい聖会に参加されている。神様は、日本の教会でもこのような形で聖会を開催させてくださっていることに感謝したい。コロナさえも用いてくださったと、神様の御業を見ることができる。この聖会においては『神様はご存知である』という一つのことを覚えていただきたい。黙示録2章、3章にある七つの教会への手紙には「わたしは知っている。」と書かれている。
まず、「エペソにある教会の御使いに書き送れ」と書かれているように、黙示録のこの部分が教会の御使いに対して書かれた手紙であることに目を向けたい。御使いと書かれているため、天使との印象を受けるが、ギリシャ語原文では、使者、遣わされた者という言葉が使われている。つまり、牧師や教会指導者に書き送られた手紙だと読むこともできる。ただ、この言葉は、他の聖書箇所で見ると、天的な存在(天使)に用いられることの方が多い。教会に神様から天使が送られていると考えると素敵だとも感じる。霊的な神様の働きが現代の教会においてもなされていると受け止めることができるのではないか。どちらの解釈も成り立つと思うため、神様の導きの中で選んでいただきたい。しかしなぜ、教会ではなく、御使いに対して送られているのか。直接送っても受け取らず、受け取ってもよく読まないからである。教会における大きな問題が指摘されていると思われる。私たちのもとに、ジャンクメールが届くことがあるが、内容をよく確認せず、捨ててしまうこともある。神様からの言葉も同じようになっていないだろうか。ある牧師は「天使ならば確実にこの言葉を受け止めるのではないか」と言った。教職者の方々、情報が溢れている時代にあって、御言葉をまずしっかりと受け止めるようにチャレンジされている。この重要性を受け止めていきたい。
この手紙には、パターンがある。全ての冒頭に自己紹介のようなものが書かれている。終わりの時代において、イエス・キリストはどのようなお方なのかと何度もこの手紙を読む毎に確認しなければならない。エペソでは、「右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方」。スミルナでは、「初めであり、終わりである方、死んでよみがえられた方」。ペルガモンでは、「鋭い、両刃の剣を持つ方」。テアテラでは、「燃える炎のような目を持ち、その足は光輝くしんちゅうのような、神の子」、「人の思いと心を探る者」。サルディスでは、「神の七つの御霊、七つの星を持つ方」。フィラデルフィアでは、「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎをもっている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開くものがない方」。ラオディキアでは、「アーメンである方、確かで、真実な証人、神による創造の源である方」。全てのことを成し遂げられるお方が私たちに手紙を書いてくださっている。この手紙を繰り返し読み、神様が私たちに対してどのような思いを持っておられるのかを確認していただきたい。
1:20に「七つの燭台は七つの教会である」と書かれており、1:13に「燭台の真ん中に」という言葉がある。イエス様は燭台の周りを歩き回られるだけではなく、真ん中におられる。教会の真ん中にいて、歩みを導き、私たちを知っていてくださるのだ。エペソでは、「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている」。スミルナでは、「わたしは、あなたの苦しみと貧しさを知っている」と書かれている。日本の教会は、あまり豊かでないと表現されるが、主は私たちの苦労や貧しさなどもご存知である。ペルガモンでは、「わたしは、あなたが住んでいる所を知っている」と書かれている。私は、黒川郡大衡村に住んでいる。人より熊などが通るような所である。このように説明してもイメージすることは難しいと思うが、神様はご存知なのだ。みなさんがどこで、どのような戦いをしているのかもご存知である。
また、ペルガモンでは、「そこには、サタンの王座がある」とも語られている。霊的な戦いの中にあっても、その労苦を神様はご存知であった。テアテラでは、「あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている」と書かれている。また、「あなたの近ごろの行いが始めの行いにまさっていることも知っている」とも書かれている。サルディスとフィラデルフィアとラオディキアでは、「あなたの行いを知っている」と書かれている。みなさんが神様のために何をしているのかを全てご存知であり、知っていただいていることをこの手紙を通して何度も確認することができる。
さらに、エペソでは、「よく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった」と評価されている。スミルナでは、「迫害の中で殉教した人があったこと」も書かれている。ペルガモンでは、「間違った教えに抵抗している教会の姿」や「その影響を受けている姿」を見ることができる。
フィラデルフィアでは、「少しばかりの力があなたがたにはある」と語られている。「少しばかり」という言葉は、原文ではミクロスが使われており、本当に少しという意味がある。ある牧師は、「顕微鏡で見ないとわからないぐらいのもの」だと解説した。日本は、未伝の地とも言われ、世界から見ると、小さな働きしかできていないかもしれないが、神様は働きに必要なものを備えてくださる。
ラオディキアでは、「冷たくもなく、熱くもない」、「なまぬるく、熱くも冷たくもない」、「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸である」と書かれている。私たちの弱さ、足りなさ、自分のことをよく分かっていないことも神様はご存知である。実際的に良い評価ばかりではないが、神様はしっかりと私たちを知っていてくださっている。
コロナ禍のこの二年、私は教会の中で使われる言葉に対して強調するべき言葉なのかといくつか考えた。その中で「健康的な教会」はこの世には存在しないことに気づかされた。「健康であること」ばかりが強調されすぎると、私たちがどのような者なのかに目が向かなくなってしまう。自分自身の姿をしっかりと見るならば、本当は健康でないことに気が付く。私たちは健康でないところを抱えながら、歩みは進められていくのだ。次に、これもよく言われるが「バランスのとれた」という言葉がある。しかしバランスをとることは、多くの場合何かに妥協することであり、神様が「今ここだ」という時に力を注ぐことができなくなってしまうことがある。あるアジアの実業家がマレーシアで行われたカンファレンスの中で「バランスなんて〇〇くらえ」と語り、バランスをとることはピエロが玉の上でジャグリングをすることにも似てひとたび棒を落としてしまったら、パフォーマンスは台無しになる。バランスをとることには一つが駄目になると全部が駄目になるという危うさもあるのだ。「心配のない教会」や「問題のない教会」は、この世には存在しない。そのような教会をつくろうとしてもすぐに破綻してしまう。しかし、問題の中に、神様は働かれる。私たちは自分たちが上手くすること以上に、神様が上手くしてくださることに期待していきたい。そして、大胆に証しする者となりたい。
七つの教会は、ラオディキアの教会のように、自分自身の姿が分かっていなかった。だから、神様がどのように私たちを見ておられ、用いようとされているのかに目を向けていく者でありたい。「なまぬるい」という言葉は、中途半端という意味であると私たちは考える。ある神学者は、「無自覚で無意識の問題だ」と解説した。私たちにある「これぐらいで良い」という思いなのである。神様についてこのような思いを持つことがないように注意したい。
私たちが聞かなければならないことは、御霊が語られることである。手紙の最後に共通して書かれていることは、「御霊が諸教会に告げられることを聞きなさい」という言葉である。私たちは自分自身が分からない。だからこそ、神様に聞かなければならない。何に聞くのか、何を聞くのかが私たちには問われている。イエス様はくり返し「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコの福音書4:9、23)と語られた。私は読むことや見ることが好きである。それらのものは、読む側や見る側がコントロールすることができる。それに対して聞くことは、情報発信者側がコントロールするのである。私たちは聞いていると、知らず知らずのうちに影響を受けていることがある。
昨晩、アルファインターナショナル主催のリーダーシップカンファレンスがオンラインで行われた。講師であったニッキー・ガンベル師は、「私たちの時代に必要なのは、イエス様がタボル山で変貌されたように、トランスフォーメーション(変革)することが必要」だと語られた。聖書に書かれている「変貌」という言葉は、毛虫が蛹になり、蝶になるプロセスの言葉が使われており、全く違うものに変わることである。聖霊が働かれる時に、私たちもイエス様の似姿へと変えられていくのである。この時、イエス様のそばに、モーセとエリヤが登場した。そこに雲が湧き起こり、「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」という言葉が聞こえてきた。その後、弟子たちがすぐにあたりを見渡すと、一緒にいたのは、イエスだけであった。人間的に尊敬できる人からアドバイスをもらうことも大切であるが、私たちが真に聞かなければならないことばはイエスのそれだけである。私たちは今までに色々なものに耳を傾けていた。なにより一番厄介なのは自分自身の内心の声であるが、最も聞かなければならないのは、イエス様の声である。手紙は繰り返している。「御霊が諸教会に告げられる言葉を聞きなさい」。
今、神様の前に静まる時を持ちたい。イエス様に集中していこう。神様が私たちに何を語り、何を願っておられるのかを聞いていきたいのである。「私はあなたに聞きます」と神様の前に耳を傾けていこうではないか。
司会:中山満師 WL&奏楽:十條キリスト教会
2022年5月4日(水・祝)
聖会Ⅲ(16:00-17:30)
説教要約(永井信義師)
序:
昨日の第二聖会では「神が私たちのことをご存じである」ということを一つのテーマにしたが、この第三聖会では「私とともに」というテーマを見ていきたい。聖会IIでは神は私たちに対して真実であることを求めておられるという内容を見た。主はスミルナの教会に対しては「死に至るまで忠実である (2:10)」ことを求め、ティアティラの教会には「ただあなたがたが持っているものをわたしが行くまで、しっかり保ちなさい (2:25)」と勧めた。サルデスの教会では「その衣を汚さなかった者が幾人かいる(3:4)」と語り評価した。そして、フィラデルフィアの教会には、「あなたは忍耐についての私の言葉を守った…あなたは自分の冠を誰にも奪われないように持っているものをしっかり保っていなさい (3:9–10)」と語られている。私たちは日本という国の中で便利な時代に生きており、何でも自分が手に入れたいものが手に入る時代に生かされている。しかし、だからこそ忍耐し、神が語る御言葉を受け取って守っていかなければならない。
1. 神は悔い改めを求めておられ、わたしたちを振り向かせようとされる。
このヨハネの黙示録の7つの教会に宛てられた手紙の中では、「悔い改め」が繰り返し語られている。悔い改めるという言葉自体が、方向転換を意味しているように、私たちは神様の方向に向きを変えて行くことが必要である。黙示録1:10や1:12では「私は主の日に御霊に捕らえられ、私のうしろにラッパのような大きな声を聞いた。(1:10)」「私は、自分に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。(1:12)」と書かれているが、ヨハネは神の声を聞いて振り向いた。同様に、神は時として、私たちが目指している方向と全く違うところから声をかけて下さる。神は、ペルガモンの教会に目を覚ますことを語られたように、またラオディキアの教会に熱心に悔い改めを求めたように、私たちに悔い改めることを求めておられる。
神はまた、私たちが悔い改めて神に方向転換し、神を愛し、互いに愛し合うことを呼びかけておられる。神はエペソの教会に、初めの愛に戻って、心をつくし、いのちをつくし、力を尽くして、神を愛することを(申命記6:5)を呼びかけた。キリストはマタイ22章の中で、さらに神を愛するように隣人を愛することを教え、ヨハネによる福音書の中では、互いに愛し合うことによって、キリストの弟子であることを全ての人が認めるようになると教えられた。パウロもまた、コリント人への手紙の中で一切のことを、愛をもって行うように教えている。この聖会は「一致、そして前進」というテーマが掲げられているが、この愛こそが、教会の一致についてのしるし、、、なのだ。神は私たち一人一人が悔い改め、神に方向転換し、神と互いを愛し合うように求め、招いて下さっているのである。
同時に神は、悔い改めてキリストに方向転換し、キリストの内に解決を求めることを呼びかけておられる。神はラオディキアの教会に「私から買う(3:18)」ことを教えておられるが、これは、神に目を向けて、神から解決を頂くことを示唆している。3:20には有名な「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」というキリストの言葉がある。それは「わたしはここにいる。わたしの方を見なさい」という呼びかけである。このキリストに救いがあり、癒しがあり、解決がある。ラオディキアの教会のようにキリストを締め出して、そのキリストに扉を叩かせているようではいけない。もし自らがそのようであると悟ったならば、よき羊飼いであるキリストの声をよく聞きわけ、キリストの方向に向きなおることが大切なのである。
2. 神はわたしと共におられる
キリストは、昇天される前に、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます(マタイ28:20)」と約束し、パウロもまた、この世の何ものも、キリストの愛から私たちを引き離すことはできない(ローマ8:38–39)と語っている。またヨシュア記1:9を含む多くの箇所でも、神がわたしたちと共にいることを約束している。しかし、ラオディキアやサルディスの教会へ語られた内容を見てみると、私たちが中心の歩みではなく、神を中心として、神の歩みに対して私たちが共に歩むようにと語っているのである。ヨハネ6:66で「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。」と書かれているように、キリストと共に歩むことは簡単ではない。カイル・アイドルマン(Kyle Idleman)はその著書『いちファンではなく-完全に献身したキリストの弟子になるということ-』(原書タイトルは:“Not a Fan: Becoming a Completely Committed Follower of Christ”)の中で、「キリストのファンはたくさんいるが、キリストに本気で従って行く人は少ない。しかし、キリストが求めておられるのはファンではなく、本気で従って行く弟子なのだ」と語っている。実際弟子とならない多くの者たちはやがてイエスから離れて行く。だから私たちが目指すべきことは、何よりもキリストと共に歩んでいくことである。その際に「私たちに何ができるだろうか」とか「私たちにはどういう資源があるだろうか」などと思い悩む必要はない。神は私たちをキリストと共に歩むようにと招いて下さっており、キリストが誰も閉じることのない門を私たちの前に開いてくださっている。そう、私たちが前進していく先にはこの神がおられるのだ。
ある国際会議で、新型コロナウイルスが世界に蔓延している状況下にあっても、神はこの状況を支配しておられ、今この時にしか開くことの出来ない門を開き続けて下さっていると語られたことを鮮明に覚えている。まさしく、神は神と共に歩む者たちの為に門を開いて下さっているのである。使徒2章では人々が「家で」パンを裂いた(2:46)ということが記されているが、神はコロナ禍の今、皆さんの「家」が宣教の拠点となっていくような働きをなさっているように思えてならない。わたし自身も教会開拓・教会増殖プロジェクトというものに関わっているが、そこでは、現在1万未満の日本の教会数から5万の教会数を目指している。これはまったく不可能に思えるようなゴールかもしれないが、私たちが神の働きを見、キリストと共に歩んで前進して行くならば、私たちもこの神の働きに加えられて行くことを受け止めたい。神は私たちの思いをはるかに超えて、ご自身の業を成してくださる方だからである。神は私たちの前に門を開いてくださっている。神に期待して、前進しようではないか。
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コメント一覧 (1件)
メッセージのアウトラインは、とても良かったです。文字に起こしたり、整理するのも大変だったと思うけど、読んでいて、聖会のメッセージが思い起こされ、とても励ましになりました。どなたか知らないが、奉仕者を通じた神さまの愛に感謝です。