MENU

宣教-「日本に遣わされて」ウィリアムス・ナタン宣教師①

日本に遣わされて① −始まり(origins)

 時が始まる前から、神様には計画がありました。 それは、神の御名が全地球に輝き、神の最も大切な被造物である私たちが、神との交わりのうちに歩むことでした。 最初から、神様の計画には日本列島が含まれており、ここに住む人々が神様を知り、愛するようになることでした。 私たち家族は、その計画の中のほんの一点に過ぎませんが、神様に用いられ、神様の目的を達成するために多くの素晴らしい人たちとパートナーを組む機会が与えられていることに感謝しています。

 歴史とは、日付、出来事、人、場所という大海であり、その緻密な情報の膨大さに圧倒されてしまいます。 しかし、振り返れば、人々の人生に神の御手が働き、神の目的が達成されていることがわかります。 この連載の中で、まず最初にアメリカにおいて神が私たち家族に何をしてくださったかを探り、次にここ日本での神の御業を探っていきます。 ただし、私たちは神様の御業に注目することが、ここでの焦点となるでしょう。私たちの物語を読みながら、あなた自身の物語と神様がなさったことを考えるよう、チャレンジしてほしいと思います。 そして、自分の人生やミニストリーにもっと大きなことが起こるよう、神様を信じるよう励まされることを願っています。

ウィリアムス・ナタン

Nathan Williams


National Director ・代表
Global University Japan

霊的な目覚め(Spiritual Awakening)

 私の母方の家系は1028年まで明確に遡ることができ、本当に興味深い人々(そして邪悪な人々も少なくありません)がたくさんいます。しかし、神の計画の小さな部分を最もよく理解するためには、1886年まで約150年遡るべきだと思っています。 これは、私の母方の家系における霊的な目覚めを意味するものだからです。 私の曾祖父であるエバーソン・ライダー・マッキニーは素晴らしい人でしたが、その幼少期は容易ではありませんでした。 彼の父親は彼が1歳の時に亡くなり、母親は彼が9歳の時に再婚しましたが、彼が12歳の時に亡くなりました。 2人目の実の親を失った彼は大きなショックを受け、”母が埋葬されるのを見たとき、太陽が二度と輝くことはないと思った “と書いています。 1年後に義父が再婚したため、エバーソンは義父母のもとで育てられることになりました。 1874年、エバーソンはクリスチャンとなりましたが、人生の確立に向け、多くの疑問、恐れ、不安を抱えていました。 1886年のある日、彼は自分の重荷をすべて主に委ねることを決意し、その時のことを回顧録「マイルストーン」の中で次のように記しています。

私は午後5時に自分の部屋に行き、ドアに鍵をかけました。 ベッドのそばに膝をつき、自分の所有物、野心、成功への願望、結婚など、すべてを捧げて何も残らなくなるまで、積み上げました。 そして、文字通り自分自身を取り上げ、その上に乗せました。 まるで閃光のように、私は栄光で満たされたのです。 聖霊がやってきて、私の全身を満たしたのです。 それは私の「個人的なペンテコステ」でした。 しかし、やがて私の左肩から「そんなことに何の意味もない、無駄なことだ」と言う声が聞こえてきました。 疑いの波が押し寄せてきて、すべての祝福をかき消してしまおうとしたのです。 私は飛び起きて、顔を上に向けて部屋を歩き回り、疑いの波が私を沈めようとするのに抵抗しました。 すると、その波は収まりました。神様を賛美します!私は神様のもの、神様は私のものとなったのです!

 3年後、彼はメソジスト教会の牧師の依頼があり、牧師となりました。 エバーソンは1890年に結婚し、妻ジェニーとともに、最初はメソジスト教会で、後にバプテスト教会で牧会し、生涯をキリスト教の働きに捧げました。 二人は教会の牧師となり、ユニオン・ゴスペル・ミッション(ミネソタ州セントポール)を設立して貧困層の人々に奉仕し、3年間、伝道活動に仕えました。 また、6人の子供にも恵まれました。彼らの家ではキリスト教の信仰と実践を中心とし、多くの愛と高い期待、そしてしっかりとした規律がありました。

Everson & Jennie MacKinney

家族(Family)

 ある時、エバーソンは自分の子孫の霊的な状態を非常に心配するようになりました。 ある日、彼はイザヤ書59章21節を読み、これこそ自分の心配に対する神の答えであると確信しました。 そして、自分の子孫のためにこの約束を実現してくれるよう、神に切実に祈りました。 祈り続けた結果、エバーソンは、神がその願いをかなえてくださったことを感じました。 エバーソンは、自分の次の4世代がクリスチャンになることを神が保証してくれたのだと信じたのです。 その次の4世代はほとんどクリスチャンで、その多くは牧師や宣教師となりましたし、今もそうです。 (私はその4代目で、子孫のためにイザヤ書59章21節を祈っています!)。

Everson & Jennie MacKinneys Family

 長男のパウロ・マッキニーはバプテスト派の牧師でしたが、家族を養うために大工仕事もしていました。彼と妻のレナとの間には8人の子供がおり、彼らを心から愛していました。2人は家族で礼拝をし、聖書を学び、一貫したクリスチャン生活を送ることで、子供たちの内なる人をも養いました。 パウロは「地獄に堕ちるような子供は育てない」と固く決意していたのです!ですから、パウロとレナは家族で祈るときにも「主よ、もし子供たちが真理から外れていくのを見たら、手遅れになる前に主のもとへと連れて行ってください」と普段から祈りました。 第二次世界大戦中、パウロはアメリカ政府の建築の仕事に就き、アラスカやニューファンドランド(カナダ)などの遠隔地に赴きました。物理的な建物を建てるという本業に加えて、彼は教会をたてるために夜も週末も働きました。エクレシアを立てると同時に、物理的な集会所である教会も建てたのです。それは、日中の建設契約が終了して彼がその地を去らなければならなくなった時に、そこに教会、つまり人々と建物が存在することを意図していました。

 ここまで読んで、読者の皆さんは、「これは面白いけど、今のところ、家族の歴史と、メソジスト教会やバプテスト教会での働きについてのことが書かれているだけだ。アッセンブリーズ・オブ・ゴッドはどうなったのだろう?」と思っているかもしれません。良い質問です。ここから私の家族がどのようにアッセンブリーズ・オブ・ゴッドにつながったかをお話ししましょう。

ペンテコステ(Pentecost)

Paul & Rena MacKinney

 私の祖父であるパウロ・マッキニーは大学卒業後、教会の牧師をしていました。ある日曜日、彼は「救い」というテーマで説教をしたそうです。その説教の最後に、救いの招きをし、「救いの必要な人は前に来て講壇の前に立ってください。牧師が『罪人の祈り』を導きます」と言いました。 そう言った途端、彼は衝撃的に気づいたのです。クリスチャンホームで育ち、キリスト教会の牧師までしているのに、自分はまだ罪を告白して主イエスに罪を赦してもらうことをしていなかった!クリスチャンではなかったのです! すぐに彼は講壇を離れて壇上を下り、講壇の前に立ちました。 そして「罪人の祈り」を唱え、ついに「子羊のいのちの書に記されている者」となったことを喜びました。その時から、彼はただ仕事をするのではなく、救い主を喜ばせるために働くようになったのです。

 その後すぐに、パウロは異言を伴う聖霊のバプテスマを受けました。そのことに加えて、他にもいくつかの教義上の問題から、パウロはバプテスト教会との関係を断つことになりました。しかし、それは教会での働きの終わりではなく、実は新しい宣教に重点を置いた働きへの始まりだったのです。この頃、仕事の関係でカナダのラブラドール州に行くことになりました。昼は大工、夜と週末は牧師という二足のわらじを履く生活でした。妻と若者となっていた末の子3人と協力し、夜と週末に伝道活動をした結果、シオン・ペンテコステ教会を設立しました。新しい教会設立に加え、キリスト教の本や教材を提供し、次世代のクリスチャンを育てることを目的として、その地域で最初の図書館も設立しました。教会と図書館は、現在も地域の貴重な資産となっています。

犠牲(Sacrifice)

Paul & Rena MacKinney Family
Paul & Rena MacKinney – Missionaries

 神の国のために多くの勝利を収めましたが、中には私の家族に大きな犠牲を強いるものもありました。 その一例が、パウロとレナの六男ダニーです。 ダニーは若い頃から機械の仕組みや機械そのものが好きで、それを生かして稼いだお金を聖書学校の学費の足しにしました。 彼はノースセントラル聖書学校(現在は総合大学となっている)で学び始め、後にミズーリ州スプリングフィールドにあるセントラル聖書神学校(現在は2つの大学に統合されている)に転校しました。 その頃、彼はますます主に近づき、宣教師として仕えるようにとの神の召命を感じました。 神学校を卒業後、カナダのラブラドール州に住む両親のもとへ戻りました。 彼は、人里離れた村で学校を教えることで、彼らの働きに貢献しました。 その村は、夏はボート、冬は犬ぞりやスノーモービルでしか行けないほど人里離れた場所でした。 この孤立した村で1年間働いた後、彼は、海沿いの他の遠隔地の村で効果的に伝道するためには、夏にはフロート、冬にはスキーを装着できる飛行機が必要であることに気づきました。そこで彼はアメリカに戻り、兄の会社で働きながらパイロット免許を取得しました。そして兄の会社のパイロットをしながら、その機会を利用して宣教用の飛行機を購入するための支援を集めたのです。  やがて必要な資金が集まり、飛行機を購入してラブラドール州での宣教活動に戻りました。 これが、その地域の先住民に福音を伝える、多くの素晴らしい冒険の始まりでした。

Danny MacKinney

 1955年のクリスマス・イブは、いつもとは違うものになりました。 ダニーは病院と孤児院で礼拝を行うため、近くの村に飛びました。 牧師としての奉仕に加え、彼は非公式の郵便配達員も務めました。 冒険家、世話好き、牧師、郵便配達員、これらすべての資質が彼の行く先々で好感を持たれていきました。 彼の一日は、クリスマスの奉仕活動やカードや手紙を渡す喜びで満たされていました。 午後になって、彼は母親と末の妹のもとへ帰るために飛行機で帰宅する飛行計画の通報をしました。 小雪が舞っていましたが、彼は20分のフライトを暗くなる前に終えられると確信していました。 しかし、離陸直後になって天候は悪化し、突然の猛吹雪で視界が見えなくなってしまいました。 飛行計画通りにグースベイ基地に到着しなかったため、捜索救助隊が出動しました。 翌日、グースベイの氷上に墜落した飛行機と少し離れた氷の上に横たわっている彼の遺体が発見されました。 1955年のクリスマスは、ダニーの母親と末の妹にとって、とてもつらい日となってしまったのです。 パウロは同年8月に癌で亡くなっており、突然、二人きりになってしまった母娘は、大切な家族を失った悲しみの中、救い主の誕生を祝ったのです。

 しかし、ダニーはグースベイ基地でよく知られ、愛されており、多くの若い飛行士が彼の死に深い衝撃を受けました。 ダニーの犠牲的な愛の模範は、教会の礼拝や奉仕に人生を捧げるよう多くの人々を導くところとなりました。実際、あまりにも多くの人々がキリスト教の奉仕に身を捧げたので、ある軍のチャップレンは、彼の死を、地に落ちて実を結ぶ種に例えました。 私の伯父ダニーは、ラブラドール州の家族が設立した図書館の隣にある墓地で、彼の父の隣に埋葬されています。

考えてみましょう(Ponder)

 読んできたとおり、歴史は、日付、出来事、人、場所が海のように溢れています。ですが、よく見ると、神の御手が人々の人生の中でご自身の目的を達成するために働いているのがわかります。 私たちの中には、長く続く役割を担っている人もいれば、短命の人もいるかもしれません。 大切なことは、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです」(コロサイ3:23-24)。

 神様が何をしてくださったか、そしてここ日本で宣教活動をするように私たちをどのように導いてくださったか、さらにお話しできることを楽しみにしています。それまでの間、以下の7つの質問について祈りながら考えてみてください。家族の誰かや友人と話し、一緒に祈っていみてはいかがでしょうか。

  • あなたは神様の御名をあがめるという神様のご計画の中にどのように当てはまっているでしょうか?
  • あなたの家系に、誰が、いつ、どのようにして、最初にキリスト教の信仰に至りましたか?
  • あなたは家族で最初のクリスチャンですか?それとも他の誰かから信仰の遺産を受け継ぎましたか?
  • 家族が信仰を持つに際して貢献してくれた人は誰ですか?何をしてくれましたか?
  • あなたに続く世代にクリスチャンの遺産を伝えるために、あなたは何ができるでしょうか?
  • あなたの人生において、イザヤ書59章21節を成就してくださいと神様に祈ったとしたら、何が起こるでしょうか?
  • それを実現するために、あなたは何ができるでしょうか?

この記事が気に入ったら
いいねしてね!

お友だちへのシェアにご利用ください!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

感想・コメントはこちらに♪

コメントする