MENU

聖霊の炎を掲げて ⑳

戦前の東北宣教とハンセン病者伝道


鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

大巻三郎・辰枝夫妻と神成園

大巻三郎 辰枝夫妻

 日本アッセンブリー教団の源流の一つである滝野川聖霊教会(現 神召キリスト教会)は戦前仙台で活発な宣教活動を行なっていました。その先鞭となったのは滝野川聖霊神学院卒業生の大巻三郎・辰枝夫妻でした。大巻三郎は小さい時から家族の不幸を経験し、その上自身もハンセン病を患い絶望の中にいました。そのような時に大巻三郎はキリストと出会いそして病気も癒やされます。そんな彼に神様はハンセン病患者への伝道の重荷を与えられます。1936年9月に大巻三郎は辰枝夫人と故郷の東北に戻り、ハンセン病患者への伝道を開始し、秋保温泉近くに神成園(しんせいえん)という小さな保養所を開設します。

 大巻三郎は弓山喜馬が発行する『永遠の御霊』に虚石という号で何度か寄稿していおり、戦前の仙台での宣教や神成園の活動の資料は限られていますが、残された資料からその軌跡を追います。

「をとづれ」『永遠の御霊』第8号(1934年12月15日発行)、6。
岩手県大槌城址での聖霊体験

生い立ち

 大巻三郎は1905年に東北に生まれ育ちます。彼は12歳からの10年間に父母を始め家族を次々と5人も亡くし、残された兄は行衛不明となり、姉がハンセン病を患い、彼もまた後にハンセン病を患います。大巻はその苦しみと失望から21日間の水垢離を試みますが、それも虚しい経験と終わります。お寺への日参や断食もしますが効果は何もなく、ますます彼を絶望へと導きます。そのような時に彼は教会に導かれ、救いを体験して生きる希望を与えられ、そしてハンセン病が完治するのです。大巻はハンセン病患者に対する重荷のあったメソジスト派の婦人伝道師の辰枝と結婚し、彼自身も伝道者となることを志します。

滝野川聖霊神学院へ

 大巻夫妻は1934年2月にはすでに聖霊神学院と関わりを持っていました。1934年6月には夫妻は東京から東北に向かい岩手県釜石で伝道活動を開始するのですが、その際には聖霊神学院の代表が彼らを赤羽駅で見送っています。大巻夫妻は釜石で子供伝道や路傍伝道をし、近所の子供たちの日曜学校を試みます。平田村でも日曜学校を開こうと考えましたが、その後大槌町に移り幼稚園を試みます。そんな彼らでしたが、「救癩伝道」に召されたと感じ、大巻三郎は1934年9月に将来のハンセン病患者への伝道に備えるために東京の滝野川聖霊神学院への入学を希望します。

 当時の日本には公立私立8ヶ所のハンセン病患者の療養所があり5000人のハンセン病患者が療養生活を送っていたと言います。大巻は聖霊神学院の校長であった弓山喜代馬らに「自分は癩者救霊の使命がある。それ故御校に入学させていただきたい。若し御許可なき場合は此処を動きません。」と直談判します。彼の熱い思いを聞いて弓山喜代馬の心が動かされます。そして弓山は大巻の頭に手を置きこのように祈り彼の入学を認めます。

 神よ、あなたの導きの故にこの兄弟を、我が学院に学ばせることにいたします。願わくば兄弟が生ける学びができるように、生命のみなきれるあなたの證人とならしめ、病める祖国の五万の病める同胞にあなた様の完き御愛を知らしめることが出来るように兄弟を祝福をもて練り給へ・・・。

「救癩の叫び」第45号『永遠の生命』(1936年8月1日発行)、4ページ。

 大巻が聖霊神学院に入学すると2年先輩に徳⽊⼒、鈴⽊多三 、池⽥政喜夫⼈、一年先輩に菊地隆之助、遠藤志津代、同期には庄⼦テツヨ、富永喜多⼦がいました。マリア・ジュルゲンセンは特に大巻のために米国の支援者に献金を募ります。

滝野川聖霊神学院の記念撮影(1934年頃)
後列左から:大巻三郎、菊地隆之助、アグネス・ジュルゲンセン、フレデリケ・ジュルゲンセン、カール・ジュルゲンセン、庄子テツヨ、富永喜多子、遠藤志津代、大巻辰枝
前列左から:鈴木多三、徳木力、弓山喜代馬、池田夫人、マリア・ジュルゲンセン
“大巻氏、日本の癩者に福音を届ける者”
マリア・ジュルゲンセンが大巻三郎のために特別献金を募ります。

Marie Juergensen, “Harvesting Souls in Japan,” Pentecostal Evangel (1937-01-02), 9.

ハンセン病者伝道

 3年の学びを終え、大巻は1936年6月25日に滝野川聖霊神学院の第5期生として卒業します。卒業から4日後の6月29日に大巻夫妻は赤羽駅で弓山喜代馬らに見送られ、同期の庄子テツヨと共に滝野川聖霊教会の伝道師として仙台に派遣されます。

 仙台に着くと彼らはまず2箇所で開拓伝道を行い、庄子は長町の伝道所を担当します。庄子は初めての集会を1936年7月に持ったと言います。大巻夫妻は仙台に着くとすぐにハンセン病患者の家族への伝道を開始し、1937年春には秋保温泉近くに神成園というハンセン病患者のための小さな保養所を開設します。そのために大巻夫妻に代わって東京の十条教会の牧師であったが鈴木多三夫妻が仙台に派遣されます。続いて1938年には堀内よし子が派遣されます。当時仙台市田町28番に教会があり、支教会も二つありました。1939年には坂本亀蔵夫妻が仙台に派遣されています。

仙台の教役者たち
前列中央が大巻三郎夫妻 中列右が鈴木多三夫妻

 弓山喜代馬は滝野川聖霊神学院の学生たちを伴って何度か仙台に応援伝道に出かけています。一度は車を借りて東京からトラクトを配りながらの伝道旅行をしています。マリア・ジュルゲンセンもまた何度か仙台を訪れて彼らの働きを励ましています。1941年に坂本亀蔵夫妻は滝野川教会の働きを助けるために帰京しますが、戦時中の大巻夫妻の活動を知る資料は見つかっていません。東京に戻った坂本亀蔵はしばらくして徴兵され戦死します。

滝野川聖霊教会仙台教会の日曜学校の生徒たち (1937年)
中央に大巻三郎
滝野川聖霊教会仙台分教会 (1937年)
中央に庄司テツヨ
大巻三郎と坂本亀蔵か
仙台でのクリスマス会(1937年)

滝野川聖霊教会社会部

 1938年に弓山とマリア・ジュルゲンセンたちの滝野川教会は日本聖書教会を離脱し滝野川聖霊教会となるのですが、弓山喜代馬は1940年版『基督教年鑑』に滝野川聖霊教会について記述し、滝野川聖霊教会の5つの部門の一つである社会部についてこのように記しています。

我等は我国に於て比較的等閑に附せられていた救癩事業の志を立て数年間諸般の準備を整えて来たが諸条件に恵まれて遂に昭和13年宮城県秋保村の仙境に保養所神成園を建設した。

「滝野川聖霊教会」『基督教年鑑』(1940年版)、75ページ.

「滝野川聖霊教会」『基督教年鑑』(1940年)pp. 75-76.

 1941年版『基督教年鑑』では大巻三郎は滝野川聖霊教会理事、社会部委員、神成園主事、神成園講義所牧師とあり、住所は宮城県名取郡秋保村境野峠下となっています。

戦後

 戦後になって散り散りになったペンテコステ派の教職たちは新たなペンテコステ派のグループの設立のために動きだします。1947年4月27日から三日間神奈川県の長後で聖会が持たれますが、その時の仙台からの参加者は大巻夫妻かもしれません。大巻の5月24日付けの弓山喜代馬宛の手紙が、弓山喜代馬がペンテコステ派教職の連絡誌として発刊した『聖霊之證』第二号(1947年6月)の通信欄に掲載されています。そこで大巻三郎は近況を次のように述べています。

小生はいまのところ農事に没頭致居る候 足らざる者のため御祷告下され感謝の外御座なく なお御加祷の程願上候。まことなる神のいぶきを國のためそそがん為にわれらありける。

 次いで大巻はあの能の「鉢の木」を想定する漢詩を詠んでいます。当時農業で生計を立てていた大巻は恩師である弓山から新たなペンテコステ派教会の設立のために再び伝道者として立ち上がるように促されるのですが、大巻はその招きに即答しませんでした。妻の大巻辰枝の弓山喜代馬宛の手紙も『聖霊之證』第4号(1947年7月15日)の通信欄に掲載されています。そこで大巻辰枝は彼女の自分自身の子供たちへの思いを詠み、その後彼女の率直な思いを弓山に次のように伝えます。

先生 このように子供が可愛ゆいければ尚更に自ら立派な傳道者立派な母となるべく私はふるい立たねばと考えさせられました。・・・がもう私は静かな態度で常識的な歩みをすることが心から出来るよころびにあふれて居ります。

 大巻夫妻は伝道者として再び立ち上がることなく、1949年の日本アッセンブリー教団の設立には参加しませんでした。

大巻夫妻とお子さんたち

その後

 戦後の日本アッセンブリー教団の仙台での宣教活動は、1948年の夏頃に占領軍の子供たちの学校の教師として来日した米国アッセンブリー教団信徒のマリア・スキルマンよって始められます。スキルマンの招きに応答してマーガレット・カーローが仙台に移り、1949年7月に宣教活動を始めて現在の仙台神召基督教会の礎を築きます。聖霊神学院時代から大巻三郎と寮で寝具を分かち合うほどの友であった徳木力は戦争直後から病院伝道に力を注ぎます。日本アッセンブリー教団内に1954年9月には病院伝道部が編成しラジオ伝道と共に病院伝道に力を注ぎます。いつしか中央聖書学校の学生たちによる国立療養所多摩全生園のハンセン病者の訪問伝道も始まります。


筆者:鈴木正和

この記事が気に入ったら
いいねしてね!

お友だちへのシェアにご利用ください!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

感想・コメントはこちらに♪

コメントする