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ジェシー・ウェングラー| Jessie Collins Wengler in AG history

ジェシー・ウェングラー
Jessie Collins Wengler

翻訳元記事:Assemblies of God (USA) Official Web Site | This Week in AG HIstory

*ウェングラー先生の生誕日- 7月22日に合わせ、本記事を掲載しております。

 ジェシー・ウェングラー(1887-1958)は、日本で39年間仕えたベテラン宣教師です。第二次世界大戦中、唯一日本に滞在し続けたアッセンブリーの宣教師であり、戦後日本に何が必要であるかを見極め、また当時の人々から尊敬を受ける数少ない人物でもありました。

 アメリカ・ミズーリ州クレイトンで育った彼女は、1909年に開かれたペンテコステ集会で救われ、聖霊に満たされ、宣教の召しを受けました。それからの10年間はコロラドにて教師の学びをし、そのあとムーディ聖書学院(シカゴ)、ブルックス聖書学校(セント・ルイス)にて短期間、ミニストリーの学びをしました。刑務所伝道や病院伝道に携わり、また路傍トラクト伝道をしました。特に牧師、伝道師としての正式な経験はなくアッセンブリーの宣教師として任命され、1919年に新たな宣教地であった日本に来ました。その1年前に来日したバーニー・モア師ご夫妻と一緒に横浜にて宣教を開始しました。

 日本語勉強を終えたウェングラー師を、モア師は八王子開拓のため遣わしました。八王子は東京に近い8万人都市です。街で唯一の外国人として、ウェングラーはまずは子どもの日曜学校を始めるのがよいだろうと考え、近隣の子どもたちに声を掛けました。子どもたちは親や祖父母といっしょに訪ねて来ました。「主われを愛す」の讃美歌、とくに折り返しのところが人気をよぶようになりました。じきに彼女の聖書の話と歌が話題となり、彼女の近所の街中でもこの賛美が聞かれるようになったほどです。仏教のお坊さんもこの方法に着眼し、自分のこどもたちに「仏陀われ愛す」と歌って教えたそうです。そのうち日曜学校に場所を貸している家主の末娘、こみ子*1さんはウェングラー宣教師の補佐をし、10年のうちに教会は大きな会堂を建てるほど成長し、彼女自身が牧師となりました。

*1 「こみ子さん」―原文の翻訳をそのまま掲載。おそらく坂本キミ先生を指していると思われます。

ジェシー・ウェングラーと坂本キミ【1936年】
【鈴木正和『聖霊の炎を掲げて』より】
【鈴木正和『聖霊の炎を掲げて』より】

 1928年『The Pentecostal Evangel』 誌にウェングラー師は支援者向けに、1メートルぐらいしか離れていない建物は焼け落ちたににもかかわらず彼らの新しい建物は火災から逃れたことを分かち合いこう書いています。「小さな教会堂は燃えさかる中でも立ち続けたという神の御力の現われの証となっています」。しかし、彼女はその後想像を絶するもっと大きな炎が彼女と信者たちに押し寄せるなどとは夢にも思っていませんでした。

 教会は他の新たな教会開拓を支援していくようになり、ウェングラー師は東京に移り住んでの開拓支援をしようと考えました。まもなく、以前はそれほどでもなかった国粋主義の流れが感じられるようになりました。日本の諸教会は、国の観念に同調するようにという圧力がかかるようになり、いわゆる「思想警察」が動き出し日本国民の思想、行動、態度を統制するようになりました。

 アジアとヨーロッパの戦争状態は世界中の危惧となり、当時の宣教部長ノエル・パーキン師は1941年半ば、全宣教師を米国に帰国するよう指示を出しました。しかし、ウェングラー師は過労と貧血、心臓の状態のため数か月間の入院中でした。帰国する体力もなく、彼女はアメリカ・アッセンブリー教団で唯一帰国しなかった宣教師となりました。時は1941年12月真珠湾攻撃の時でした。

 彼女は左半身の一部が麻痺していたため、日本政府は、他のアメリカ人とは違い彼女を収容所にはいれませんでした。彼女は自宅拘留となり市場に出歩くことは許されました。禁制品のゆえに家宅捜査を受け彼女の土地は差し押さえられました。日本人の友達は訪問も許されませんでしたが、こっそり夜中に必要な物を差し入れに来てくれました。戦争になって2年目には、配給は、米は3/4カップに減らされ、野菜は葉物数枚で3~4日を凌がなければならず、体重も56Kgから40Kg以下に落ちました。アメリカとの交信もできないため、アメリカAG宣教部は4年もの間、音信がない彼女が生きているのか死んでいるのかわかりませんでした。

 毎月8日勅令日は米国への開戦記念日ということで日の丸を掲げるよう近所からもプレッシャーがかかるようになりました。しかしアメリカ人として、また戦争を肯定することや天皇を神と認めることはできないと良識をもって伝えました。このような時でしたが、クリスチャンとして仕え、近隣の人々を愛し続けました。

 1944年にアメリカ軍のB-29が何千という焼夷弾を、特に東京近郊をめがけて落としました。軍からは何度も移動を強いられ、最終的にはバプテスト宣教師実習生5名の住まいに住むことになりました。ウェングラー師は1945年3月の爆撃についてこう記しています:「爆弾がまるで雨のように私たちの周りに降ってきました。じきに燃え猛る炎に囲まれました。どちらに逃げるにも火の中でした。その恐ろしさは言い尽くしがたいものです。爆発する爆弾、燃えさかる炎、叫ぶ人々。私たちは火の壁をくぐりぬけ、学校の校舎に逃げ込み夜を過ごしました。翌朝戻ってみると隣の家々は完全に焼失してしまいましたが、私たちの住まいは無事でした。」

 戦争が終わると、東京は悲惨な状態でした。住民10万人は殺され、100万人はホームレスに。3月の空襲は史上一回の空爆で最もひどい被害を残しました。日本人は朦朧と混乱と疲弊に満ちていました。ウェングラー師は人々を助けたいと切に願っていましたが、体の静養と報告のために1945年後半に帰国せねばなりませんでした。1947年に再び日本に戻ったときには、1951年平和条約が締結するまで連合軍のアッセンブリー代表として働きました。

 ウェングラー師は1958年71歳で亡くなるまで、日本人を助け、教会を建てるためうむことなく働き続けました。彼女は大学生のための聖書研究会をつくり、後にリーダーとなる多くの人をキリストに導きました。彼女の死にあたり、生命保険のお金を市川市の教会建設のために残しました。彼女は軽井沢にある墓地に友人により厳かに葬られました。

ウェングラー師の八王子戦火の報告は、Pentecostal Evangel誌(ペンテコステ・エバンジェル誌)1928年1月21日号の9ページ、「猛り狂う炎を鎮める」に載っています。

写真:【鈴木正和『聖霊の炎を掲げてより】

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