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聖霊の炎を掲げて ㉔

戦前のアッセンブリーの群れの機関誌


鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

 福音は霊のみならず人と文字で伝えられます。「聖霊の炎」も霊と人と文字で伝えられて来ました。私たちはこれまでに発行された世界のペンテコステ派の機関誌や出版物などを通して神様の御業と信仰の先達たちの働きを知ることができます。日本にも幾つか戦前のアッセンブリーの群れの機関誌が残されており、私たちはそれを読み解くことによって当時のペンテコステ派のクリスチャンたちの活動や彼らの葛藤を知ることが出来ます。

 戦前の日本アッセンブリー教団の前身のグループを総括すると以下のようになります。1920年に米国アッセンブリー教団の宣教師たちによって日本支部が設立され、彼らは日本ペンテコステ教会として活動を開始します。1929年に日本ペンテコステ教会が日本聖書教会に改編されます。1937年夏に日本聖書教会の再編が協議され1938年には日本聖書教会の本部教会であった滝野川教会が滝野川聖霊教会として独立し日本聖書教会を離脱します。滝野川教会の離脱後に西巣鴨(大塚)教会が日本聖書教会の本部教会となります。宗教団体法の施行を受けて1940年に日本聖書教会が改組されノーマン・バースが理事長を辞任し、村井が改組された日本聖書教会教団の監督となります。1941年には日本聖書教会教団の一部と滝野川聖霊教会が日本基督教団第10部に加入します。1942年には西巣鴨(大塚)教会が宗教結社(豊島)イエス之御霊教会として認可されます。

目次
  1. 戦前のアッセンブリーの群れの機関誌
    1. 戦前の三つの機関誌
      1. 『後の雨』誌について
        1. 資料 『後の雨』1929年6月1日発行創刊号
        2. 資料 日本聖書教会第一回設立予備年会の宣教師と日本人教役者『後の雨』1929年6月1日発行創刊号(2ページ)
        3. 資料 「各地教会通信」『後の雨』1929年7月1日発行第2号(5ページ)
        4. 資料 カール・ジュルゲンセンのメッセージ『後の雨』1930年7月1日発行第14号、『後の雨』1931年6月1日発行第25号
        5. 資料 弓山喜代馬の証しとメッセージ『後の雨』1931年6月1日発行第20号、『後の雨』1931年7月1日発行第26号
        6. 資料 残存する最後の『後の雨』『後の雨』1933年6月1日発行第49号
      2. 『永遠の御霊』誌について
        1. 資料 『永遠の御霊』1934年5月20日発行第1号
        2. 資料 「滝野川ミッション便り」と「編集後記」『永遠の御霊』1934年5月20日発行第1号
        3. 資料 勇美生『「何処へ」朝鮮だより』「永遠の御霊」1934年11月15日発行第7号(2ページ)「永遠の御霊」1935年3月1日発行第29号(2ページ)
        4. 資料 「鳩の便り」『永遠の御霊』1936年6月1日発行第44号(6ページ)『永遠の御霊』1936年8月1日発行第46号(8ページ)
      3. 『聖霊』誌について
        1. 資料 『草苑』1933年8月15日発行第7号、『聖霊』1934年2月発行第11号、『聖霊』1934年11月発行第17号、『聖霊』1936年8月発行第18号
        2. 資料 『聖霊』1938年2月1日発行第34号、『聖霊』1939年2月1日発行第45号
        3. 資料 『聖霊』1940年6月1日発行第60号
        4. 資料 『聖霊』1941年7月1日発行第72号
        5. 資料 『聖霊』1942年5月1日発行第81号、1942年10月1日発行第87号、『聖霊』1943年12月1日発行第97号、『聖霊』1952年5月1日発行再刊第一号
    2. おわりに

戦前の三つの機関誌

戦前のアッセンブリーの群れは3つの機関誌を発行していました。それは名古屋日本聖書教会のジョン・ジュルゲンセンによって1929年から発行された『後の雨』誌、西巣鴨(大塚)日本聖書教会の村井によって1934年2月から発行された『聖霊』誌、そして滝野川日本聖書教会の弓山喜代馬によって1934年5月から発行された『永遠の御霊』誌です。現在まで筆者が収集した資料からこれらの三つの機関誌の発行年は以下のように推測されます。

『後の雨』誌:1929年5月1日発行創刊号〜1933年6月1日発行第49号

『聖霊』誌:1934年2月発行第11号〜1943年12月発行第97号

 (『草苑』1933年2月発行第1号、1934年2月発行第11号から『聖霊』に改題される)

『永遠の御霊』誌:1934年5月発行第1号〜1941年11月1日発行第100号

資料 戦前・戦中の日本アッセンブリー教団関連グループと機関誌図 1

『後の雨』誌について

1929年3月に滝野川教会で日本聖書教会の設立予備年会が開催され、日本ペンテコステ教会が日本聖書教会として改編されます。その際にそれまで以上に一つの教団としての働きを強め各地の教会相互の交流を深めるために教団機関誌の発行が決議されます。それまでに多くのトラクトなどを発行していた名古屋のジョン・ジュルゲンセンが発行責任者となり、名古屋のキリスト教出版社「一粒社」の横井憲太郎の協力を得て『後の雨』誌が発行されます。

『後の雨』誌の創刊号は1929年5月号で、中央聖書神学校図書館資料室には創刊号から1932年5月発行第32号までのコピーが収蔵されていましたが原本は残されていませんでした。しかし筆者が関西の古書店に原本が収蔵されていることを発見し、現在では原本も中央聖書神学校図書館資料室に収蔵されています。中央聖書神学校図書館資料室に残された『後の雨』誌のコピーと古書店から購入した『後の雨』誌の原本の双方が1932年5月第32号までなので、それが『後の雨』誌の最終号だと考えていましたが、川村清志(国立歴史民俗博物館准教授)の著書『クリスチャン女性の生活史─「琴」が歩んだ日本の近・現代』(青弓社、2011年)によって少なくとも『後の雨』誌は1933年6月発行第49号まで発行されていたことがわかりました。この本は川村清志さんの祖母の丸山琴(名古屋日本聖書教会の丸山栄牧師夫人)のライフヒストリーを綴ったものです。川村清志さんと連絡を取りご厚意によりご実家に収蔵されていた『後の雨』誌のコピーを入手することができました。手にした1933年6月発行第49号にはそれが最終号であることは明記されておらず、その後も『後の雨』誌が発行されていたのか、またなぜ発行が終了したのかはわかりません。しかしこの直後に弓山喜代馬によって「『永遠の御霊』誌と村井によって『聖霊』誌の二誌が発行されたことにより、1933年から1934年にかけて日本聖書教会内で何かの変化があったことが窺い知れます。

資料 『後の雨』1929年6月1日発行創刊号

 ジョン・ジュルゲンセンが創刊号の「巻頭言」としてヨエル書2書23節から「後の雨」の使命について述べています。そこでジョンは祈祷と信仰の大切を説き、今が「後の雨」の時代だと述べています。

資料 日本聖書教会第一回設立予備年会の宣教師と日本人教役者
『後の雨』1929年6月1日発行創刊号(2ページ)

 日本聖書教会の第一回設立予備年会が滝野川教会で開催され、各地のアッセンブリーの群れの宣教師と日本人教職が参集し、その時の写真が掲載されています。この中には1949年の日本アッセンブリー教団創立総会に参加したジェシー・ウェングラー、マリア・ジュルゲンセン、フローレンス・バイヤス、坂本キミの顔も見えます。

資料 「各地教会通信」
『後の雨』1929年7月1日発行第2号(5ページ)

 『後の雨』誌にはしばしば「各地教会通信」として日本聖書教会所属の各地の教会の通信が掲載せれており、それによって当時の教会の様子を知ることができます。『後の雨』1929年7月1日発行第2号の「各地教会通信」には大塚教会、名古屋教会、立川教会、本郷教会、滝野川教会、八王子教会、神戸教会、子供ホームの項があります。

  • 大塚教会は巡回伝道者の村井による春季特別伝道会を5月22日から26日まで、その後27日から29日まで決心者求道者会を開催し、そこで18人ほどの決心者が与えられています。
  • 名古屋教会は当時無牧の状態で一粒社の横井憲太郎が出版事業の傍らジョン・ジュルゲンセンを助けています。前年に妻のエスターを亡くしたジョンを東京から母親のフレデリケが助けに行っていました。
  • 滝野川教会は弓山喜代馬の辞任によって当時は無牧でした。7月上旬に天幕伝道集会を計画し巡回伝道者の多辻春吉が講師として招聘されています。この頃カール・ジュルゲンセンは体調を崩していたようですが回復に向かっています。
  • 本郷教会(富士前)の4月の教勢はやや良好で日曜礼拝の出席が平均で18名、求道者が平均で3名いました。献金の平均が1円60銭で日曜学校の出席が平均で27名でした。当時谷力夫妻が牧会しており谷夫人は臨月のようです。

立川教会ではハリエット・デスリッジの主催するベレア聖書女学院の第二回の卒業式があり、宮崎美智子、鈴木シナヨ、武田かね、長嶋ツル、清水勝代の5名が卒業しています。この通信から以下のように卒業式式次第を作成することができます。

資料 カール・ジュルゲンセンのメッセージ
『後の雨』1930年7月1日発行第14号、『後の雨』1931年6月1日発行第25号

カール・ジュルゲンセンのメッセージはほとんど残されていません。ここにあげた「内住のキリスト」と「「第三回の年に直面して」は日本聖書教会理事長であったカールが1930年と1931年の日本聖書教会の年会で語ったメッセージです

「内住のキリスト」でカールはこのように語っています。

「私共は此の声を即ち神の声を傾聴する為に静かに聖前に黙して待ち望まねばなりません。日々己に死んで神の声を聞き之に従って子たる道を歩む可きであります。自己の計画と肉の思いを全く捨てて神の声に耳を傾け、神の聖旨の我が内に成就せんことを求め内住のキリストの御活動を望まねばなりません。中略 私共ペンテコステには之が必要であります。神は皆様に今も語って居られます。私共自ら省みたいと思います。一体何故に私共の働きが成功していないのでしょうか。果たして神の言葉を聞き神に従って居るでしょうか。先ず主キリストを私共の内に宿し奉ろうではありませんか、そうして主に働いていただこうではではありあせんか。神に全部をお委せ申せば神は必ず働き給います。自己の計画と思考にあらず、自己の能力や才智にあらじ聖霊によって神自ら働き給うて日本に於ける私共の団体に栄えを顕し給うでありましょう。」

資料 弓山喜代馬の証しとメッセージ
『後の雨』1931年6月1日発行第20号、『後の雨』1931年7月1日発行第26号

弓山喜代馬はペンネームの牧童を用い『後の雨』誌に何度か寄稿しています。「私は何故聖書を信ずるか」(第20号)は弓山の証しです。「リバイバルとは何ぞ」(第26図 12号)には若かりし日の弓山の写真が載っています。第20号は緑字印刷、第26号は青字印刷です。

資料 残存する最後の『後の雨』
『後の雨』1933年6月1日発行第49号

 第49号が残存する『後の雨』誌の最後のものですが、そこに終刊の予告はありません。巻頭言でジョン・ジュルゲンセンが「日本聖書教会会員の資格」について記しています。そこでジョンは日本聖書教会会員に清い生活の重要性を述べています。

『永遠の御霊』誌について

 滝野川日本聖書教会の弓山喜代馬は『光の子供』という子供向けの新聞を出版してましたがそれは現存していません。その後弓山によって『永遠の御霊』1934年5月20日発行第一号が滝野川教会の「日本聖書教会出版部」から発行されています。理由は分かりませんが1935年1月15日発行第9号から2ヶ月後の1935年3月1日発行29号まで20号分が飛び、20号からは第三種郵便認可が1933年7月1日と明記されています。中央聖書学校図書館資料室には1934年5月20日第1号から1936年12月1日発行の第49号までの原本と出版後の弓山喜代馬の訂正の入ったコピーが収蔵されています。

 長らく『永遠の御霊』誌の最終号がこの第49号だと考えられていましたが、2022年に弓山喜代馬の次女の江草恵美子さんの遺品の中に未確認の『永遠の御霊』誌の6号分のコピーが残されており、それをご子息の江草徹也さんが提供してくださいました。残されていたのは1937年4月1日発行第53号、1938年3月1日発行63号、1940年4月1日発行第84号、1940年7月1日発行86号、1940年9月8日発行第88号、そして1941年11月1日発行第100号の6号分です。これにより『永遠の御霊』誌は1936年12月1日発行第49号で終刊したのではなく、滝野川聖霊教会が日本基督教団第十部に加入する1941年11月まで発行されていたことがわかりました。ちなみに1940年4月1日発行第84号からは「聖霊神学院同窓会機関誌」となっています。

資料 『永遠の御霊』1934年5月20日発行第1号

永遠の御霊』誌は日本聖書教会出版部発行となっていますが、日本聖書教会全体のことでなく主に滝野川教会周辺のことが綴れています。

資料 「滝野川ミッション便り」と「編集後記」
『永遠の御霊』1934年5月20日発行第1号

  第1号の「滝野川ミッション便り」(6ページ)には1934年に入ってからの滝野川教会と聖霊神学院の出来事が時系列で記されています。それによると弓山喜代馬は2月21日から25日まで聖霊神学院の生徒であった鈴木多三、大巻三郎、明田餘作の3人を伴って房総半島を一周する伝道旅行をしています。3月15日には聖霊神学院の卒業式があり、鈴木多三、徳木力、池田政喜夫人の3名が卒業しています。弓山は3月16日から31日まで関西旅行をし加古川では三日間の特別伝道集会で奉仕をし、神戸では明田餘作の働きを視察し西宮の子供ホームで一泊しています。帰路名古屋にジョン・ジュルゲンセンを訪問し病気の息女のために徹夜で祈り、浜松ではアグネス・ジュルゲンセンの集会でメッセージを取りついでいます。4月1日にはインドネシアに行く途中の宣教師たちのメッセージを聞いて励まされ、4月10日には聖霊神学院の始業式があります。4月26日には卒業したばかりの鈴木多三が十条教会の担当となって引っ越しをし、甲府教会の田中篤二が活躍や1934年度の聖霊神学院の入学者が4名だったことが記されています。

 「編集後記」によれば、弓山が関西に旅行した際に新たに新聞の発行を神に示され『永遠の御霊』誌の発行となったことが記されています。

資料 勇美生『「何処へ」朝鮮だより』
「永遠の御霊」1934年11月15日発行第7号(2ページ)
永遠の御霊」1935年3月1日発行第29号(2ページ)

 1928年に滝野川教会の牧師を辞任した弓山喜代馬は東京を去り朝鮮半島に渡り、1930年に東京に戻った弓山は5月には滝野川教会の牧師に復帰します。弓山が朝鮮で何をしていたかを明確に示す資料は残されてはいません。しかし弓山は朝鮮での生活の回想を『永遠の御霊』誌に勇美生というペンネームで『「何処へ」朝鮮だより』として12回にわたり連載しています。そこには弓山の1928年6月10日から1928年10月10日までの朝鮮の扶餘の山間の一寒村での生活が綴られています。(其の一)はゲーテの詩で始まり(其の十二)はハイネの詩で終わっています。この『「何処へ」朝鮮だより』を通して、私たちは当時の弓山の心の情景を知ることが出来ますが具体的にどのような活動をしていたかを知ることはできません。

 『「何処へ」朝鮮だより』(其の三)を読むと、失意の中に扶餘の寒村で暮らす弓山の心の痛みがひしひしと伝わって来ます。「・・・僕は薄幸な自分の身の上を悲しむ。この世に僕を慰めてくれるものは絶えていない。世界は僕に顔を背けている。僕は全ての人から捨てられているではないか。僕は破綻した自分の家庭を嘆く。・・・御用の為にお使い下さりながら、此の弱い僕に家庭の平和と幸福とをお与え下さらないとは。神に怨言(つぶや)きたくなる時が如何に多いことぞ!!」

資料 「鳩の便り」
『永遠の御霊』1936年6月1日発行第44号(6ページ)
『永遠の御霊』1936年8月1日発行第46号(8ページ)

   『永遠の御霊』第44号から「鳩の便り」という聖霊神学院の卒業生の通信欄がああります。第44号は大月教会(富永喜多子)、今津教会(徳木力)、甲府教会(田中篤二)、市川教会(菊地隆之助)、十条教会の鈴木多三、滝野川教会(弓山牧童)の通信が載っています。第46号には仙台の長町教会(庄子テツヨ)が加わっています。第二教会は十条教会、第一教会は滝野川教会のことです。当時は教職であっても兄姉を呼称としていました。

資料 『永遠の御霊』1941年11月1日発行第百号

 太平洋戦争突入直前に発行された『永遠の御霊』第百号には「教会報告団」の結成が記され、日本基督教団に加入することになった滝野川聖霊教会は新たな教会名として「神召教会」を選択決定したと記されています。

『聖霊』誌について

 ノーマン・バースは1936年12月20日付の米国の友人宛の手紙に新たな月刊機関誌の発行を始めたとことを記しています。その出版物が何を指すのか長らくわかりませんでしたが、創立50周年記念史編纂委員会に篠原教会の伊藤顯榮師から『聖霊』誌のコピーが提供され、これがバースの記していた機関誌であることがわかりました。そのコピーは中央聖書神学校図書館資料室に収蔵されています。伊藤顯榮師から提供された『聖霊』誌は1936年8月5日発行第18号から1941年年7月1日発行第72号まででしたが、筆者が研究調査を進める中で小樽イエス之御霊教会の木田徳男さんから残されている他の『聖霊』誌のコピーを戴くことができました。それによって『聖霊』誌はもともとは大塚教会(西巣鴨日本聖書教会)の教会誌『草苑』(まきば)として村井によって1933年2月に創刊され、後に『聖霊』に改題されたものだということがわかりました。木田徳男さんのもとには『草苑』誌の1933年8月15日発行第7号から『聖霊』誌の1943年2月1日発行第97号までのコピーが残されていました。

 『草苑』誌は発刊から一年後の1934年2月1日発行第12号から『聖霊』誌と改題されて西巣鴨日本聖書教会内の「聖霊社」から発行されています。1934年11月発行第17号からそれまでの謄写版印刷から活版印刷となっています。バースの記したように1936年8月5日発行第18号から装いをあらためた活版印刷になっています。

 この『聖霊』誌は1940年6月1日発行第60号から「日本聖書教会教団機関紙」となり、1942年5月1日発行第81号から「日本聖書教会機関紙」、そして1942年10月1日発行第85号から「イエス之御霊教会機関紙」となっています。戦後の1952年5月1日発行の再刊第1号からは「イエス之御霊教会教団機関紙」となり杉並区荻窪の「イエス之御霊教会教団本部」から発行されています。

資料 『草苑』1933年8月15日発行第7号、『聖霊』1934年2月発行第11号、『聖霊』1934年11月発行第17号、『聖霊』1936年8月発行第18号

 残されている大塚教会の『草苑』(まきば)誌は第7号からで、編集発行人村井、発行所西巣鴨日本聖書教会となっています。第11号から『聖霊』と改題され発行所が聖霊社となります。第17号から活版印刷となり1年8ヶ月後に第18号が発刊されています。

資料 『聖霊』1938年2月1日発行第34号、『聖霊』1939年2月1日発行第45号

 第34号の中央の写真は1937年11月28日の大阪の粉濱基督教会での聖霊降臨大感謝祭の時のものです。粉濱基督教会のメンバー77名が短期間で聖霊体験をしています。第45号の中央の写真は1939年1月12日から四日間開催された粉濱基督教会での日本聖書教会関西聖会の時のものです。そこでは何人も聖霊体験する人と癒しを受ける人たちが起こされました。この聖会には関東からも長嶋ツルや大地兼香も参加しています。

資料 『聖霊』1940年6月1日発行第60号

 宗教団体法の施行を受けて「日本聖書教会」は1940年2月24日に日本人のみを主体とする「日本聖書教会教団」に改組されます。それにより『聖霊』誌は1940年6月1日発行第60号から日本聖書教会教団機関紙となっています。1940年4月30日の粉濱基督教会における日本聖書教会教団第一回総会で村井が初代監督に推挙されます。

資料 『聖霊』1941年7月1日発行第72号

 日本聖書教会教団の村井監督は合同教会としての日本基督教団に加入することを是としませんでした。村井は第72号でその理由と「真の教会と偽りの教会」について述べ、これからが真の教会の出現の時代としています。村井を含む日本聖書教会教団のリーダーたちが1941年6月に台湾の真耶蘇教会を視察訪問しますが、村井は真耶蘇教会が神の御心に適うものであるものとし、自らも日本で独自に真の教会を求め始めます。

資料 『聖霊』1942年5月1日発行第81号、1942年10月1日発行第87号、『聖霊』1943年12月1日発行第97号、『聖霊』1952年5月1日発行再刊第一号

 村井監督の指示のもと日本聖書教会教団の各教会はそらぞれが独自に日本基督教団に参加・不参加を決め日本聖書教会教団は瓦解します。そして『聖霊』誌は第81号から日本聖書教会機関紙になります。村井の大塚日本聖書教会は宗教結社となる道を探り、1942年の10月15日に文部省から宗教結社「豊島イエス之御霊教会」として認可されます。それを受けて『聖霊』誌は第85号からイエス之御霊教会機関紙となります。最終号は1943年12月1日発行第97号で、戦後の1952年5月に再刊第1号が発行されます。

おわりに

 日本アッセンブリー教団の前身の群れの戦前の歴史を知るには機関誌などの原資料の収集と保存とその解読がとても重要となります。原資料を読み解く時に、ある時は受け継がれてきた伝承が事実であったことが裏付けされ、またある時は否定されて新たな疑問を生じさせます。どこかにまだ私たちが目にしたことのない戦前のアッセンブリーの群の歴史の空白部分を埋める原資料が眠っているかもしれません。滝野川教会の弓山喜代馬が発行していた『永遠の御霊』誌は1937年1月から1941年10月までの発行分の多くが未発見です。もしそれらの所在が確認されるならば滝野川聖霊教会と滝野川聖霊神学院について多くを知ることができるでしょう。


筆者:鈴木正和

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