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聖霊の炎を掲げて④

戦火に散った牧師と残された妻

鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

戦前の日本アッセンブリー教団の前身である日本聖書教会に所属した男性教職の中での
伊藤智留吉(横浜教会)、小川裕(京都北野教会)、
丸山栄(名古屋教会)、坂本亀蔵(神召教会)の4名が戦死します。

このコラムでは丸山栄と琴夫人について取りあげます。

丸山 栄(1907~1945)/ 丸山 琴(1907〜2008)

1932年4月1日 名古屋での丸山夫妻の結婚式
後列左から琴の兄幾三郎、グレイス・ジュルゲンセン、母奈良江、姉晴己子、
ネティ・ジュルゲンセン、朴聖山、横井憲太郎、ジョン・ジュルゲンセン、不詳

 丸山栄は1907年8月8日に鹿児島県隼人町で、父熊右衛門と母シカの六男として生まれます。高等小学校を卒業した丸山は大阪に出て知人の質屋で働きます。19歳の時に神戸に移りガラス器具製造工場や焼き芋屋、そして漬物の行商をして働きます。当時人生の虚しさを味わっていた丸山は自殺をも企てたといいます。そんな折に彼は神戸西開地でフリーメソジスト教会の路傍伝道を通して1926年9月から教会に通い始め、11月23日に神戸の須磨海岸で洗礼を受けます。後に英国聖書協会に勤務し、洗礼を受けてから5年目に献身を決意します。

 しかし献身を決意したものの主任牧師が神学校への推薦状を書くことを拒んだために挫折しそうになります。後にかろうじて牧師の承諾を得て1930年4月に上京して柏木のホーリネスの聖書学校に入学します。しかしそこで校長の中田重治と衝突し聖書学院を退学します。1931年4月には前年に開校した滝野川の聖霊神学院へ聴講生として入学します。1931年10月に富士前教会に伝道師として派遣されるのですが、名古屋のジョン・ジュルゲンセン夫妻の招きによって、1931年12月には聖霊神学院を中退して名古屋教会の伝道師に就任します。そして翌年の1932年4月1日にそれぞれの恩人や牧師の紹介で同い年の佐伯琴と結婚します。

 琴は1907年12月13日に奈良で父佐伯政吉と母奈良江の十三人兄妹の末っ子として生まれます。琴は奈良女子師範学校在学中に奈良ホーリネス教会の天幕集会に遭遇し1925年10月2日にクリスチャンとなります。そして卒業後に小学校訓導となります。琴の家族は牧師の丸山との結婚に反対でしたが、琴は「信仰を第一として」一度の手紙の往復だけで丸山との結婚を決意します。

1932年10月1日 丸山夫妻の最初の洗礼式(八事の隼人池において)

 当時丸山夫妻がジョンから受け取っていた月給は45円で彼らは貧しい生活を強いられます。しかし伝道熱心な丸山夫妻は夫婦で日曜日の朝と晩の礼拝、水曜日夜の祈祷会、早天祈祷会、そして路傍伝道に繰り出して行きました。1933年にはそれまで住んでいた鎌田町から石神堂町へ移転します。1933年4月に琴が小学校訓導に復職し家計を支え、高等小学校しか卒業していない丸山は学ぶ必要を覚え牧会は続けながら1935年に名古屋中学校へ編入学します。彼らの働きを通して次第に信仰を持ち洗礼を受ける人たちも起こされますが、1935年頃の教勢は信徒数15名、平均日曜曜礼拝出席者は5、6名と僅かでした。

1933年1月新年聖会の折の路傍伝道の前に(名古屋日本聖書教会前で)

 丸山は滝野川の聖霊神学院で学んだもののフリーメソジスト教会からホーリネスの聖書学院時代に散々ペンテコステ派の悪口を聞かされてきたために異言を伴う聖霊体験に否定的でした。そのために名古屋に来ても一時期ジョン夫妻と使徒言行録2章4節にある異言に関する意見の違いもあって袂を分かちます。しかし祈りの末に丸山自身も異言を伴う聖霊体験をし、1936年の終わりにはジョン夫妻との関係も回復し名古屋教会の牧師に復帰します。聖霊体験を求めていた琴夫人も1938年4月にジョン夫妻の家で丸山とジョンと東京から訪問中の村井屯二(「屯」の下に「二」で読みは「ジュン」)と共に祈っている際に異言を伴う聖霊体験をします。

名古屋日本聖書教会:年代不詳
前列左端から丸山栄の妹八重子、丸山栄、ネティ・ジュルゲンセン、
グレイス・ジュルゲンセン、琴、不詳

 1938年11月にジョンが急逝します。ジョン夫妻は市外の猪子石に家を新築中で八部通り完成していた矢先でした。教会も聖霊体験した信徒たちが増え、名古屋での宣教はまさにこれからという時でした。悲嘆に暮れたネティ夫人は名古屋の働きを丸山栄夫妻に託し、1939年6月に娘たちを伴って帰国します。丸山は1940年5月には名古屋で日本聖書教会の聖霊待望会のホストを務め、この待望会で20名ほどが聖霊体験をしました。日米開戦間近の1941年11月の日本基督教団設立の際には丸山と名古屋教会は日本基督教団には加入せず村井と協調関係を保ちながら名古屋での働きを継続します。


 太平洋戦争が始まると丸山は生命保険会社に勤務し生計を支え、1943年には矢田町へ引っ越します。そして1944年10月に召集され11月に海軍へ入営し佐世保から出航しします。丸山が出征前に妻の琴子に残した遺書にはこのようにあります。

 神の御導きによりて夫婦となり今日に至る。今日までの事、色々唯御礼を言う終りにのぞみを言う事なけれど母として体を大切に長生きせよ。此、夫たる小生への恩返しと心得へよ。子等は一人残らず基督教僧侶とせよ。されど自給出来る様自活の道を得させしより後に教会主任とせよ。…余の墓は十字架にせよ。汝の墓と並べよ。…財が許さるるなれば徹宗や次郎は進学し神学博士になり神学校の教授となり皇道的基督教を布教する僧侶を生み出さしめよ。此が汝の最後の務と心得よ。重ねて言う。長生きせよ。

 丸山夫妻には徹宗(1933年生)、訓子(1935年生)、牧子(1937年生)、惠子(1940年生)、次郎(1943年生)の2男2女が与えられます。長女訓子は1936年9月に赤痢で、次男次郎は終戦間近の1945年医療ミスで亡くなります。夫の留守中に次男の死を体験し、未帰還の丸山の戦死の公報が家族に届いたのは1946年4月のことでした。三人の子供を抱え未亡人になった琴は1946年のある日の日記で胸のうちを亡き夫に投げかけます。

 あなたが天国へ行かれた事は、幸いなことであなたの喜びでしょうから、私は今は何とも思いませんよ。なぜ、子供達をほっといて?とか一人だけ主と楽しみ給うか?などとも思いません。それでいて子供達が主の喜び給わないことをしたり、全然主を喜ばない時は、私は一人で何と言って良いか、如何にすれば良いかと溜息する時、ついあなたがいてくれたら、この重荷が半減するでしょうにとあなたに持って行きたくなるんですね。やっぱり自分が可哀想だからですね。子供たちが信仰生活をしてくれないのを嘆くのは、ただあなたの為でも、私のためでもないことが考え、考えるとわかります。子供達に云われると、自分のためかなァーと思う節もあり、なんだか力がなくなりますが、これはたくみなサタンの罠ですね。祈ってください。子供達がよき生活をおくるための根本を知るために。

 戦争末期に名古屋から実家のある奈良へ疎開していた琴は戦後大阪の粉濱教会に通うこともありましたが、小学校教員に復職してからはそれが困難となります。1950年にネティ・ジュルゲンセンが再来日を果たし名古屋での伝道を再開する際には琴に声をかけますが、当時琴の姉が他界したばかりで老母や幼い子供たちのこともあり、琴は奈良に留まる決心をし、近くの奈良高畑教会に通うようになります。そして奈良で一生を主と教会と人々に仕えて信仰生活を全うします。

 丸山栄・琴夫妻のお孫さんである川村清志さん(国立民族歴史博物館準教授)が『クリスチャン女性の生活史─「琴」が歩んだ日本の近・現代』(青弓社、2011年1月)という琴夫人のライフヒストリーを著しています。琴夫人の遺品には私たちの所在の知らなかった戦前の日本アッセンブリー教団の前身である日本聖書教会の機関誌である『後の雨』誌の第37号(1932年6月発行)から第49号(1933年6月1日発行)が残されていました。

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鈴木 正和

水場コミュニティチャーチ 牧師
中央聖書神学校講師

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