MENU

聖霊の炎を掲げて ㉓

日本と韓国と二つのアッセンブリー教団の設立功労者


鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

アーサー・チェスナット
Arthur Beryl Chesnut【1915-2008】

アーサー・チェスナット

 アーサー・チェスナットの一生は波瀾万丈でした。彼は30代で日本アッセンブリー教団と韓国アッセンブリー教団の二つの教団の設立に関わります。アーサーはワシントン州の平凡な農家に生まれますが、神様の不思議な御手の業で本人が予想もしない人生を送り大きく神様に用いられました。彼の前半生は落胆の連続でした。21歳で同郷の女性と結婚しますが5年半で破綻します。徴兵検査を受けますが不合格になります。聖書学校を終えて伝道者ライセンスを申請しますが拒否されます。聖書大学を卒業後の最初の刑務所伝道の働きも数ヶ月で失職します。途方に暮れた彼は航空会社のエンジニアとしてハワイに渡りますが、神様は3週間後に公立学校の教師の道を開き、そして始まったばかりのアッセンブリー教会の日曜学校主任の道を開かれます。教員資格のために通った大学に無料の日本語クラスがあり、学期後も日本語の学びを続けることにした彼に個人チューターを通して東京の学校の英語教師の話があり、急遽米国アッセンブリー教団の按手礼を受けて特任教育宣教師として1948年11月に来日します。

 アーサーの日本滞在は僅か4年弱でしたが、日本女子経済専門学校教授を皮切りに同僚の米国アッセンブリー教団の女性宣教師の運転手、日本アッセンブリー教団の創立メンバー、巡回宣教者、中央聖書学校教師、高円寺教会牧師など八面六臂の活躍をします。そんな彼に神様は韓国宣教の重荷を与えられます。アーサーは1952年9月に釜山に入り、同地で困窮するペンテコステ派教職を助け、ソウルで韓国アッセンブリー教団の設立を助け、そして初代理事長に選出され、純福音聖書学校を設立し初代校長になり、その他にも孤児院などの福祉活動を指導します。アーサーは韓国を去った後も沖縄をはじめ東南アジア、ヨーロッパ、そして南太平洋地域で用いられるのです。

ワシントン州在住(1915〜1946)

両親と妹との家族写真 【1915年】

 アーサー・チェスナットは米国ワシントン州で農業従事者の父ロニーと母ハティのもとに1915年8月1日に生まれます。地元の高校を卒業したアーサーはウェイアーハウザー木材会社に勤務します。1936年秋には交通事故で頭部骨折と脳震盪になりその後体調不良が続きます。1937年2月21日に21歳でワシントン州の福音ルーテル教会で同郷のアーヴィラ(1913年生)と結婚します。アーサーは会社でも順調に昇級するのですが、労使問題のために1941年1月1日に働いていた木材会社が閉鎖されます。ヨーロッパ戦線の拡大もあり、アーサーはシアトルのボーイング社に雇用されるのですがそこでの賃金は低く、またまもなく徴兵されることも予測されており将来が見えませんでした。そのため彼の妻はオレゴン州ポートランドで職を得て自活することを選択します。そしてしばらくしてアーサーは友人から彼の妻が離婚を望んでいることを知らされるのです。アーサーは交通事故の後遺症と夫婦関係に悩みながら解決の道を求めて生まれ育ったルーテル教会に通っていましが、彼の願いとは異なり1942年には5年半の結婚生活は終わります。

   アーサーは魂の飢え渇きを覚え、ボーイング社で働きながら聖書の学びがしたくなり、米国アッセンブリー教団のノースウェスト聖書学校のクラスを取ることにし、聖書学校の学生寮に住むことにします。そして聖書学校のチャペルのリバイバルを通して以前よりもますます神様を求めるようになります。そしてシアトル市内のラルフ・サンダーの教会で聖霊体験をします。アーサーは聖書の学びを極めようとボーイング社を退職し、聖書学校のフルタイムの学生になり伝道も熱心にするようになります。時が来て徴兵検査を受けるのですが結果が不適合となり一層伝道に勤しみます。聖書学校の最終学年の1946年春に多くの学生と共に米国アッセンブリー教団北西教区に説教者ライセンスの申請をしますが許可されませんでした。アーサーがその理由を問い合わせたところ、答えはただ時期尚早とのことでした。大変失望したアーサーですが、彼の献身の思いは変わりませんでした。アーサーは聖書の学びを続け学位を取得するために、カリフォルニア州コスタ・メサのサザンカリフォルニア聖書大学に編入します。その折に彼はわずかな希望を持って2年半前に離婚した元妻と連絡を取るのですが、彼女の答えは「決して牧師の妻にはならない」というものでした。

カリフォルニア州在住(1946〜1947)

   彼にとってサザンカリフォルニア聖書大学での学びと教会での奉仕はとても充実したものでした。聖書大学での学びを終えて南カリフォルニア教区へ説教者ライセンスの申請をすると授与されます。彼は聖書大学卒業後にメキシコへのミッショントリップをした後に刑務所チャプレンとして働き始めます。しかし彼の奉職する団体の基金が底をついたために1947年1月に失職します。無職でロサンジェルスに取り残されたアーサーは、家族の住むワシントン州に戻るかどうか思案するのですが、幸いフライング・タイガーズ航空に職を得てハワイのホノルルに送られます。

ハワイ州在住(1947〜1948)(21ヶ月)

 アーサーはハワイに到着してすぐに航空会社で働くのですが、ハワイは教員不足であることを知って役所に問い合わせると即座に教員に採用され、ハワイに来て3週間でオアフのワイパフ高校の9年生の英語科教員となります。アーサーはホノルル軍人YMCAに居住しながら高校教員をします。1947年の夏にハワイ大学で教育哲学と日本語などを学ぶのですが、日本語に興味を持ったアーサーはその後も個人教授によって日本語を学び続けます。彼の日本語個人教授の女性は、アーサーの人となりを見て彼に彼女の兄弟が運営している東京の学校の英語教師の職を斡旋します。彼女の兄弟は東京女子経済専門学校(現 新渡戸文化学園)校長の森本厚吉博士(ジョン・ホプキンス大学経済学博士)[1877-1950]でした。正式に森本博士からアーサーに東京で日本語の学びを継続しながら彼の学校で働くことの要請があり、幾度かの森本夫妻との通信を通してアーサーは日本行きを決心します。しかし日本行きを決めたものの、ワシントン州に残した父母のことや日本までの渡航費のこともあり不安を覚えるのですが祈りの中で確信を得ます。そしてアーサーは半年後の1948年9月のホノルル出航横浜行きの船を予約すると、昼間だけでなく夜間学校でも教えそのうえ塗装業のアルバイトなどをして渡航費を貯めます。

 アーサーはハワイで開拓伝道を始めたばかりの米国アッセンブリー教団のエルドン・ヴィンセント夫妻と知り合い、彼らの教会の日曜学校の主任として彼らの働きを助けます。ヴィンセント牧師の依頼で米国アッセンブリー教団ノエル・パーキン海外宣教部長にハワイ宣教の状況と彼自身の日本宣教の希望を記した手紙を送ります。パーキンから好意的返信を受け取ったアーサーの日本行きの確信が強まります。

 米国アッセンブリー教団の海外宣教師になるためには教団の正教師であることが求められることを知り、アーサーは1948年1月25日にハワイの教会で南カリフォルニア教区からの按手礼を受けて、1948年2月3日には正式に米国アッセンブリー教団から日本で学校教員とし働く教団派遣の教育宣教師として認定されます。勤務校の校長からは1949年の秋学期から副校長となることを要請されますがその申し出を断わります。その後も日本へのビザ申請は複雑でしたが、全てが備えられてアーサーは無事にビザを取得することが出来ました。

日本在住(1948〜1952)

 1948年9月1日に33歳のアーサーはジェネラル・ゴードン号に乗船しホノルルを出航し、途中フィリピン諸島を経て11月に横浜港に入港します。横浜港では森本厚吉博士と米国アッセンブリー教団日本支部長であったジェシー・ウェングラーに出迎えられます。それからアーサーは中野区桃園町26番地の森本夫妻宅に寄寓することになり、ベッドと椅子があるだけの屋根裏部屋に住みます。アーサーはすぐに日本女子経済専門学校の教授として幾つかの科目と聖書クラスを教えることになるのですが、次第に招かれて他の学校の聖書クラスも教えるようになります。

 アーサーが来日した当時の米国アッセンブリー教団日本支部宣教師団にはマリア・ジュルゲンセン、マーガーレット・カーロー、フロレンス・バイヤースの3人の女性宣教師しかいなかったことや車の運転ができるのがアーサーだけだったこともあり、彼は婦人宣教師たちの運転手として東京中を駆け回ります。そして1949年1月の米国アッセンブリー教団本部の幹部二人(ノエル・パーキン海外宣教部長とゲイル・ルイス教団副議長)の来日が決まるとその準備に忙殺されます。アーサーは来日したパーキン海外宣教部長と懇意になり、アーサーの働きぶりを見たパーキンは彼に自動車購入の費用を約束し、アーサーはまもなく他教団の宣教師の不要となった自動車を入手することができました。すでに神召キリスト教会では聖霊神学院が再開されており6人の神学生が学んでいましたが、アーサーはそこでも教鞭を取ります。そしてアーサーは1949年3月15日16日に日本アッセンブリー教団創立総会に参加するのです。アーサーは1951年度は教団の教職検定委員、決議委員、年会委員、1952年度は決議委員、聖会委員、財務委員長に選出されます。

日本アッセンブリー教団創立総会 1949年3月
左から3人目がアーサー・チェスナット

 アーサーは米国にサポート教会のない教団の特別配属であったので、経済的な不安はありましたが全てが備えられました。当時、東京のある教会で毎週土曜日夜にG. I. ゴスペルアワーがあり、そこに多くのG. I.たちが参加していました。彼はそこで知り合ったG.I.たちともバイブルクラスも始めます。

 3月に日本アッセンブリー教団が設立され、米国アッセンブリー教団のジョン・クレメントやジェシー・ウェングラーによって駒込に教団本部及び聖書学校のために土地が見出されます。当時の東京は建設資材が不足しており聖書学校を建てる資材を容易に手配することができませんでした。アーサーの勤務する日本女子経済専門学校が旧日本軍基地の廃材を購入しそれを用いて校舎を建設したのですが、未使用の資材がありアーサーが交渉してそれを無料で譲渡されます。そして日本女子経済専門学校の校舎の建設を請け負った矢崎工務店が聖書学校の校舎の建設も請け負います。このことを通して工務店の矢崎酉之介店長がクリスチャンになり聖霊体験をします。1950年4月に中央聖書学校が開校されると、アーサーは聖書学校の書記・会計の働きに加え、中央聖書学校教員として「ペンテコステの真理」を毎週3日間、1日に2〜3時間の講義をします。

 アーサーは車を駆って1949年7月から8月まで40日間東海道の自動車旅行をしながら伝道し8月には2週間京都大阪で伝道します。10月末に伊藤顯榮神学生を通訳として伴い浜松市の公会堂で10日間の浜松大伝道会を開催し、東京からマリア・ジュルゲンセン、京都から内村誠一が応援に駆けつけています。また1950年5月には通訳として伊藤顯榮神学生を伴い神戸の御影で特別伝道集会を行い、夏には京都の七条教会の会堂建設予定地で特別天幕集会を持ち内村誠一の働きを支援します。京都の内村誠一の働きをフローレンス・バイヤスとルース・フロイドも支援していましたが、七条教会の会堂建築のために米国ニュージャージー州セイレムのセイレムペンテコステ教会から1000ドルが捧げられています。

京都の七条教会建設予定地での特別伝道集会 【1950年10月22日】
中央に内村誠一、その右がアーサー・チェスナット

 アーサーは知り合った占領軍の高官に新宿駅で野外集会を開催することを願いでると驚くことにすぐに許可がおりて、1950年9月に1ヶ月間新宿西口駅前広場で天幕伝道集会をマリア・ジュルゲンセンと共に多くのクリスチャンG.I.や神学生の支援を得て開催します。この集会で三百数十名の決心者が起こされ、その結果のちに二つの教会が生まれるのです。一つのグループは矢崎工務店の大工小屋を借りて仮会堂とした集会で、これが後に高円寺教会(現 新中野教会)となりアーサーが牧会することになります。もう一つのグループはジェス・ペディゴ夫妻の家で集会を始めて、これが後に上高田教会になります。1952年5月に上高田教会が献堂され、献堂式の後にアーサーはマリア・ジュルゲンセンと共に特別伝道集会を開催しています。1952年8月にはアーサーは名古屋の天塚教会の特別伝道会にも出かけています。そして1952年11月には高円寺教会が献堂されます。アーサーはこれらの働きの他にもポケット聖書リーグの働きもしていました。

 アーサーは米国アッセンブリー教団のエヴァンジェル誌に日本報告を3回寄稿しています。それは浜松レポート(1950年1月21日)、京都レポート(1950年10月22日)そして東京レポート(1952年7月6日)です。東京レポートには1952年イースターの駒込での日曜学校の聖会の報告があり、この聖会には750人の生徒と100人の教師が集まっています。地面にゴザを敷いての聖会でした。また5月の駒込での全国聖会の報告もあり、そこでジョン・クレメントが1951年9月のサンフランシスコ講和条約によって日本宣教の新しい時代が訪れていると述べています。

 アーサーは1950年6月の朝鮮戦争の勃発を東京で路傍伝道の最中に聞きます。1950年夏の軽井沢の宣教師総会には韓国からの宣教師の参加もあり、そこで彼は米軍のチャプレンが不足していることを聞いて韓国で米軍チャプレンとなる重荷を持ちます。その後彼は正式に米軍チャプレンの志願をして何度か面接を受けます。やっとチャプレンの訓練学校に行くことを命じられるまでになるのですが、しかし心に平安はありませんでした。そしてある心理学者による最終面談の際にはチャプレン候補者からはねられてしまうのです。

 朝鮮戦争は勃発から2年すると戦況は38度線でこう着状態に陥ります。当時アーサーは中央聖書学校の働き、高円寺教会の牧会、天幕集会、その他に日本女子経済専門学校でもパートで教えていて日々忙しくしていましたが、韓国へのペンテコステ派宣教師の派遣の必要性を痛感し祈りの中で韓国行きを迫られます。戦前に中国で活動した米国アッセンブリー教団の著名な宣教師のハワード・オズグッドは当時米国アッセンブリー教団海外宣教部極東部長でした。オズグッドは1951年に韓国を訪問し同地のペンコステ派教職から米国アッセンブリー教団からの宣教師派遣の要請を受けており、彼はアーサーの日本での働きを見て米国の教団本部にアーサーの韓国派遣を推薦します。

 アーサーは東京の占領軍本部に赴いて韓国に行くために必要なものが何か問い合わせるのですが、朝鮮戦争勃発以前に韓国にいたもの以外にビザは発効されないと言われます。それにも関わらずアーサーはビザの申請書を提出し、最初は拒否されるのですが1ヶ月半後にビザが発給されます。すると彼はすぐに受け持っていた全ての授業をキャンセルして2日後の1952年9月11日の釜山行きの飛行機を予約して羽田から釜山に向かいます。

韓国在住(1952~1955)

 1952年9月に釜山に入ったアーサーはまず各地のペンテコステ派の教職たちを招き彼らとの交わりを深めます。10月には韓国ペンテコステ大会に参加し、その後釜山や大邱のペンテコステ教会の設立を支援します。11月1日からは東京に戻り残した荷物をまとめて16日には韓国へ戻ります。12月15日に正式に米国アッセンブリー教団韓国宣教師団議長に任命されたアーサーは、1953年1月に釜山から京城に移り許弘宅に寄寓し、戦前の五旬節教会のメンバーたちとの交流を深めます。そして許弘宅を拠点にナンブ教会が生まれ、そこが後に韓国アッセンブリー教団の仮本部となります。米国アッセンブリー教団の支援のもとに新たなペンテコステ教団の設立を望むペンテコステ派の教職たちはチェスナットの助力を求めに彼の元に集まります。

 1953年3月には東京の中央聖書学校の卒業式のために来日しますがすぐに韓国に戻り、4月8日に京城のナンブ教会にアーサーを含めた12名のペンテコステ派の教職たちが参集して韓国アッセンブリー教団の創立総会を持ちます。その内の4名は三位一体神観を持ち7名がワンネス神観を持っており、宣教師はアーサー一人で、なお6人が牧会者で4人は教会を持っていませんでした。まず朴聖山を仮議長として総会を進め、初代理事長にアーサーを選出し、許弘が書記会計、朴聖山が代表長老となります。翌日の総会でアーサー、許、朴を教団の代表役員として新たな聖書学校を創立することを決議し、アーサーと許を聖書学校委員に選出します。韓国アッセンブリー教団は7つの教会と約500人のメンバーで設立されたと言われています。

韓国アッセンブリー教団創立総会メンバー【1953年4月8日】
“Pentecost in Korea,” Pentecostal Evangel (1953-08-09), 6.
“Wonderful Building Opportunities in Korea, Pentecostal Evangel (1954-03-28), 7.
後列右端がアーサー・チェスナット、その左が朴聖山、左端が許弘

 1953年5月10日には2年制の純福音聖書学校がナンブ教会で開校され、アーサーが校長、許が学監に選出されます。アーサーは1学期が終わると、日本でも共に伝道したことのあるカナダのハービー・マカリスターを韓国に招いて7月に宣教大会を開催します。そこで多くの人たちが信仰を持ち、アーサーは続いて全国宣教大会を計画します。この大会の準備期間中にアーサーは京城の西門に2棟の荒廃した建物の立つ1300平方メートルの敷地の物件を取得し、これを韓国アッセンブリー教団の本部及び聖書学校とします。1953年10月の第二回韓国アッセンブリー教団の総会でアーサーは理事長に再選され主講師として奉仕します。

 そんなアーサーですが、1955年5月に休暇帰国をすることにし、帰国途中に日本、香港、フィリピン、ハワイを巡ります。1955年4月の第4回総会でも理事長に再選されたこともあり、アーサーの休暇帰国中は後輩の米国アッセンブリー教団の宣教師が彼の代役を務めます。しかしアーサー抜きで異なる教義を持つ教職のいる集団の舵取りは難しく、1955年の終わりから1956年のはじめにかけて韓国アッセンブリー教団は洗礼方式のことなどで最初の分裂の危機を迎えます。

カリフォルニア州在住(1955〜1957年)

アーサーとファニタ・チェスナット夫妻

 休暇帰国したアーサーは米国アッセンブリー教団南カリフォルニア教区の女性宣教師協議会のファニタ(Rubi Juanita Tinker)と出会います。彼女はアーサーより一歳年下で6年前の1949年に夫と死別した未亡人で双子を含む三人の子供がいました。ファニタは1916年8月16日のミゾリー州生まれで、南カリフォルニア聖書学校を卒業し、1952年6月9日に南カリフォルニア教区で按手礼を受けています。アーサーとファニータは1956年3月9日にカリフォルニア州の福音ルーテル教会で結婚します。しかし彼らの結婚には大きな決断と選択が伴いました。当時の米国アッセンブリー教団の離婚者の再婚に関する規定に従い、彼らは1956年3月19日に米国アッセンブリー教団を離脱します。

 アッセンブリー教団を離れた彼らはカリフォルニア州ウェストリバーサイドの単立教会で牧会をします。一方韓国では朴聖山が1956年3月20日に急逝したこともあり、韓国アンセンブリー教団の指導部がそれまで以上に不安定になり、許はアーサーに韓国に戻ることを依頼します。その依頼を受けてアーサーは米国アッセンブリー教団に再加入の申請します。しかし韓国アッセンブリー教団の状況を見た米国アッセンブリー教団パーキン海外宣教部長はアーサーの教団再加入及び韓国派遣ではなく、当時神戸で宣教していたリチャード・ジョンストンに韓国行きを要請します。ジョンストンはこれを受けて1957年1月に韓国に渡ります。そして1957年3月の韓国アッセンブリー教団第6回総会ではジョンストンが新理事長に選出されます。一方米国アッセンブリー教団はチェスナット夫妻に韓国ではなく沖縄に行くことを勧めます。

その後

沖縄クリスチャンスクール校長としてのアーサー・チェスナット 【1964年】

 沖縄に赴いたチェスナット夫妻は1979年まで22年間在住し、現在のネイバーフッド教会を開拓し沖縄クリスチャンスクールなどを支援します。彼らは1979年3月27日に米国アッセンブリー教団南カリフォルニア教区に復帰し沖縄での働きを米国アッセンブリー教団に委ねて帰国します。しかしカリフォルニアに戻った彼らを米国アッセンブリー教団のホーガン海外宣教部長は長く留め置かず、彼らにカンボジア紛争によって生じたタイの難民キャンプの支援を要請します。この申し出を快諾したチェスナット夫妻はタイでの働きを皮切りに、その後は欧州そして南太平洋地域で米国アッセンブリー教団のシニア宣教師として1994年まで活動し帰国します。

 アーサーは2008年11月3日に93歳で、ファニタはそれから11日後の11月19日にカリフォルニア州トレーシーで死去します。彼らの結婚生活は52年間に及び、彼らには子供3人、孫10人、曾孫27人、曾々孫1人が残されました。

『Put. . . Shoes On His Feet』アーサー・チェスナットの自叙伝
裏表紙には当時米国アッセンブリー教団南カリフォルニア教区書記・会計であり、サザンカリフォルニア聖書大学でも共に学び、日本でも共に働いたレオナード・ニッパーが推薦文を書いています。


参考文献

Arthur B. Chesnut, Put. . . Shoes On His Feet (Christian Publishing Service, Inc., 1989)

Jay Woong Choi, “The Origins and Development of Korean Classical Pentecostalism (1939-1962),” Fuller Theological Seminary, 2017, Ph. D. Dissertation.

筆者:鈴木正和

この記事が気に入ったら
いいねしてね!

お友だちへのシェアにご利用ください!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

感想・コメントはこちらに♪

コメントする