シェリー・カール宣教師 Shelley Carl
米国アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団
ニューヨーク州
私が心から愛している日本という国で、私の神様からの召しと宣教の働きを皆様と分かち合えることを嬉しく思います。私の話を分かち合う中で、神の御手が働いておられる事を皆様お一人お一人が見えますようにとお祈り致します。神様が日本人を深く愛しておられることを気づかせてくださるために、主は私をこの日本の国に導いてくださいました。以下、年代ごとに私が体験した主の働きについてまとめました。
1972年~1976年
私の家族は、父がアメリカ陸軍にいたため、私がまだ13歳の時に、日本に来ました。私たちはクリスチャンの家庭で、私はその時、既にイエスキリストを私の救い主として受け入れ、水の洗礼を受けていました。しかし、11歳から関節リウマチを発症したため、日本への移住に困難を覚えました。寒い季節になると、私は松葉杖をついて歩かなければならないこともありました。
病気の大変さはありましたが、私は東京、埼玉県、神奈川県での日本生活をとても楽しみました。高校生の頃、女の子たちと私はThe Believers(イエスを信じる者たち)という歌のグループを結成しました。私たちは関東一帯にあるいくつかの軍事基地に招かれては歌を歌いました。横浜の基地のチャペルで歌った時、私はジョージとエブリン・スタージョンという方たちに出会いました。
彼らはアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の宣教師で、米軍人の方々に奉仕する為、彼らの家を活用していました。基地の中での日曜礼拝後、彼らは私たちを家に招いて昼食を食べさせてくださいました。そして午後の日曜礼拝で歌うよう奉仕の機会をくださいました。
私たちが基地の礼拝堂で歌う時、皆さんは13人の少女たちが歌うのを見るのが好きで、私たちに拍手を送ってくれました。でも宣教師の家では、私たちが歌っている間、皆さんは手を挙げて神様を礼拝しておられました。 私はそのようなことはそれまで見たことも、感じたこともなかったのです。
礼拝の後、私は宣教師に 「これは何ですか?」と尋ねました。 宣教師は私に聖書の使徒行伝を開いて、聖霊のバプテスマについて説明して下さいました。私はその時、これこそが私の人生に必要なものだとすぐに分かりました。私は毎日早起きして祈り、この体験を神様に求めるようになりました。それから約一ヵ月後の祈祷会で、私は聖霊のバプテスマを受け、異言を話し始めました。その瞬間、私の人生は本当に変わりました。
私は17歳で、自分の人生をどうしようかと悩んでいたのです。私が東京の電車に乗っていた時、聖霊様が私の目を開いて、日本の人々がイエス・キリストを必要としていることを教えてくださいました。神様は私に、宣教師として日本のために人生を捧げるようにと語り始められました。
しかし、宣教師になることは様々な理由から無理だと考えました。一番の理由は、最初にお話ししたように、私が関節リウマチを患っていたからです。 私のような者は、神様にどのように用いられるのかを考えました。しかし主は、私が主の為に、宣教師なる事を望んでおられる事を示し続けてくださいました。 私は何度も神様に対して、どんなに私がこれまで苦しんできたかその痛みをお伝えしました。しかし、神様の言われることに私たちが「いいえ」と言えるでしょうか?そしてある晩の祈祷会で、私は教会の方々に私に手を置いて祈ってくれるようにお願いしました。私は神に向かって両手を上げました。
私は神様に、私の上げている片方の手は、医師から悪くなる一方だと言われた関節炎を表していると、そしてもう片方の手は、私が心の中で感じていた日本への主からの召しを表していることを伝えました。 この両方を抱えて生きていく事は出来ませんでした。ですからその晩、私は主に、どちらかを取り除いて下さいとお願いしました。どちらを取り去られても、それが私の人生の運命なのだと考えました。その晩、主は瞬間的に、奇跡的に私の長年の関節リウマチを癒してくださり、私が日本への宣教師になるという神の召しを明確にしてくださいました。1976年、私は神奈川県座間市にある基地の高校を卒業し、カリフォルニアのベサニー聖書学校に入学するためにアメリカに戻りました。
1980年~1983年
私は聖書大学を卒業し、すぐに日本に戻りました。横田基地外の教会で米軍家族のためのチルドレン牧師(子供対象の牧師)としてラッセル&メアリー・エマーソン宣教師の下で共に奉仕しました。最初は1年間の予定でしたが、結局日本に3年間滞在致しました。その間、軍の教会での奉仕の他に、八王子の上原牧師の教会で毎週英語を教えるという素晴らしい機会が与えられました。
その頃、マーガレット・カーロー宣教師が、横田教会で仁司牧師夫妻が新しく日本語礼拝を始められるのを手伝っておられました。仁司牧師は不意に病に倒れ、わずか35歳でイエス・キリストの御腕の中で息を引き取られました。仁司先生の追悼式で、私は主に、「どうして日本人の尊い牧師の命が取られなければならなかったのですか?」と問いました。日本には牧師が余りにも少ないと思っていたからです。 私は神様に、「仁司先生の代わりに、誰が日本人のために働いてくれるのでしょうか」と尋ねました。その時、私の心にかすかな御声がはっきりとありました。「あなたはどうですか?あなたは日本人のために働きますか?」と主は語られました。主は、私が日本で米軍家族のために働くのではなく、日本人のために働くために私の人生を主に捧げる神のご計画を再度語られたのが分かりました。
それから私は、牧師の資格を取得し、日本の為だけでなく、日本人のための宣教師になる準備をするためにアメリカに戻りました。 アメリカに滞在中、私は故郷のニューヨーク州ロチェスターで子どもたちの為の牧師を務めました。
1986年~1993年
そして 日本に戻り、私はまず北海道のある日本語学校に通いました。その間、私は札幌市東区に新しく教会を建てておられた渡辺房子先生の教会に通いました。渡辺先生の教会に参加した最初の日曜日、私は日本語を全く理解できませんでした。渡辺先生はI列王記から毎週1章ずつ説教されているとある宣教師が教えてくれました。そしてその日、先生はI列王記18章からエリヤについて説教しておられたのです。
1986年に日本に行くまでの1年間、私はニューヨーク中の教会から祈りと宣教献金を募るために巡回をしていました。その一年間、毎週日曜日にはⅠ列王記18章からエリヤについて説教していました。ですから最初の日本での日曜日も、同じ章からメッセージがあり、たとえ私がその説教を一言も理解できなくても、神がその教会で、この貴重な日本人牧師を通して働かれているおられることを知ったのです。
翌年、私は千歳に移り、ロバート・ハイムス宣教師とジャネット・ハイムス宣教師と共に千歳クリスチャン・センターを開きました。私たちは札幌でも共に働き、下道牧師先生の教会で英語の礼拝を開きました。私たちはよく千歳の家を一軒一軒訪ね歩き、ゴダイゴ歌手のスティーブ・フォックスの救いについてのクリスチャン新聞やトラクトを配りました。
主は驚くべき方法で働いて下さいました。教会を生み出すだけでなく、隣町の恵庭市の自衛隊員から毎週、英語を教えるよう招かれました。 私は陸軍の父のもとで育ったので、自衛隊の方々の文化に居心地の良さを感じました。授業初日、緑の軍服を着た200人の自衛隊が立ち上がり、私が彼らの先生になったということで敬礼をして下さった事は決して忘れることは出来ません。そのうちの何人かは、その後、教会の英語クラスに来て聖書から福音を聞かれました。
ある日、黒田さんという女性が教会に来られました。彼女は恐れの為、家から出たことがなかったので、それ自体が奇跡でした。彼女の友人が英語を学ぶために黒田さんを教会に連れて来られました。やがて彼女は日曜礼拝に、そして私の家での水曜祈祷会に参加されました。 私は彼女が主イエス様を受け入れる準備ができているのを感じました。ところがある日突然、彼女が私の家に来て、クリスチャンになれないから、私が渡した聖書を返すと言われました。その理由を尋ねると、彼女は夫の父親が仏教の僧侶だと教えてくれました。
黒田さんのご主人は、恵庭の自衛隊にいましたが、いつかは故郷の九州に戻り、長男として、父親のように僧侶にならなければならないと言われました。その時、突然、聖霊の力が私たちの会話を支配されました。私は黒田夫人に、クリスチャンになる時、私たちは神の家族に生まれる事を伝えました。イエス・キリストは神の家族の長男ですと伝えました。私は、彼女の夫がクリスチャンになるように祈ることを黒田さんに提案しました。 そうすれば、イエス・キリストは黒田家の長男になると。私は自分の口から出たその言葉にとても驚き、黒田夫人に失礼だと思われないことを願いました。黒田さんは、それは素晴らしいと言われました。それから毎週水曜日、私たちは彼女の夫のために一緒に祈り始めました。それから2年も経たないうちに、黒田さん夫妻は一緒に水のバプテスマを受け、イエスのために生きるようになられました。
1993年~2006年
その後、主は私を「仏教の王国」として知られる富山県に移されました。私はダネル&ヴェンダ・マクレーン宣教師らと共に福岡町キリスト教会で奉仕をし、後に上市クリスチャンセンターで奉仕をしました。私が今でも忘れられないのは、レン君という小さな男の子です。レン君は困難な家庭環境にあったのですが、7歳のときに、私が牧会していた教会に主は彼を導いてくださいました。子どもたちの為のクリスマス・パーティーをした時、私はレン君に子ども向けのイエス・キリストの生涯のビデオを渡しました。彼はそれを家に持ち帰って見た後、次の日曜日に信じられない話をしてくれました。
彼がまだ小さかった頃、たぶん3歳くらいだったと思うが、デイケアでとても悪い子でした。デイケアでも家でもレン君は問題を起こし、人生の中で最悪の時期でした。しかし3歳のレン君は夢を見ました。夢の中で一人の男性が「もう二度とやってはいけないよ。すべて忘れてあげるから」と彼に話しかけたというのです。レン君は、7歳でビデオを見るまで、夢の中の男性が誰なのかわからなかったと言いました。 しかし同じ人だったそうです。イエス様御自身が、夢の中でこの少年に語りかけ、その男性が誰であるかを知る為に彼を教会に連れてきてくださったのです。私は、日本中の子どもたちの人生に、神様が力強く働いておられることをその時知りました。
2006年~2007年
富山県で何年も過ごした後、ある宣教師から九州に1年、そしてその後、東京へ転勤するように言われました。 ホアン・ゴンザレス宣教師とコレット・ゴンザレス宣教師がアメリカへ巡回している間、私は福岡の百道シンフォニー教会で1年間を過ごしました。その1年間で、教会は私のものではなく、神のものだと悟りました。教会を率いる重荷はすべて私から離れ、神がこの国に御自身の教会を築いておられることを喜びました。
2007年~2024年
なぜ神様が私を東京に連れて来られたのか分からなかったのですが、ただ従順に従って東京に出て来ました。最初の数年間は志村教会で奉仕をさせていただき、続いて十条教会、中央聖書教会、新中野教会でキッズ・ゴスペルを教えました。その後、主は再び私を導いて、ICA東京というインターナショナルな教会で数年間奉仕させ、その後、天野先生のリバーサイドチャペルの枝教会である東京ブレッシング・チャーチとガーデン・ヒルズチャーチで教会開拓を始めました。また、東京近郊のいくつかの教会で聖書を語る機会にも恵まれました。
教会を通しての奉仕の他に、主は私に日本語ファイヤーバイブルの共同編集長という新しい任務を与えてくださいました。主は素晴らしいチームを編成してくださり、2008年にこのプロジェクトへの取り組みが始まりました。 ペンテコステの学習説明が付いたこの唯一無二の聖書は、奇跡的に2016年に出版されました。
ご存知のように、イエス・キリストを信じる日本人人口は、全体の1パーセントにも満ちません。私はその1パーセントに感銘を受けています。この国の文化や伝統から抜け出して、イエス・キリストを完全に信じることができるということに私は驚いています。この未信者の環境の中で、イエス・キリストに仕えることは容易なことではありません。ですから私は日本の全てのクリスチャンを心から尊敬しています。神様はあなたを選び、私は皆様から学ばせて頂いています。実際、私は日本のペンテコステ派のクリスチャンを研究するために、異文化研究の博士課程に入学しました。私の研究の目標は、日本人クリスチャンとしての自己アイデンティティのモデルを作ることです。この深い研究が、イエス・キリストの真理を、より多くの日本人に伝えるための手がかりを、そして皆さんの人生から解き明かされていくと私は信じています。
私の歩んできた人生の話を読んでくださってありがとうございます。これは私だけの話ではなく、皆様の国、日本で働かれる神様のお話です。私の人生の目標は、「日出ずる国で、復活された御子イエス・キリストに仕える 」ために、日本中にイエス・キリストの光を照らすことです。私の希望はイザヤ書9章2節の神の言葉に立っています。
「暗闇の中を歩く人々は、大いなる光を見る。
深い闇の国に住む人々には、光が輝く。」
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