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聖霊の炎を掲げて ⑰

日本で最初に米国アッセンブリー教団の名簿に記載された
宣教師と日本人伝道者、
そしてその宣教師の来日のきっかけを作った
日系人宣教師


鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

エステラ・バーナー【Estella Andrews Bernauer (1866-1938)】
ベアトリス・バーナー【Beatrice Bernauer Parsons (1902-1989)】
タキガワ・イチタロウ【Ichitaro Takigawa (?-?)】
谷本善男【Bacon Yoshio Tanimoto】(1888-1990?)

 米国インディアナ州インディアナポリスでハワイ生まれの日系人谷本善男と出会ったエステラ・バーナーはハティ・スクーノーバーと共に1910年4月29日に独立ペンテコステ派宣教師として来日します。谷本善男も5ヶ月後の9月に来日します。エステラは主に東京とその近郊で活動し、谷本は両親の故郷の広島で活動します。エステラは1916年版の米国アッセンブリー教団総会議事録に日本への宣教師として記載されており、1917年の休暇帰国の際には米国アッセンブリー教団の総会にも出席しています。彼女のもとで働いた日本人教職のタキガワ・イチタロウも1917年に米国アッセンブリー教団の宣教師の任証を受けています。エステラは米国ニューヨーク州ロチェスターのイーラム・タバナクルに所属しつつ日本では米国アッセンブリー教団の宣教師たちと連携して活動します。エステラの名前は米国だけでなく戦前の日本アッセンブリー教団の前身のグループにも記録されていますが、現在では米国アッセンブリー教団の宣教師リストや日本アッセンブリー教団の歴史にはその名前はありません。エステラ母娘とタキガワ、そして谷本はどのような人たちだったのでしょうか。

エステラ・バーナー

エステラ・バーナー
Estella Bernauer, “Good New From Japan,” The Weekly Evangel (1916-02-19), 12.

 エステラは米国ニューヨーク州ペリーで1866年7月23日に三人兄弟の次女として生まれます。1898年にクリスチャンになったエステラは、アナ・プロサーのメッセージに触発され外国伝道の志を持ち、ニューヨーク州ロチェスターのダンカン姉妹によるイーラム・タバナクルの働きに参加します。彼女は1898年にメソジスト派の教職者であった3歳年下のフランシス・バーナーと結婚し、彼らは1904年に2歳のベアトリスを養女に迎えます。しかしバーナー夫妻は1909年4月1日に離婚し、エステラとベアトリスはインディアナ州インディアナポリスに、そしてフランシスはシカゴに移ります。

 谷本善男は1910年2月にインディアナポリスでペンテコステ信仰を持つのですが、彼の聖霊体験の手助けをしたのがエステラでした。谷本の日本宣教の思いを聞いて、エステラも日本に宣教師として赴くことを決心します。44歳のエステラは8歳になる娘のベアトリスを彼女の母親に託し、一歳年下のハティ・スクーノーバーと共に日本に向かいます。この時谷本善男が彼女たちのパスポート申請書の身元引受人になっています。

資 料】
米国アッセンブリー教団海外宣教部に残されているバーナーの写真
[The Archive of the Assemblies of God World Mission Department 収蔵]」

  エステラとベアトリスのポストカード

1910年〜1911年

 エステラとハティの二人は1910年4月29日に横浜に上陸し、当初は横浜の宣教師ホームに寄寓しながら伝道を開始します。しかし1910年の夏は特に猛暑で彼女たちは横浜に留まることが出来ず友人の宣教師に招かれ長野県の軽井沢に避暑します。そこで出会った宣教師から東京の家を借りられることになり、秋になってから東京の神田南古賀町でアポストリック・フェイス・ミッションという看板を掲げ伝道を開始します。

 神田は学生の街でエステラは学生を対象に英語クラスを始め、次第に彼女たちの集会にも多くの学生たちが集うようになります。日本語のわからないエステラたちには通訳が必要でしたが、英語のわかる学生たちが礼拝の通訳をするようになります。しかし1911年の春にエステラは体調を崩し帰国が余儀なくされ10月12日に帰国します。

パスポート申請写真 (1917年10⽉)
[Ancestory.com]

1912年~1917年

 休暇帰国中のエステラは1912年の6月にはイーラム・タバナクルのロチェスター聖書学校の聖会に参加し旧友と交流を深め、ロチェスター聖書学校の所属宣教師となります。そして1912年10月12日には11歳の娘のベアトリスを伴って再来日を果たし、神田小川町で伝道を再開します。当初から2年間というエステラとの約束通りハティー・スクーノーバーは1912年の暮れに帰国します。娘のベアトリスの日本語習得は思いのほか早く、彼女は母親の通訳として活躍するようになります。1913年11月からはタキガワ・イチタロウがエステラたちと共に働くようになります。タキガワは聖霊体験を求めて4週間祈り12月には聖霊体験をしています。エステラたちの経済状況はいつも切迫しており、1914年の夏は軽井沢に避暑が出来ず千葉県の館山で過ごし、そこで路傍伝道をし、帰京すると夏季聖書学校を開いています。

⽶国ニューヨーク州ロチェスターのイーラム・タバナクルにて
左端がベアトリス、右端がエステラ
“Another Missionary,” Trust (1929-11-12), 13.

 当時のベアトリスの報告文を見てみましょう。

私は12歳の少女です。私は6歳の時に回心し、7歳の時に聖霊のバプテスマを受けました。主が私を通して異言で何度も語られ歌われました。主の名を讃めます。私は2年以上前にお母さんと日本に来ました。今では日本語はとても上手に話せます。私は聖書の話を小さな日本人の子供たちに話すことも、お母さんの通訳もできます。私は小羊のために婚礼の祝宴を準備したいです。どうか私とお母さんのために祈ってください、私たちの必要が満たされるように、私たちは持っているものを全てイエス様に委ねなくてはなりません。私たちの集会に毎朝来る青年たちが救われるようにお祈りください。日本で皆さんにお会いすることはできませんが、イエス様の再臨の時にお会いできることを楽しみにしています。

キリストにあるあなたの妹

ベアトリス・バーナー
日本国東京神田小川町43番

“Testimony of Little Missionary,” The Bridegroom’s Messenger (1915-04-01), 3.


私の願いであった本物の宣教師になるということがとうとうかなえられたことをお伝えし、皆さんが私と一緒に神様を賛美することを願ってこの小さな手紙を加えます。神様は集会所を私たちの大きな日曜学校と私自身が全てを教えるクラスがあるこの町の最も貧しい地区の一つに与えてくださいました。・・・先週私のクラスには13人の少女がいました。そして来週は20人を予想しています。どうか私がこれらの貧しい子供たちにイエス様の素晴らしい物語を語ることができるようにお祈りください。私は日本語で話し歌わなくてはなりません。私は神様が私が日本語を早く学ぶのを助けてくださったと思います。なぜならお母さんは私を学校に通わせることができなかったからです。私は13歳になりました。

イエス様を愛するあなたの妹

ベアトリス・バーナー
“Teaches A Sunday School Class in Japan,” Weekly Evangel (1915-06-12), 4.

 1915年には日曜学校に百人の子供たちが、そして礼拝に五、六十人が参加するようになり、また貧しい人たちの住む地域でも伝道を開始します。タキガワは1915年12月にバーニー・ムーアから按手礼を受けています。エステラたちの経済的状況は改善することはなく、神田での働きを続けることが困難になりますが、そのような状況下にあって彼女たちは東京郊外で孤児院や女性のための神学校を開設することを志します。1916年1月1日にタキガワはバーニー・ムーアの司式と町田保の通訳でクリスチャン家庭に育った西村シゲヨと結婚します。

教会のメンバーと
中列:右からタキガワ・イチタロウ夫妻、エステラ、ベアトリス
東京神⽥錦町3丁⽬⼯藤写真館にて

 草創期のペンテコス派ではニュー・イシューと言われる「イエスの名による洗礼」と「ワンネス神観」に対する論議がなされており、1916年から1917 年にかけてエステラのサポーターでもあったインディアナ州のほとんどのペンテコステ派教会がワンネス陣営に流れたために、あくまで三位一体の神観を奉ずるエステラへの経済支援が途絶え、日露戦争後の日本の国粋主義の発展と相まって、彼女たちの日常生活そのものが厳しい状況に陥ります。そのためエステラたち1917年の暮に神田を去り比較的物価の安い八王子に移ることにし、東京に残った信徒たちをカール・ジュルゲンセンたちに委ねます。しかし八王子での伝道も困難を極めました。

 その時の状況をタキガワ・イチタロウはこのように報告しています。

私たちは今悪魔の支配する邪悪な町に住んでいて、敵の弾丸の雨にさらされている兵士ように感じます。私たちは戦いの前線におり皆さんの熱心な祈りを乞います。この町では皆全てがキリスト教に敵対するように見えます。しかし六人の青年が聖書の学びに興味を持ち始めています。私たちはまだ孤児院のことを祈っていますが、まだお金がありません。このためにもお祈りください。これは神様が私たちに心に置かれたことです。最後に私たちの国に興味を持ってくださる全ての米国の聖徒に感謝申し上げます。またこの新聞は私たちにとても多くの利益をもたらし、試練と苦難の中にあって私たちの心を励ましていることをお伝えしたいです。

“Sister Bernauer…,” The Weekly Evangel1917-03-31, 12.

 1917年4月13日にエステラたちは八王子の働きをタキガワ夫妻に託し休暇帰国します。会堂がなかったため路傍伝道のみでタキガワはヴァイオリンを弾きながら路傍伝道をし聖書とトラクトを販売して日銭を稼ぎました。休暇帰国中のエステラは1917年11月に米国アッセンブリー教団の年次総会に出席し、タキガワも米国アッセンブリー教団の任証を受けて日本人で最初のペンテコステ派教団の宣教師となります。

1918年〜1921年

 エステラは1918年12月5日に再度ベアトリスを伴い来日します。新しいパスポートの申請の際には当時の米国アッセンブリー教団理事長であったG. W. ウェルチがエステラが米国アッセンブリー教団の方針に同意する宣教師であると身分を保証しています。1919年にエステラたちは東京の豊玉郡戸塚に居を構え、再び孤児院や会堂建設を試みますが、それらをなし得ることはありませんでした。体調を崩したエステラは1921年4月にベアトリスと共に休暇帰国します。

1923年〜1925年

 健康を取り戻したエステラとベアトリスは1923年春に再来日します。彼女たちはタキガワ夫妻を再度招聘しようとしますが断られたために以前彼らの集会に参加していた中国人学生や以前レオナード・クートの元で働いていた朝倉敏夫妻に助けを求めます。9月1日の関東大震災の際には避暑で軽井沢に居たために難を逃れますが、豊玉郡戸塚町の住居は大きな被害を受けます。その後エステラは再び体調を崩し、また朝倉夫妻も彼らの元を去ることになり、エステラたちは1925年4月には帰国します。

1929年〜1930年

 エステラの母が1925年3月27日に亡くなったために、エステラは彼女の老齢の父の世話のために再来日を延期します。ベアトリスは1927年12月10日結婚し、エステラは1929年に一人で再来日し阿佐ヶ谷で活動をします。1924年に米国で排日法が施行されその影響もあり、エステラは日本での反米感情の強まりを肌で感じるようになり1930年7月12日に帰国します。

 エステラが再度来日することなく、8年後の1938年8月18日に72歳でニューヨーク州バタビアで亡くなります。エステラは20年間に5度もアメリカ大陸と太平洋を渡って宣教活動のために来日したのですが、彼女の働きは忘れ去られ米国アッセンブリー教団本部にも彼女の写真が数枚残されているだけです。

ベアトリスと夫アール・パーソンズ
[Ancestory.com]

谷本善男

⾕本善男
Yoshio Tanimoto,

“Japan and Christian Missions –No. 1,” The Youth’s Instructor (1908-11-03), 5.

1910年〜1915年

 谷本善男は米国でペンテコステ信仰を得て1910年にペンテコステ派の宣教師として最初に帰国した日系人です。谷本は1888年にハワイのヒロに広島県二保島村出身の日系移民の家庭の長男として生まれます。1904年にハワイの高校を卒業すると、米国本土のインディアナ州マリオンの大学にビジネスを学びに行くのですが、仏教徒であった彼はここで初めてキリスト教に触れ、1907年10月16日に洗礼を受けるとミシガン州のセブンスディ・アドベンチストの聖書学校に転校し日本に宣教師として赴くことを志します。息子が日本に宣教師として渡る決意を聞いた谷本の父は彼への仕送りを止めます。谷本は1909年にはワシントン特別区のセブンスディ・アドベンチストの外国宣教神学院に学び、そこで『日本とキリスト教』という32ページのパンフレットを出版しています。

⾕本善男の出⽣証明の写真(1910年)
[Ancestory.com]

 谷本は日本に向かう前にケンタッキーやインディアナの諸教会で日本に関する講演をし、インディアナポリスを再訪した際にはエステラの家に逗留しそこからペンテコステ派の教会に通います。そこで1910年2月聖霊体験をした谷本はセブンスディ・アドベンチストではなく、独立のペンテコステ派の宣教師として日本に渡ることを決心します。バーナーとスクーノーバーの二人の婦人たちも日本に宣教師として赴くことを決心し、谷本よりも一足先に日本に渡ります。谷本は途中ハワイに数ヶ月間里帰りをしますが、彼の家族はクリスチャンとなった谷本の変容に驚きはするもの関係は修復されます。

 谷本は1910年9月に日本に渡り、両親の郷里である広島で週に六日英語を教えながら合間を縫って伝道します。1912年には九州各地をトラクトを配りながら自転車で宣教旅行します。1913年には25人ほどを回心に導くことが出来ましたが、常に財政的な困難の中にいました。1913年6月5日に7歳年下のオトハと結婚しますが、経済的な理由のために宣教活動を持続することが困難でした。

 谷本は当時の様子をこのように報告しています。

自分たちの生活を支えるために週6日働いているので、宗教的な活動のために僅かな時間しか使えないのですが。神様は日本の魂を祝福しておられます。神様は私たちに25人ほどの回心者を与えてくださいました。主の御名を讃めます。現在の日本の必要は多く、その必要の最も大きいものはキリストの福音です。私たちの前には収穫を待つ大きな畑が広がっています。私たちには日本人の働き人、伝道所、住居、そしてこの収穫を刈り取る道具が必要です。全ての読者がどうかこのことのために熱心に祈ってください。月15ドルで私はこの働きに専心でき、そして日本人の回心者と共に日本の広い地域で宣教ができます。

谷本善男

”Tanna, Japan,” Word and Witness (1913-09-20), 4.

 谷本は1915年4月5日にはハワイに戻り、1920年の国勢調査では説教者として登録されていますが、1930年には父の跡を継ぎハワイのヒロのカメハメハ街の著名な谷本百貨店を経営しています。谷本はその後幾度か日本を訪れる機会がありましたが、それは宣教活動のためではありませんでした。


 現在の日本アッセンブリー教団の記録には残されてはいませんが、神様の召命に応答して日本の魂の救いのために立ち上がった人たちが何人もいたのです。エステラ・バーナー母娘、タキガワ・イチタロウ夫妻、谷本善男たちもそうでした。

筆者:鈴木正和

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