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聖霊の炎を掲げて ㉒

最年少の教団創立メンバー


鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

マーガレット・カーロー
Margaret Emma Carlow【1917~2005】

マーガレット・カーロー

 1949年3月15日に新しいペンテコステ派の教団の設立のために8人の外国人宣教師と12人の日本人教職たちが東京の神召キリスト教会に参集し、そこで日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が設立されます。米国アッセンブリー教団の新任宣教師であったマーガレット・カーローは当時最年少の32歳でただ一人の大卒者でなおかつ戦前の日本を知らない人でした。マーガレットは宣教の第一線から1990年に73歳で引退するまでいつも日本が彼女の心の中にありました。日本、韓国、ハワイ、フィリピンなどで40年以上も宣教活動に邁進したこの身長158センチの小柄な青い目の独身の女性宣教師はどのような人だったのでしょうか。

生い立ち

 マーガレット・カーローは1917年4月12日に父アーネストと母ルースの間に5人兄弟姉妹の長女としてワイオミング州ジャクソンに生まれます。父アーネストはコロラド州出身の農業従事者(鍛冶屋兼獣医見習い)でした。母ルースはニューハンプシャー州出身の教師でした。父方の家族はアイルランドからの移民でニューヨーク州に入植し、末日聖徒イエスキリスト教会の創設者ジョセフ・スミスの隣人であったことを通してモルモン教徒となり後に中西部や西部に移住します。母方の祖父はニューヨーク州、ニューハンプシャー州、メイン州、アイオワ州で40年間牧会したキリスト教伝道者で、引退後はワイオミング州に移り馬に乗って聖書を販売しながら牧場から牧場へと巡回伝道をしていました。祖母は妹の夫君がマーシャルアイランドへの医療宣教師であったこともあり海外宣教に重荷をもっていました。マーガレットはこのクリスチャンの祖父母の家で生まれ育ちます。彼女が初めて日本を意識したのは、この地域から日本へ派遣されていた宣教師の休暇帰国の際の宣教報告会だといいます。

 マーガレットの家族はその後コロラド州、そして1924年マーガレットが9歳4年生の時に父方の家族の住むアイダホ州に移住します。彼女には弟アーネスト、妹メアリー、弟ロバート、弟スタンリーがいましたが、1927年4月に3歳の弟のロバートが畑の火事に巻き込まれて死んでしまいます。1928年秋に家族はアイダホ州ナンパに移ります。読書家であったマーガレットは飛び級をして1934年5月に17歳でナンパ高校を成績優秀で卒業します。彼女は高校時代からアルバイトをして家計を支えていました。高校卒業アイダホ州ルイストンのアイダホ州立ルイストン教育大学で2年間学びます。彼女は高校と大学のディベートチームで活躍していました。1936年8月に大学を卒業した彼女は9月には19歳でアイダホ州スウィートの公立学校の教師となり2年間奉職します。

1918年のアイダホ州ナンパ高校の卒業アルバムから

宣教師としての召命

 彼女の父はモルモン教徒で母は教会に通ってはいましたがそれほど熱心ではありませんでした。マーガレットが5歳の時に64歳の母方の祖母が心臓発作で亡くなったことを通して神様を求め始めます。14歳頃にアドニラム・ジャドソン宣教師の自叙伝を読んで深い感銘を受けています。16歳の時にまだ信仰を持っていませんでしたが、母を喜ばすために母の通う教会に出席するようになり、聖歌隊や教会学校の教師、そしてユースグループのリーダーとして奉仕します。

 1936年秋に最初に勤務したスウィートには新設されたアッセンブリー教会があり、彼女は夜の集会に通い始めます。1937年3月20日勤めていた学校の前のメンバーの家での水曜夜の祈祷会で、彼女は強くイエス様の臨在を感じ救いを体験します。その教会のR. N. ウォルデン牧師は日本宣教の重荷が与えられており、次の金曜日に彼はマーガレットに聖霊を求めるように勧めます。彼女は4月2日に実家に戻り以前通っていた教会の牧師に水曜の夜の体験を証しし聖霊について話すのですが、牧師はその話をあまり好意的には受け取らず彼女の心は休まりませんでした。4月5日の月曜夜の祈祷会で2時間ほど友人たち共に祈った後に、彼女は突然イエス様のヴィジョンを見て聖霊体験をして異言を3時間語ります。その時にマーガレットは日本への宣教師となる召命を受けるのです。その後気候が温まるのを待って5月11日に洗礼を受けます。翌年には2歳年下の弟のアーネストを救いに導き彼も伝道者として立つ決心をします。その後幾度か彼女の勤務地は変わりますが、教師の仕事のかたわら熱心に伝道し地域のアッセンブリー教会で奉仕します。

 経済的に豊かでなかったカーロー家にとって長女と長男がすぐに神様からの召命に応答して宣教師や伝道者となることは良いことではありませんでした。そのためマーガレットは家計を支えるため弟や妹が学業を終えるまで召命に応答を控えることにするのですが、2年後の1939年3月20日には意を決して米国アッセンブリー教団海外宣教部長のノエル・パーキンに日本に宣教師として赴きたいという彼女の熱い思いをしたためた手紙を送ります。

 当初マーガレットは日本で既に独立宣教師として活動していた元米国アッセンブリー教団所属のハリエット・デスリッジと共に働くことも視野に入れていましたが、パーキンとの幾度かの書簡の往復を通して1939年の夏には米国アッセンブリー教団所属宣教師としてアイダホ州の所属教区を通して米国アッセンブリー教団本部へ日本への宣教師となる志願書を提出する運びとなります。しかしその頃日米関係は悪化の一歩をたどり、米国アッセンブリー教団は日本在住の宣教師に帰国を勧告することにし、マーガレットが新任の宣教師として日本へ赴くことはありませんでした。

 1941年12月に日本と米国が開戦するとマーガレットは早く母国と召命の地日本との戦争が終結することを願うのでした。戦時中もマーガレットはパーキン宣教部長との関係を継続し、日本に残された知人のハリエット・ディスリッジの帰国への道を探るために連絡を取り合っています。

 マーガレットは1942年8月から1944年5月までワシントン州ワラワラの空軍基地で政府のラジオ技師として働きます。残念なことに弟のアーネストは1943年4月8日に太平洋戦争中のニューギニアでの軍務中の飛行機事故で命を落とします。しかしこの悲しい出来事を通しても彼女の敵国日本への愛は変わりませんでした。彼女は弟の死を通してあらためて日本宣教のヴィジョンが与えられます。アーネストの死によって母親が彼の遺族年金によって生活のめどがたったこともありあらためて宣教師の召命に応答しようとします。

 まだ戦時中でしたが日本への宣教師となる準備のために彼女は1944年5月にアイダホ州ナンパに戻り、1944年9月から1946年の6月までアイダホ州ケンブリッジの公立学校で働きつつ米国アッセンブリー教団国内伝道部に所属して市内のアッセンブリー教会で副牧師として奉仕します。また教壇の立ちながら幾人もの生徒たちを救いに導き、地元の日系米国人の中で伝道やガールスカウトなどでも活動します。そんな中1945年には別居中であった両親が離婚します。1946年6月から1947年6月まで大学の保健室で働きながらアイダホ州ルイストンの北アイダホ教育大学に学び教育学学士を取得します。

 1947年に正式に米国アッセンブリー教団海外宣教部から日本への宣教師として認可される運びとなり、当時占領下にあった日本への一般米国人の入国ビザの要件として基本的な日本語能力があったので、彼女は1947年9月から1948年3月までカリフォルニア大学バークレー校の極東ロシア言語学部で日本語を1学期間学びます。その後来日に備えて諸教会巡回し、1948年7月19日には米国アッセンブリー教団海外宣教部から正式に日本への宣教師としての任証を受け1948年8月27日に日本に向けて出帆します。

第1期 (1948~1952)

東京 (1948~1949)

 31歳になったマーガレットは召命を受けてから11年目の1948年9月に初めて日本の土を踏みます。すでに敗戦から3年を過ぎていましたが横浜から東京に向かった彼女は復興ままならず戦禍のツメ跡が残る情景に驚きます。彼女は東京滝野川の神召キリスト教会に荷を降ろし、マリア・ジュルゲンセンと共に住みながら東京日本語学校に通い日本語を学びます。教会では英語や聖書を教えるのですが、彼女が教会で会う日本の若者たちは栄養不足で顔色はよくないのですがとても信仰熱心だったと記しています。そして1949年3月15日の教団創立総会では遠来の総会参加者たちを神召キリスト教会で出迎え、日本アッセンブリー教団のチャーターメンバーの一人となるのです。

1948年来日時の宣教師紹介のブックマーク
【中央聖書神学校図書館所蔵】

仙台 (1949~1952)

 1949年の12月のある日にマーガレットは「仙台へ行きなさい」という神様からの声を聞いたといいます。そして1学期間の日本語クラスを終えた冬休みを利用して1949年1月に彼女は宮城県仙台で占領軍子弟の学校で教師をしていた米国人の友人のマリヤ・スキルマンを訪ねます。そしてマーガレットはスキルマンの招きに応答して1949年7月20日に夏休み中の中央聖書学校の二人の女子神学生を伴って仙台での開拓伝道を開始します。彼女はそこでは多くの飢え乾いた魂と出会い、数ヶ月後には270人の子供たちが日曜学校に集い、多くの救われる魂が起こされて礼拝出席者が70名を超えるようになります。そして翌年の1950年10月15日には250坪の土地を購入し牧師館を建てて仙台神召基督教会を立ち上げます。幾人もの相応しい助け手たちを得たマーガレットは聖書の会や英語クラス、路傍伝道、日曜学校や家庭集会と精力的に活動します。また仙台近郊在住の米軍GIたちも彼女の働きを支援します。

 1952年8月にマーガレットが休暇帰国する際に、1950年にハワイから米国アッセンブリー教団の協力宣教師として来日し神戸で日本語を学びながらバイヤース宣教師を助けていたエレン山田が仙台のマーガレットの働きを引き継ぎます。

仙台神召基督教会の献堂資金を集める時のトラクト
【中央聖書神学校図書館所蔵】

休暇帰国(1952〜1955)

 マーガレットは1952年に最初の休暇帰国をし、1952年9月から1953年6月までミゾリー州スプリングフィールドのセントラル・バイブル・カレッジに学び宗教教育で学士号を取得します。その後仙台の教会堂の募金のために諸教会を巡回するのですが、そこで心臓発作に襲われます。幸い大事にはいたりませんでしたが10日間の入院と3ヶ月間の療養が必要でした。体調が戻ったマーガレットは1954年3月25日にアイダホ州ポキャテロで南アイダホ教区から按手礼を受けて正教師となり1955年8月に再来日します。

仙台神召基督教会の日曜学校 
(1950年イースター)

小学2年生から高校一年生までの日曜学校には250人以上が集まり、中一以上は日曜日の午後3時から集まり、他の学年は午前9時から集まっていました。数名の教会員がとても熱心に奉仕していました。マーガレット・カーローは右側から5人目です。

イースター礼拝後の記念撮影
(1950年イースター)

後ろの建物の二階が宣教師住居で、一階で集会を持っていました

幼稚園生から一年生までの日曜学校
(1950年イースター)

地幼稚園生から一年生は日曜日午後1時半から集まっていました。

仙台神召基督教会献堂式 
(1950年10月)

【御霊に導かれて 仙台神召基督教会小史(1984年)より】

マーガレット・カーローを囲んで
(1951年)

来仙2年の記念会において

第2期(1956〜1959)

東京

 東京に戻ったマーガレットは保谷(現 西東京市)に住み、1956年から1年間高円寺教会を助けながら東京日本語学校に復学して日本語を学び3年課程を修了します。その後中央聖書学校で教壇に立ち、パウロ書簡やキリスト教教育などを日本語で講義します。また1957年から1960年までは日本アッセンブリー教団の出版部部長の要職にあって、多くのトラクトや20冊以上の書籍を福音出版社から出版します。彼女の日本語学校の教師だった木村博が英語の翻訳を手伝い、桜町の木村宅でも開拓伝道を始めます。

岡山(1958~1959)

 エレン山田は1954年に仙台から岡山に移って開拓伝道に従事していました。エレンは境港での開拓伝道を始め1957年9月に休暇帰国する際に今度は東京のマーガレットが岡山に赴いてエレンの働きを引き継ぎます。マーガレットは岡山で広島にいた北野耕一とハワイからエレンを助けに来ていたエレンの父と共に1959年7月の岡山神召教会の献堂に力を尽くします。休暇帰国したエレンと北野が1959年8月6日に軽井沢のマリア・ジュルゲンセンの別荘の庭で結婚式を挙げた際にはマーガレットが結婚式の一切を取り仕切ります。マーガレットは1959年10月に日本を離れ台湾で2ヶ月ほど宣教活動に従事し、その後2度目の休暇帰国をします。

休暇帰国(1960〜1962)

 彼女の休暇帰国中に母のルースが心臓発作で倒れたために、マーガレットは長らく母を看護する必要がありました。マーガレットは病身の母と伴って再来日する方法を探りますが見つからず、そんな中彼女は心血を注いでいた日本アッセンブリー教団出版部長の職から外れたことを知り落胆します。そんな中で韓国での宣教の門が開かれ、マーガレットは宣教地を日本から韓国に変えることにします。

第3期

韓国(1962〜1968)

 1962年3月に韓国に向かったマーガレットはまずソウルの延生大学語学堂で7ヶ月間韓国語を学びます。その後1963年から1968年までの5年間全州市のエターナルライフ中等学校と大学部(永生学園【現 全州大学校】)で教壇に立つのですが、教えるだけではなく女子高校の校長と大学部の学長代行(初代学長)の要職につきます。またチャペルでのメッセージの他にも近隣の町の開拓伝道を助けます。マーガレットは唐津聖書教会で伝道中の北野耕一・エレン夫妻に1962年に長女ジョイスが生まれた際には、彼女の献児式の司式者として7月に韓国から唐津に行っています。

韓国での宣教師時代のパンフレット
【フラワー・ペンテコスタル・ヘリテージ・センター所蔵】
韓国のソウル駅で趙鏞基牧師に出迎えられる(1963 年7月)
【フラワー・ペンテコスタル・ヘリテージ・センター所蔵】

ハワイ (1965)

 マーガレットは学長職の任務遂行に必要な学位取得のために1965年から1年間、一時休暇を取ってハワイ州ホノルルのハワイ大学で言語学を学びます。1966年8月に韓国に戻り1967年1月にハワイ大学大学院から教育学修士号が授与されます。

国内伝道部(1968~1970)

 1967年秋に全州で働いていた彼女のもとに再度母が心臓発作を起こしたという知らせが届きます。そこで彼女は母の看病のため1968年3月に海外伝道部から国内伝道部移ることにし、永生大学校の第一回卒業式の後に母のいるアイダホ州ナンパに戻ります。

 1968年9月から1年間彼女は生活費を賄うために母の看病のかたわらオレゴン州マータルクリークの学校で教えます。そして1969年8月に母と共にハワイに渡り、ヒロ第一アッセンブリー教会の臨時牧師を務めます。1970年9月にアイエアに移りラジオ・ハワイの日本語のラジオ相談員として働き、ハワイの日系人や韓国系人の間で伝道します。そして主の導きによってマーガレットはアイエアに母を残し、1970年8月に再度海外伝道部に移籍して、本土には戻らずそのまま召命の地である日本に向かうのです。

第4期(1970〜1976)

東京

 10年ぶりに日本に戻ったマーガレットの東京での生活が始まりますが、最初の2年間は暫定的なもので1970年9月から1972年6月までは東京都久留米町(現 東久留米市)のクリスチャン・アカデミー・イン・ジャパンで日本語、スピーチ、タイピングなどを宣教師の子供たちに教えます。1970年12月12日にハワイに残して来た母がアイエアで召されます。インターナショナル・スクールでの働きを終えると、マーガレットは再び中央聖書学校の教壇に立ち、保谷キリスト教会(現 西東京キリスト教会)や横田極東軍人教会(元 横田クリスチャンセンター 現 横田ICA)の働きを助けます。

休暇帰国(1977)

第5期(1977~1980)

東京

 休暇帰国を終えたマーガレットは1977年に東京に戻り中央聖書学校と横田クリスチャンセンターでの働きを続けます。横田クリスチャンセンターは米国軍人や軍属たちを対象とした教会でしたが、日本人が来ることもよくあり彼女はそこで日本人フェローシップを立ち上げます。1978年頃から狭山キリスト教会の仁司延之・路子夫妻が定期的に彼女の働きを支援するようになります。マーガレットは以前からしていた病院での医師や看護師たちへ英語教授も続けます。彼女はそこで得た謝礼金を数冊の本の出版に用いています。

休暇帰国(1980~1981)

第6期(1981〜1983)

東京

 1981年に仁司延之が白血病で召されますが、マーガレットは1983年に横田の働きを仁司路子に委ねます。この働きが1983年に横田キリスト伝道所(現 西多摩キリスト教会)となります。米国アッセンブリー教団の宣教師規定に伴い現役宣教師を引退することになったマーガレットは後ろ髪をひかれながら保谷(現 西東京市)の住まいを引き払い、1984年に日本を離れフィリピンのマニラに向かうのです。

資料 横田クリスチャンセンターの日本人フェローシップで
(1983 年11 月頃)【西村克哉さん提供】

第7期(1984〜1989)

マニラ

 現役宣教師としての引退年齢を迎えたマーガレットですが、1984年にマニラにあった極東高等神学院【FEAST】(現 アジア太平洋神学院【APTS】)が彼女を英語が母国語でない学生の英語教師として招聘します。当時は北野耕一が極東高等神学院の事務局長兼学監でした。米国アッセンブリー教団のシニア宣教師としてマニラに移ったマーガレットは英語以外にも後にヨハネの福音書などを教えます。また極東高等神学院と同じ敷地内のベテル聖書学校でも教えます。また北野耕一・エレン夫妻が始めたマニラの日系人教会の働きを助け、北野夫妻がシンガポールに移った後も続けて奉仕します。

晩年のポートレート

隠退

 1989年12月21日にマーガレットの海外宣教生活も終わりの時を迎え、彼女はマニラを去って1990年12月にはオレゴン州コーヴァリスでの隠退生活に入ります。そこでも彼女は機会を作っては近隣の日系人への伝道を続けます。1992年に北野ジョイスが米国アッセンブリー教団の宣教師として日本に派遣される際には旧知の牧師たちに彼女の推薦状を書き送っています。マーガレットは2005年9月18日にオレゴン州オンタリオで88歳で亡くなり、10月8日には故郷のアイダホ州ナンパのアッセンブリー教会で葬儀が行われ同地に埋葬されます。

休暇帰国中に諸教会を巡回中のマーガレットの願い

 マーガレットが米国での休暇帰国中に諸教会を巡回伝道する際に配るチラシにこのような文言があります。「アジアの宣教師であることのチャレンジや満足が私のクリスチャンとしての生活を豊かにしてくれました。私は出来るだけ早く東京に戻りたいのです。」彼女は心から日本を愛し日本人の救いを願っていたのです。

マーガレット・カーローの墓石 (弟のロバートと共に)
アイダホ州ナンパのコーラーローン墓地

追憶

 人には忘れることのできない信仰の恩人が何人かいるでしょう。私にとってマーガレット・カーロー先生もそのお一人です。最初にお会いしたのはローバート・ハイムス先生ご夫妻に紹介されて1975年の秋のことだったと思います。私が高校三年生で交換留学中に信仰をもった教会が彼女をサポートする彼女のよく知るアイダホ州のアッセンブリー教会だったことを知るととても喜んでくださり、それから私のことを「故郷(さと)の孫です」と嬉しそうに紹介してくださるようになりました。

 一見こわそう、そして実際にこわいのですが、彼女は親身になって私たちを導き厳しい言葉をかけてくださいました。「ダメなことはダメ」といつもはっきりと言ってくださいまた。「もっと勉強しなさい、修士号で満足せずにさっさと博士号を取りなさい」と背中を押してくださったのもカーロー先生でした。私の牧師であった仁司延之先生が白血病で倒れた時には、米国の大学へ留学中の私の住む学生寮に長距離電話をかけてくださり「仁司先生のために祈れ!」と知らせてくださったのもカーロー先生でした。

 聖霊の働きの峻別や異言の解き明かしなどもカーロー先生を通して学ぶことが多くありました。「いつでも証しができるように、いつでもメッセージが語れるように」とカーロー先生には何度も迫られました。そして「全てのメッセージでイエス様の十字架が語られなくてはいけない」というのもカーロー先生の教えでした。いつも聖書の学びの大切さを話されていたカーロー先生ですが、日本を離れる際には数冊の聖書の学びの本をいただきました。

 1980年の夏に私のアイダホ州の私のホームチャーチを訪ねた際に休暇帰国中のカーロー先生の仮住まいを訪問する機会がありました。そのお住まいはとても質素で敢えて言うならばとても粗末な場所でした。そこで先生としばらく語らいお祈りしてお別れをしたのですが、アパートの外に出た時に自然と涙が溢れ出たのを思い出します。日本では外国人宣教師の生活は一見華やかに見えるかもしれませんが、カーロー先生は日本の魂の救いのために何年も質素な生活をし全てを捧げてくださっていました。献身者の生活が決して生やさしくなく召命に応答し続けることの厳しさを目にしました。

 カーロー先生に最後にお会いしたのは1999年の教団創立50周年の聖会ではなかったかと思います。今、カーロー先生の一生を振り返るこの小文をまとめながら、あらためて「信仰者・献身者の生きる姿勢」を考えさせられました。彼女は熱心に日本語の学び、聖書を学び、伝道し、祈り、主にあって全てのことを熱心にされました。そして彼女にとって日本は特別な場所でした。神様が導いてくださるのならまた日本に戻って宣教したいと願っておられました。40年も前に横田クリスチャンセンターでカーロー先生と出会って信仰を持った幾人もの旧友たちが今でも熱心に信仰生活を送っているのは本当に嬉しいことです。

カーロー先生のお証の小冊子『私が日本へ来たのは』(教団出版部)(20ページ)
【中央聖書神学校図書館所蔵】

筆者:鈴木正和

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