「日本ペンテコステ教会の起源とされるテーラー夫人」
鈴木正和
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師
戦前の日本のキリスト教界では英国人のウィリアム・テーラーの妻のメアリー夫人が日本のペンテコステ運動の開祖と考えられていました。「日本ペンテコステ教会」『基督教年鑑』(1927年)は次のようにあります。
大正元年頃、伝道者ミセス、テーラー、渡来し、神戸、横浜の二ヶ所に於て伝道を開始せり。之を以て此派の日本に於ける教会の起源とす。
また櫻井匡は「日本聖書教会(舊 ペンテコステ教会)」『教派別基督教史』(隆章閣、1933年)でこのように記しています。
ペンテコステ教會が日本に伝道を開始したのは明治四十四年で、同派の傳道會者創立以前のことである。それは英人テーラー夫人が東京に来て、神田に於いて警察官伝道を為したのがそもそもの始まりである。
メアリー・テーラー(Mary Dickman Taylor)[1871-1955]
ウィリアム・テーラー(William James Taylor)[1877-?]
米国アッセンブリー教団の宣教師団は1920年に日本ペンテコステ教会を設立し、1929年にそれを日本聖書教会として改編及び改称します。テーラー夫妻は当初は日本伝道隊に所属し萬国基督教警監同盟会(警官ミッション)を担当しますが、後に日本伝道隊を離れ、1913年にペンテコステ派宣教師として再来日しますが、それは1914年の米国アッセンブリー教団の創立前のことです。
上の記事のように戦前はメアリー・テーラーがペンテコステ教会の最初の宣教師だと考えられていました。しかし戦後になって彼女の足跡は忘れ去られてしまいます。テーラー夫人とはどのような方で、日本でどのような活動をしたのでしょうか。
メアリーとウィリアム
メアリー・ディックマンは1872年に英国のグラスゴーに生まれます。翌年ホテルのウェーターだった父が亡くなり、その翌年には母も亡くします。そのため幼いメアリーは母方の叔母によって育てられます。学校の学びもそこそこでメアリーはグラスゴーやリバプールの貧民窟や女性救済活動の働きをします。その後1899年に太平洋を渡り、米国メイン州のフランク・サンフォードのHoly Ghost and US Bible School[聖霊と我ら聖書学校]で3年ほど学びながら宣教活動に従事します。
後列右から二人目がメアリーとウィリアムの師であったフランク・サンフォード、前列右から三人目が創立者のA. B. シンプソン、前列左から四人目が後に日本での宣教師の働きを終えてサンフォード夫人となるヘレン・キニー
サンフォードと妻のヘレンはA. B. シンプソンのクリスチャン・ミッショナリー・アライアンス(CMA)の創設時のメンバーで、ヘレンはCMAの宣教師として日本で2年半ほど活動しています。彼らは結婚後にCMAを離れ初代教会の姿を追い求め独自の活動を始めます。近代ペンテコステ運動の先導者の一人とされるカンザス州トペカのチャールズ・パーハムも1899年にメイン州にサンフォードを訪れ、サンフォードの聖書学校を自分の聖書学校のモデルにします。またチャーチ・オブ・ゴッド(クリーブランド)の創始者であるアムブローズ・トムリンソンもサンフォードから大きな影響を受けています。
ウィリアム・テーラーは1877年に英国リバプール生まれます。父は金物屋を経営していましたが、近い親戚に中国奥地宣教団創立者のハドソン・テーラーがいました。1892年にカナダのモントリオールの祈祷会で信仰を持ちます。1902年にはグラスゴーでサンフォードの働きを展開していました。1903年10月に太平洋を渡りサンフォードを訪ねています。
来日 日本伝道隊からペンテコステ派へ(1905年〜1913年)
メアリーは4歳年下のウィリアムと1904年3月3日にエジンバラで結婚し、1905年の3月3日には息子のハドソンがリバプールで生まれます。彼らは生まれてまもないハドソンを伴い1905年5月16日にリバプールを出港し、太平洋を渡り米国を経て日本伝道隊の宣教師として初来日します。当時日本伝道隊は日本に三組の宣教師がいるだけでした。彼らはまず東京で、その後神戸で、そして再び東京で宣教活動をします。1907年からは東京の神田で警察官伝道に従事します。1908年には娘のエスターが生まれ、彼らは育児と宣教活動に追われます。
1907年9月に最初のペンテコステ派宣教師としてマーティン・ライアンに率いられアポストリック・ライトの宣教師団が来日します。テーラー夫妻はその中のコラ・フリッチとバーサ・ミリガンという二人の独身女性を通してペンテコステ体験を求めるようになります。フリッチたちはウィリアムの英語の授業を手伝い、メアリーが聖霊体験を受けるための時間を保つために彼らの家に住み込んで幼い二人は子供たちの世話をします。しかし1909年初頭にコラたちが香港に移ったこともあり、テーラー夫妻は日本で聖霊体験をすることがありませんでした。
1910年にウィリアムの神経衰弱になり療養のために一家で帰国します。途中香港でコラたちと再会しますが、コラが1912年にマラリアで亡くなると、彼らはコラのことを偲び娘のエスターのミドルネームにコラの結婚後の姓であるフォークナーをつけます。帰国中にウィリアムがオランダで1911年6月16日に、メアリーが1912年にケズウィック聖会でそれぞれ聖霊体験をします。そして1912年と1913年には彼らは英国のペンテコステ運動の中心であった「サンダーランド聖会」にゲストとして招待されています。
前列左から二人目がウィリアム・テーラー、三人目が米国のアズサ・ストリートの様子を世界に伝えたフランク・バートルマン
ウィリアムはこの聖会の六日目にイザヤ書52章2節からメッセージを語り、メアリーが宣教師会議でお証しをしウィリアムがA. B. シンプソンの書いた「Beautiful Japan [美しき日本]」(1893)を歌っています。2節の後半に”What she needs is Jesus and His Holy Spirit, Only Christ can save thee, beautiful Japan.”とあります。
ペンテコスタル・ミッショナリー・ユニオンから米国アッセンブリー教団へ(1913年〜1917年)
そしてテーラー夫妻は英国アッセンブリー教団の前身であるペンテコスタル・ミッショナリー・ユニオン(Pentecostal Missionary Union【PMU】)の正式な宣教師として1913年9月9日にリバプールを出港し大西洋を渡り、ボストンからカナダのバンクーバーを経て、1913年の暮れに長崎に向かいます。
彼らは長崎では刑務所伝道、製箱工場での女子工員伝道、農村伝道などを試みていますが、長崎滞在は短く翌1914年には神戸に移り、「望みの門」(Door of Hope)という名前で売春婦となった女性救済の働きや刑務所伝道に従事します。彼らは経済的な事情もあり1915年にPMUを離脱し米国アッセンブリー教団に加入申請します。加入申請の際に日本伝道隊の創始者であるバークイレー・バックストンがテーラ夫妻の推薦状を書いており、そこでバックストンは「ウィリアムは霊的な人で熱心な伝道者であり、メアリーは際立って祈りの人である」と評しています。ウィリアムが米国アッセンブリー教団の日本における最初の正式な宣教師として任証を受けたのは1917年11月22日のことで、C. F. ジュルゲンセンに先駆けること5ヶ月でした。
当時神戸にはペンテコステ体験を求める外国人クリスチャンたちが幾人もいました。後に生駒聖書学校を立ち上げたレオナード・クートやロンドンを中心にメシアニック・ジューの働きを展開したハーマン・ニューマークなどです。彼らはメアリーに励まされてペンテコステ体験を求めています。クートの自叙伝『不可能は挑戦となる』にはメアリーの名前が何度も登場します。後にクートはメアリーの元で働いていたシアトルのベテル・テンプル出身のエスター・キーンと結婚します。
メアリーは丹波柏原に日本自立聖書学校を始めたJ. B. ソーントンとも親交が深く、1918年の夏からソーントンの岡山での働きを助け始めています。J. B.ソーントンの日本での活動を描いた藤田昌直の『丹波に輝くソーントン』にもメアリーが何度か登場します。のちに日本聖書教会に加入した村井屯二(「屯」の下に「二」で読みは「ジュン」)とメアリーの関わりは深く、村井が中学生の時にメアリーの助手であった従姉妹の三好誠を通じ彼は長崎でメアリーに導かれて信仰を持ちます。村井は明治学院神学部の学生の時に自殺を考えるほど落ち込むのですが、彼はその時に岡山で伝道していた三好誠とメアリーを訪ねそこで聖霊体験をするのです。その後村井は明治学院を退学し、ソーントンの働きに参加し、メアリーの元で働いていた横田スワと結婚します。
メアリーたちの教会の写真『Confidence』誌(1916年2月発行)
Confidenceは英国サンダーランドのオール・セインツ・チャーチで発行されていたペンテコステ運動の機関誌です。
1919年のエドワード・ミルドレッドの日本訪問記にはテーラー夫妻の働きが報告されており、彼らの宣教地は神戸、大阪、岡山、その他の地域に及んでいました。メアリーは救済されてクリスチャンとなった女性たちを伝道師として訓練し共に生活していました。ミルドレッドはメアリーの働きを総括して次のように述べています。
「祈りと御言葉の奉仕」とがあまりに完全に調和している、なんと祝福された働きであろうか。私にとってこの働きの主な特徴は、働き人と信徒との祝福された一致と愛の関係だろう。
米国アッセンブリー教団の宣教師として(1917年〜1935年)
メアリーたちの働きを紹介する遊郭の写真 『The Weekly Evangel』誌(1917年6月9日発行)
The Weekly Evangelは当時の米国アッセンブリー教団の機関誌です。テーラー夫妻の救済事業は海外のクリスチャンたちから多くの関心を寄せられました。
メアリーと三好誠は1920年に米国に渡り各地のアッセンブリー教会で奉仕します。その時にメアリーは日曜学校の生徒たちに「1セント献金」をすることを励まし、それがその後も米国アッセンブリー教会の日曜学校部に定着します。メアリーは1921年4月10日に米国アッセンブリー教団書記長であったスタンレー・フロッジャムから按手礼を受け米国アッセンブリー教団の任証を受け、養女となって同行した三好誠も日本人女性として初めて米国アッセンブリー教団の正教師としての任証を受けます。しかしウィリアムは1923年5月31日に性的不道徳が原因で米国アッセンブリー教団の任証を抹消されます。
そのような状況にあってもメアリーは女性伝道師たちと共に宣教活動に邁進し、神戸での女性救済の「望みの門」の働き、被差別部落での伝道、孤児院の「子供ホーム」の働き、そして教会の働きを発展させて行きます。関西在住の内村誠一、沖千代、小川裕、そしてオーストラリアのスミス夫妻は協調して働く親しい同労者たちでした。後に「子供ホーム」の働きはメイ・ストローブが引き継ぎ、ストローブの亡き後はフローレンス・バイヤスによって引き継がれ、この働きは戦後も継続されました。
前列右から二人目がメアリー・テーラー(現在の神召キリスト教会に於いて)
独立宣教師となり離日しカナダへ (1935年〜1955年)
米国アッセンブリー教団の外国籍で高齢の宣教師の取り扱いの変化もあってか、1935年にメアリーは米国アッセンブリー教団の任証を返上し、独立宣教師として日本に留まります。戦雲高まる中、1940年にウィリアムが1941年2月にメアリーがあとを三好誠に託して日本を離れカナダのバンクーバーに向かいます。その際には米国アッセンブリー教団が彼らの渡航費の経済的支援をしています。バンクーバーでメアリーはかつて日本で宣教活動をしていたアレックス・モンロー夫妻のグラッド・タイディングス・ミッションに通い、日本からの知己で子供の家や長後教会の働きを助けたエマ・ゲールとカナダ・アッセンブリー教団(PAOC)のブリティッシュ・コロンビア州聖会に参加したりします。
戦後、神戸の三好誠は日本アッセンブリー教団の西灘キリスト教会の創設に関わりますが、高齢のメアリーの日本への復帰はありませんでした。そしてメアリーはバンクーバーで1955年12月10日にウィリアムを残し83歳で亡くなります。
The Province (Vancouver, B.C., Canada)(1955年12月13日発行)、p.42
メアリー共に働いた女性たちには三好誠(西灘教会)、村井スワ(村井 屯二 夫人)、メアリー・ストローブ(子供の家)、エスター・クート(レオナード・クート夫人)などがおり、内村誠一(七条基督教会)、沖千代(神愛基督教会)は彼女の良き同労者たちでした。メアリーの人柄と信仰は多くの人たちを感化し彼らの人生に大きな影響を与えました。しかしメアリーが戦前に米国アッセンブリー教団を離脱したことや戦後になって彼女の足跡を語り伝える人がいなかったこともあって、いつしか「日本ペンテコステ教会の起源」とされていたメアリーのことが忘れ去られてしまったのです。
📝 記事の感想等は、下方のコメント欄をご利用ください
感想・コメントはこちらに♪
コメント一覧 (2件)
スタンリー・フロッズハムはスタンレー・フロッジャムが正しい発音です。
伊藤顯榮先生、正しい名前のご指摘ありがとうございます。