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聖霊の炎を掲げて ⑯

戦時下の東京で空襲を体験した女性宣教師


鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

ジェシー・ウェングラー
Jessie Collins Wengler [1887-1858]

ポートレート【1950年代】
Flower Pentecostal Heritage Center 所蔵

 1919年11月に単身22歳で来日したジェシー・ウェングラーは、戦時下も日本に留まり、戦前・戦中・戦後を通して39年間日本宣教に従事し、八王子、甲府、市川に教会を立てあげ、1958年7月22日に71歳で人生の馳場を駆け抜けて日本の土となりました。戦前のペンテコステ派は宣教師と日本人教職者が一つのミッションとして活動していましたが、ウェングラーは坂本キミ、田中篤二・冬子夫妻、和田一男・喜多子夫妻の3組の同労者たち共に活動しました。ウェングラーの宣教の軌跡を辿ることは、彼女の同労者たちの宣教の軌跡を辿ることにもなります。

生い立ち

 ジェシー・ウェングラーは1888年12月13日に米国ミゾリー州セントルイス近郊クレイトンに父ウィリアムと母エリザベスのもと10人兄弟の9番目として生まれます。父方の祖父はドイツ移民で、母はアイルランド移民でした。ウェングラー家は祖父の代からセントルイスでも有力な商家で、父はクレイトン市の副シェリフ、助役、公立学校の理事などを務め、共和党を支持する厳格なメソジスト派の人でした。彼女はクレイトンの公立学校で学び1902年に卒業します。学校での学びの他に6年間ピアノの個人レッスンを受けており、学校卒業後に2年間セントルイスのベッカー音楽院でピアノ、パイプオルガン、ハーモニーのレッスンを受け、1909年にはデンバー師範学校の夏期講習でミュージカル教授法を学んでいます。彼女はクレイトンでピアノの個人教授やクレイトン公立学校の短期音楽教師などをしていました。

 ウェングラーはセントルイスのメソジスト教会に通っていましたが、1909年にクレイトンを訪れたペンテコステ派の巡回伝道師によって信仰を持ち、ミシシッピー川で洗礼を受けます。そしてセントルイスのベテル・アッセンブリー教会に通い始め、1910年頃に聖霊のバプテスマをセントルイスのミッショナリー・ホームで受けます。1913年にマラリヤに罹病しますが、その際にシカゴのストーンチャーチに赴き、そこで癒しを受けます。1915年にはインディアナ州ダークハロウで宣教活動に従事し、1916年から2年ほどセントルイスの無教派のブルックス聖書学校で学んでいます。1917年頃からシカゴに移り住んだウェングラーはムーディ聖書学校の通信科コースを受講し、音楽教師として働きながらトラクト配布や病院など訪問伝道に励み、ペンテコステ派のストーンチャーチの福音出版ハウスで働いていました。

*資料

「生命の水」
作詞:弓山牧童
作曲:ジェシー・ウェングラー

弓山牧童編『福音聖歌』(日本聖書教會出版部、1933年)p. 17.

日本へ

 海外宣教を志したウェングラーは当初朝鮮へ赴くことを希望しますが、まだ朝鮮には米国アッセンブリー教団から派遣された宣教師がいなかったこともあり、教団本部の指導で日本に派遣されることになります。ウェングラーは1919年11月18日モンテイーグル号でヴァンクーバーを立ち日本に向かいます。

*資料

ウェングラーの米国アッセンブリー教団からの最初の任証【1920年9月1日】

Flower Pentecostal Heritage Center所蔵

横浜

 横浜に到着したウェングラーは、本牧のバーニー・ムーアのミッションに加わり、ムーア夫妻宅の隣の小さな日本家屋にルース・ジョンソンと住み、日本語を2年ほど学びます。1921年のムーア夫妻の休暇帰国中は彼女がムーアのミッションの働きの責任を持ちます。1922年のムーア夫妻の帰国を待って、ウェングラーは1923年2月に当時人口が8万人ほどの八王子の視察に行きます。そこで彼女に興味津々についてくる子供たちの姿を見て、まず子供伝道から始めることにします。

八王子

 八王子に移り住んだ当初は知り合いが誰もおらず、ただ一人の外国人だったということもあり多くの不安をありましたが、主の導きを感じ大いなる御手のうちにある安心があったといいます。まず小宮山村中野で子供集会を始め、坂本文三の家の一部を借りて集会を始めます。1923年5月5日の集会で8人ほどの人が信仰を持ち、坂本キミもその一人でした。

 横浜から八王子に移って間もない1923年9月1日に関東大震災が襲います。八王子での被害は少なく、家は倒れなかったものの余震が続き、ウェングラーと彼女のメイドはその晩は家の中には戻らず外で夜を明かします。横浜では多くの家屋と人命が失われ、ムーアの家は崩壊し、ムーア夫人と女性伝道師が下敷きになるものの無事に救出されます。しかし彼らの日本人牧師夫妻と長男は倒壊した家の下敷きになり亡くなり、長女、次男、そして4ヶ月の赤ん坊が助かりました。しばらくしてからウェングラーは横浜に赴き旧知の二人の婦人伝道師たちを八王子に連れ帰っています。

 1924年3月に以前東京のバプテスト派の保母養成学校の校長であったハリエット・デスリッジが米国アッセンブリー教団の宣教師となって来日し、ウェングラーは休暇帰国の準備を始めていたこともあり、デスリッジを八王子で快く受け入れます。幼児教育の専門家でもあるデスリッジが来たこともあり4月1日から八王子で幼稚園の働きがから始まります。そのためにデスリッジの教え子の山路寿が大阪から助手としてやって来ます。そして秋には違う場所でも新しく幼稚園を始めることになり、11月にはやはりデスリッジの教え子である菅本峰が四国からやって来ます。1924年6月1日に八王子教会の洗礼式があり10人が洗礼を受けています。1924年6月7日にウェングラーはデスリッジに後を委ねて初めての休暇帰国をします。その時にウェングラーは関東大震災で亡くなった日本人牧師夫妻の長女をカナダのヴァンクーバーの親戚の元に送り届けるために伴っています。

 デスリッジは八王子の教会でまだ誰も聖霊体験をしていないことを1924年の夏に軽井沢で神戸のメアリー・テーラーに相談し、9月にテーラーの勧めで大阪からレオナード・クートを招いて聖霊待望の特別集会を持ちます。そこで多くの人が聖霊体験をしますが、坂本キミもその一人でした。デスリッジは1925年6月にもクートを招いて特別集会を持ちました。

 一年間の帰国を終えたウェングラーは1925年9月17日に再来日し、八王子での働きを続けます。デスリッジは八王子の幼稚園を閉鎖し立川で独自の働きを始めます。ウェングラーは滝野川のジュルゲンセン一家の協力を得て1926年4月には彼らの天幕を用いて八王子でリバイバル聖会を持ちます。1926年9月には女工であった富永喜多子が友人に誘われて初めて八王子教会の門を叩き信仰を持ちます。田中篤二も兄の影響で1926年に八王子の教会に通い出します。田中は学校卒業後に大宮銀行に勤務し1927年1月22日に18歳で信仰を持ち、1928年には親の反対を押し切って洗礼を受けたために勘当されます。1926年6月に坂本きみが献身し立川でデスリッジが開設したばかりのべレア女子聖書学院に入学し、ウェングラー宅に同居しながら通います。坂本は1928年6月に卒業し継続して八王子でウェングラーの働きを助けます。

ジェシー・ウェングラーと坂本キミ【1936年】
Jessie Wengler, “Work Growing in Japan,” Pentecostal Evangel (1936-05-02), p. 7.

西宮

 ウェングラーは日本ペンテコステ教会の教育部委員で、部長が西宮の孤児院「子供ホーム」を運営するメー・ストロウブした。1928年にストラウブが体調を崩し帰国を余儀なくされると、ウェングラーがスラウブの留守の責任を持つことになり西宮に赴きます。そしてウェングラーが不在の間の八王子の働きは主にアグネス・ジュルゲンセンが担当することになります。アグネスは日曜日毎に八王子に出向いて坂本キミを助けています。ウェングラーが不在中は他にもゴードン・ベンダー夫妻、ジョン・ジュルゲンセン夫妻なども八王子に応援伝道に行っています。

*資料 三人の女性宣教師たち【1930年】
左からマリア・ジュルゲンセン、ジェシー・ウェングラー、アグネス・ジュルゲンセン
Marie Juergensen, Heralding the Pentecostal Message in Japan,” Pentecostal Evangel (1931-06-27),

 1929年4月4日には坂本キミが八王子教会の伝道師に就任します。5月には巡回伝道者であった村井屯二を八王子に招いての特別集会があり、21名の決心者が与えられています。10月20日の洗礼式はゴードン・ベンダーが司式をし、6名が希望し3名が洗礼を受けています。1930年5月に田中篤二は献身し、千駄ヶ谷で弓山喜代馬との共同生活を始めます。1930年9月21日にも洗礼式があり、アグネス・ジュルゲンセンと弓山喜代馬が司式をし、7人が希望し5人が洗礼を受けています。西宮の子供ホームで英国人のエマ・ゲールの補助によって従実した時を過ごしたウェングラーは、1930年10月にストラウブが無事に再来日を果たすと八王子に戻ります。

八王子

 田中篤二は1931年1月から滝野川聖霊神学院の一期生となり、3月からは八王子教会の牧師となります。1931年6月4日から八王子で特別集会があり、弓山喜代馬、丸山栄、長島ツル、中山萬吉、ノーマン・バース、伊藤智留吉が参集し、5日は日本聖書教会の関東リバイバル大会でした。6月28日には同様の日本聖書教会の関東連合会の集会を横浜教会が開催し、八王子からは田中篤二、坂本キミが横浜に赴いて奉仕しています。

甲府

 ウェングラーは第二の宣教地として山梨県甲府を選び、1931年6月に坂本キミと共に甲府に視察に赴きます。そして9月7日に坂本キミを甲府に派遣して、1932年には八王子教会の枝教会として甲府日本聖書教会を白木町で設立します。富永喜多子が甲府の坂本キミの働きに加わって2年間ほど坂本を手伝っています。ウェングラーは1932年9月から1年間の休暇帰国をしますが、それまでウェングラーは少なくとも月一の頻度で八王子から甲府に赴いて坂本の働きを支援します。ウェングラーが休暇帰国中に甲府教会では豊な聖霊の働きが起こり、それと共に激しい迫害に遭遇します。ウェングラーが不在のためにこの時の騒動を収めるために東京からカール・ジュルゲンセンと弓山喜代馬が甲府に赴いています。

八王子、甲府、蒲田、大月、三鷹、塩山

 ウェングラーは1933年に再来日します。1933年春には甲府の富永喜多子が献身して滝野川聖霊神学院で学び始めます。八王子と甲府の宣教状況を見て、ウェングラーは八王子の田中篤二と甲府の坂本キミを交換することにし、田中篤二は1934年11月1日に甲府に移り、そこで以前手の病気の癒しにあずかった甲府教会の玉井冬子と結婚します。ウェングラーは新たに東京の蒲田に開拓伝道を始めることにし、1934年半ばに坂本キミを蒲田に派遣します。また1936年4月には新たに山梨県大月の開拓伝道を始め、6月には滝野川聖霊神学院を卒業した富永喜多子を派遣し、以前銀行だった建物を借りて大月伝道所を大月町に開設します。

田中篤二夫妻と長女愛子さん【1937年】
「マリア・ジュルゲンセン・アルバム」(神召キリスト教会所蔵)

 ウェングラーは1936年7月に甲府教会の会堂建設を日向町で始め1937年に献堂の運びとなります。八王子でも甲府と同じ作りの会堂建築が始まります。1937年の甲府教会の献堂式には当時日本を訪問中であった米国アッセンブリー教団副総理のフレッド・ヴォグラーが司式をしています。甲府教会の献堂に参加した人たちはそのまま八王子教会へと向かい、追分町の八王子教会の献堂式に参加しています。坂本は蒲田伝道所を閉めて家族と共に八王子に移ります。

ウェングラー・ミッションのメンバーたち【1939年頃】
坂本キミ「私の生涯の回想記 神学生時代」『教団ニュース アッセンブリー』(1978年4月号)、p. 8.

 ウェングラーはそれまで農村部での宣教に重点をおいていましたが、都市部での宣教に重荷を持つようになり、八王子から三鷹に居を移して、そこで子供たちの日曜学校や婦人たちの集まりを持ちます。1938年には新たに富永喜多子が塩山町坂上で開拓伝道を始めます。ウェングラーはしばしば三鷹から八王子に赴いて坂本の活動を支援します。1938年11月4日に甲府の田中篤二は按手礼を受けています。1940年の暮れに紹介する人があって富永喜多子と和田一男が弓山喜代馬の司式によって滝野川教会で結婚します。ウェングラーは大月の教会を塩山の教会に合併し、和田夫妻が塩山の教会の牧師となります。

和田一男と富永喜多子の結婚式【1940年暮れ】
媒酌人:田中篤二夫妻、司式者:弓山喜代馬
「マリア・ジュルゲンセン・アルバム」(神召キリスト教会所蔵)

開戦前

 日米開戦前の1941年春の時点でウェングラーの働きの拠点は八王子(坂本キミ)、甲府(田中篤二夫妻)、塩山(和田一男夫妻)、三鷹(ウェングラー)の中央線沿いの4箇所で、ウェングラーは中央線沿線を自分の伝道責任地と考えていました。宗教団体法が施行されプロテスタント諸教派が合同教会としての日本基督教団の発足するに当たって、ウェングラーは1941年5月6日に坂本キミ、田中篤二、和田一男夫妻らと会って対応を協議します。そして日本基督教団への加入は御心ではないと確信し、彼らは日本基督教団に加入せず独立宗教団体となって、それぞれアッセンブリーズ・オブ・ゴッド八王子教会、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド甲府教会、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド塩山伝道館として存続する道を探ります。

 ウェングラーは1940年に心臓病を発病し1941年6月に倒れたために三鷹の自宅で静養し、7月には東京の暑さを逃れて坂本キミとマリア・ジュルゲンセンに伴われて軽井沢のモンロー病院に入院します。8月末には症状が落ち着き旧軽井沢近くの愛宕山の自分のキャビンに戻り9月中を過ごします。そして10月の声を聞いてから三鷹の自宅へと戻ります。

 日米の国交が危機的状態になり、アメリカでの日本資産の凍結を受けて、ウェングラーの日本での資産が1941年7月に凍結されます。また甲府教会の田中篤二は徴兵されたために兄に伴われて三鷹のウェングラーの元に別れの挨拶に来ています。11月に入りウェングラーは友人たちを招いての感謝祭のパーティを計画するのですが、そこでアメリカ大使館からの次の引き上げ船での帰国勧告を受け取ります。米国アッセンブリー教団本部もウェングラーがマリア・ジュルゲンセンたちと共に帰国することを期待するのですが、ウェングラーは日本に留まる決意し、10月20日にマリア・ジュルゲンセンたちが乗船した最後の引き揚げ船に乗りませんでした。

 真珠湾攻撃のあった1941年12月8日ウェングラーは友人の独立宣教師グレース・ファーンハムに会いに行く予定を立てていました。その朝たまたま駅で旧知のハリエット・デスリッジと出会い二人で杉並区馬橋のファーンハムを訪問し、そこでウェングラーたちは戦争が始まったことを知るのです。その晩は東京中に灯火管制が敷かれます。

戦時下

 戦時下においてウェングラーは当初三鷹の自宅に2年半ほど居住が許されますが、貧血症状や食料の供給不足のために生活は困難を極めます。身長154cmの通常は50kgの体重が34kgまで落ち込んだと言います。日本政府による資産凍結によって経済的に困窮してしまいますが、所有していた二つのキャビンが敵国資産として接収され売却されたことを知り、ウェングラーは中立国のスイス代表団に相談し、スイス代表団が日本の大蔵省と交渉し、1942年6月からはキャビンの売却資産からお金を引き出すことができるようになり戦時下を生き延びることができました。

 スイスの国際赤十字の米国代表団を通してウェングラーの無事が本国に伝えられたのは1942年1月末のことでした。米国アッセンブリー教団や家族は国際赤十字を通してウェングラーの安否を問い続けます。再び1943年には国際赤十字を介してウェングラーの無事が伝えられると米国アッセンブリー教団本部は次の捕虜交換船で彼女は帰還することを期待しますがそれはなりませんでした。

 ウェングラーは1943年初頭からは高等警察の許可を得て他の5人のバプテスト派のアメリカ人宣教師との世田谷で共同生活を始めます。孤独な三鷹での生活と比べると信仰の友との共同生活はウェングラーにとっては心休まるものでした。ウェングラーは1943年12月には戦争捕虜して登録されています。米国からのウェングラーへの連絡は戦争の初期に届いた米国アッセンブリー教団海外宣教部のノエル・パーキンからの電報と1945年に受け取った1942年に姉妹から出された手紙だけでした。ウェングラーは東京で空襲の恐怖を味わいます。1945年8月7日には八王子教会がアメリカ軍の空襲によって焼失し、甲府も空襲によって大きな被害に遭いますが、幸い教会堂と田中夫人と二人の子供たちは無事でした。そして8月15日の終戦を迎えます。

戦後

 終戦後ウェングラーは収容所から解放されて三鷹の自宅に戻り、ウェングラーの生存が米国アッセンブリー教団の友人たちにもたらされます。ウェングラーは1945年10月15日に厚木から沖縄を経てフィリピンのマニラの療養施設に向かい、2ヶ月弱の療養後に帰国の途につき、1946年1月に12年ぶりの帰国を果たします。

 一年余りの米国での休養の後1947年3月にウェングラーは占領下の日本に米国アッセンブリー教団宣教師団書記して戻ります。当初彼女は東京駅近くの進駐軍に接収され独身女性のためのホテルに投宿し、そこで『Letters from Japan』という回想録の執筆に没頭します。また頼まれて横須賀の中学校長代理を務めます。その後下落合に落ち着き、後に再び三鷹に居を構えながら、占領軍本部と折衝して後続の宣教師たちの来日の準備をします。ウェングラーは日本アッセンブリー教団の設立を促進するために日本訪問中の米国アッセンブリー教団宣教部長ノエル・パーキンとゲイル・ルイス副議長よって、1949年1月25日に按手礼を受けています。

 1949年3月15日に日本アッセンブリー教団設立総会が開催されますが、ウェングラーは坂本キミと田中篤二と共に参加し、教団設立メンバーとなります。教団創立総会でウェングラーは中央聖書学校設立準備の学務委員に選ばれ、その後駒込の土地の取得や校舎や宿舎の建設に奮闘します。当初駒込の教団本部の土地の登記名義は米国アッセンブリー教団宣教師団ジェシー・ウェングラーとなっていました。また1949年4月19日に日本アッセンブリー教団から正教師の任証を受けています。1950年に中央聖書学校が開校すると彼女は講師として教壇に立ちヨブ記と英語を教えています。

同労者たちの働き

 1946年に傷病兵となって復員した田中篤二は甲府に戻って宣教活動を再開しますが、体調が回復することはなく翌年には静養することになります。1949年に日本アッセンブリー教団の本部と中央聖書学校のキャンパスとして駒込の土地が確保されると、田中は甲府から東京に移り、翌年には中央聖書学校の舎監及び教師に任命されます。しかしその後静養のため保谷に移り宣教活動の現場から退きます。和田一男は1949年6月に矯正院の仕事をやめて日本アッセンブリー教団に福岡教会として日本アッセンブリー教団に加入し、1950年4月に福岡から甲府に移り田中の跡を引き継ぎます。坂本キミは廃墟の八王子で立ち上がりバラックに住みながら伝道を再開し、後に歯磨き工場の一部を5年ほど借りますが、1950年に新会堂を台町に建設し、1951年1月21日には献堂式が弓山喜代馬によってなされます。ウェングラーはこれを持って八王子教会への長年の経済的援助を打ち切り、坂本に自給教会となるようにと告げます。ウェングラーは1951年6月から最後の休暇帰国をします。

市川

 ウェングラーは1954年に再来日すると新たに千葉県の市川に移り住み、10月には中央聖書学校の神学生たちの応援を得て、幼稚園の集会所を借りて市川キリスト教会の開拓を始めます。しかし1958年7月22日にガンの手術の後に腸閉塞となり、東京杉並区天沼の衛生病院で数名の宣教師たちに見守られて死去し、軽井沢の外国人墓地にカール・ジュルゲンセンのお墓の近くに埋葬されます。彼女の墓石には「主の再臨を待ちつつ」と印されています。彼女のメモリアル・サービスが故郷セントルイスのトリニティ・タバナクル・チャーチで1958年8月3日に行われました。ウェングラーを知る故郷の人の中には、名家出身の小柄な音楽教師であったウェングラーが生涯を日本宣教に尽くし、戦中も日本に留まり、日本宣教に大きな足跡を残したことは大きな驚きでもありました。ウェングラーの遺産を元に市川キリスト教会が1960年4月に献堂されます。

軽井沢外国人墓地のウェングラーの墓石
“Awaiting His Coming”

 ウェングラーは日本での宣教活動を横浜のバーニー・ムーアのミッションで始め、八王子で教会を立ち上げ、西宮の子供ホームを助け、甲府で教会を立ち上げ、蒲田や大月と塩山で開拓伝道を展開し、三鷹で日曜学校や婦人集会を開き、戦後は日本アッセンブリー教団と中央聖書学校の礎を築き、最後に市川でその働きを終えます。


*資料

ウェングラーの回想録

Jessie Wengler, Letters from Japan (Pasadena, CA: author, cir. 1951)

*資料

ウェングラーの記念冊子

Margaret Carlow, The King’s Daughter: Jessie Wengler (Springfield, MO: Foreign Mission Department of Assemblies of God, n.d.)


筆者:鈴木正和

《参考リンクのご紹介》

JAG教団公式サイトのアーカイブ記事
<坂本キミ「私の生涯の回想記」>内にウェングラー先生とのエピソードが、いろいろ記されています。
ぜひ、こちらもご覧下さい。

https://j-ag.org/reading/kimi-sakamoto/

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