「マーガレット・パイパー と ルース・フロイド」
鈴木正和
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師
Margaret Faith Piper Gains (1888~1940)
日本滞在期間(1914~1918, 1920~1921)
Ruth Evelyn Gains Floyd (1919~1988)
日本滞在期間(1920~1921、1948~1955)
マーガレット・パイパーは1914年に25歳で独立宣教師として来日し、その働きの結実が現在の日本基督教団阿倍野教会です。マーガレットの長女のルース・フロイは1949年に29歳で独立宣教師として8歳の息子のノーマンを伴って来日し、1950年からは日本アッセンブリー教団の協力宣教師として働き、その働きの結実が京都左京区岩倉にあった日本アッセンブリー教団岩倉キリスト教会です。マーガレットの末娘のマーガレット・ゲインズはチャーチ・オブ・ゴッド教団(クリーブランド)の宣教師として半世紀近く中東のアラブ人宣教に携わりました。
母のマーガレットは1888年11月22日に米国アイオワ州でメソジスト派の牧師家庭の6人兄弟姉妹の4番目として生まれます。彼女の母方の祖先は17世紀半ばに英国から新大陸に渡り代々牧師・宣教師を生み出した家系でした。彼女の父は波のある人で後にペンキ職人として生計を立てるのですが、1904年6月に家族を捨てて離婚しています。学校を出るとマーガレットは家庭教師としてコネチカット州とカリフォルニア州に居住します。1914年5月に大阪の日本人の女工たちのための働きに召しを感じて日本に向かい6月2日に神戸に来ます。
当初彼女はきよめ派の独立宣教師であった神戸のロバート・アッチソンの元に身を寄せる予定でしたが、若いマーガレットを支援したのが前年の1913年に英国のペンテコスタル・ミッショナリー・ユニオンから派遣されたテーラー夫妻でした。テーラー夫人は1913年に長崎で活動をしていた際に知り合った横内千賀(1885年生)にパイパーのバイブル・ウーマンとなることを要請します。横内は1914年の9月にテーラー夫人の要請を受けて神戸に来てパイパーを助けます。彼女たちは同居しパイパーが横内に聖書を教え、その代わりに横内がパイパーに日本語を教えました。横内は1914年のクリスマスにJ・B・ソーントンから塩屋で(再)洗礼を受けています。
横内とテーラー夫人の出会いのきっかけは、長崎で横内の異母妹が病気で重篤となった際にテーラー夫人と彼女のバイブル・ウーマンであった三好誠(仁木まこと)とが40日間も妹の病床を訪問して祈り癒やされたからです。この体験から横内はテーラ夫人と親しくなり彼女の信仰も強められ伝道に燃えるようになりました。横内の父は開業医で、英語の得意な彼女は20歳で梅香崎女学校を卒業し、1907年には長崎の日本基督教会で洗礼を受けています。その後彼女は私立長崎医学校で2年間学び後に助産婦の資格を取ります。
1915年秋にパイパーと横内は大阪の東区上本町に移り「基督教伝道館」の看板を掲げて開拓伝道を始めます。そして秋のある日に新しい宣教地を求めて聖霊に示されるまま地図を片手に祈りつつ歩いて辿り着いたのが東成郡天王寺村中道でした。そこで彼女たちは集会所を開き週5回の集会を持ち、50人ほどが日曜学校に集い、そして30人ほどが英語の聖書の学び会に参加します。パイパーはその当時大阪には他にペンテコステ派の教会がなく彼女の働きが最初のものであったと述べています。彼女たちは困難の中でも三つの集会場を開設し、その一つに「Gate of Hope Mission 望之門伝道所」という看板がかけられました。
当時まだ日本にはペンテコステ派の教団・教派はなく、ペンテコステ派の宣教師たちはそれぞれが単独で働いていたのですが、1917年8月6日に日本のペンテコステ派の最初のネットワーキングの集まりが御殿場で開かれました。そこには横浜からB・S・モーア、茨城県古河からF・H・グレイ、東京からC・F・ジュルゲンセン、そして大阪からマーガレット・パイパーが参加しています。この会合でマーガレットは来日前に巡回しなかったために米国内で彼女の日本での働きを知る人は少なく、財政難のために日本で英語を教えて経費を補っており、彼女の宣教の働きが制限されていることを祈りの課題として挙げています。
困難な中にありましたが、次第にマーガレットを通して信仰を持ち洗礼を受ける人たちが起こされます。1916年10月には二人の若者が信仰を持ち献身の思いを強めています。1917年の暮れの聖霊待望会では数人が罪を悔い改めキリスト信仰を持つようになり、その中には遊郭楼の息子や僧侶の息子たちもいました。1918年1月には亀田種吉・とよ夫妻が彼女たちの働きに加わります。1918年2月21日には、冬の神戸の海岸でテーラ夫妻によって洗礼式があり、13人の受洗者のうちの7人がマーガレットの集会からでした。マーガレットの群れの中で聖霊体験をしたのは1914年12月30日に受霊した横内千賀のみでしたが、彼女の働きを通して14人が信仰を持ちました。
マーガレットは大阪土佐堀のYMCAの英語講師となり、自宅の東区上本町5丁目195番で英語教授をし、日曜日の夜には5、6名の勤労青年たちが集まります。彼女は伝道の諸経費の他に男性伝道師家族、婦人伝道師、そして二人の女学生をサポートしていました。幸い経済の半分は米国からの支援で賄えることができましたが、あとの半分は彼女自身がYMCAで英語を教えることで生み出していました。そんな中祖父の死去に伴ってか米国の家族からのサポートが途絶えたために、マーガレットは横内たちに2年後に戻ってくることを約束し、1918年3月29日にテーラー夫人に三宮駅から見送られ離日しハワイに渡ります。この時マーガレットがパスポートを更新する際に神戸のJ. B. ソーントンが保証人になっています。彼女は短期間ホノルル在住の日本人に伝道を試みるのですが10月にはサンフランシスコに上陸しています。
横内はパイパーが去った後に教会の合併を天王寺に住むフリーメソジストのヤングレン宣教師に打診するのですが断られ、次に神戸のテーラー夫人に助けを求めます。テーラー夫人は横内に支援を約束して神戸在住の仲間たちに声をかけます。そしてL. W.クート、ハーマン・ニューマーク、J・B・ソーントン、そしてフリーメソジストの宇崎竹三郎などが応援に駆けつけます。1918年夏にはニューマークによる洗礼式が行われています。ニューマークが1919年2月に離日する際に横内に「単立教会」を維持することを勧めます。横内たちは牧者のいない教会の存続を模索し将来が見えない中でも活動を続けていました。そんな折に突然マーガレットが夫のジョンと長女のルースを伴って1920年11月に約束通り再来日します。それは横内たちにとって大きな感謝と驚きでもありましまた。
マーガレットは米国に帰国してから半年後の1918年11月16日に軍人のジョン・W・ゲインズ(1889~1967)と結婚し、1920年の再来日の時も妊娠中で1921年3月4日に長男のポールが横内の家で生まれています。大柄で軍服を着て歩くジョンはスパイの嫌疑がかけられ警察で厳しい尋問を受けます。そのためジョンは「恐日症」で精神的に不安定になり、ゲインズ一家は1921年7月に帰国せねばなりませんでした。
残された者たちは集会所の存続問題にも遭遇し、3人ほど異言を求めて徹夜で祈っていると、午前三時に赤く大きな星が四度表れるのを見るのですが、それが後に教会堂が建つ場所だったと言います。それから二年後の1921年9月に亀田夫妻の尽力で相撲の朝日山部屋の稽古道場を購入し、そこに「望之門伝道館」を設立します。教会の名付け親はJ・B・ソーントンとされています。そして1922年春にフリーメソジストの亀水松太郎を初代牧師として招聘し、1924年9月5日「単立基督教新教望之門教会」として公認されます。1928年9月には亀水松太郎が辞任し、亀水は数人のメンバーと「望之門教会伝道館」として独立し後にナザレン教団に加入します。それが現在の日本基督教団大阪大道教会です。亀水の辞任を受けて1929年4月には荒谷健市が第二代牧師として招聘され、1941年には日本基督教団第10部に阿倍野教会として加入し、現在まで日本基督教団阿倍野教会として存続します。
ゲインズ夫妻は帰国後、ジョンはペンテコステ・ホーリネス・チャーチの牧師をしながら建設業で生計を立てます。彼らに次々にフローレンス(1922生)、エイダ(1924生)、ヴエルマ(1926生)、オリー(1929生)、マーガレット(1931生)が与えられます。マーガレットにとって日本宣教は忘れ難いもので、牧師夫人・主婦として生きねばならないことに葛藤します。そして彼女は遂には健康を害し結婚したことによって「宣教師としての召命」を全うできなかったという罪責感に苛まれていきます。
ゲインズ家は大恐慌による経済的困難だけではなく、マーガレットの鬱症状が悪化し厳しい時を過ごします。不況で多くの人が職を失う中でジョンの牧師給与は期待できず、また建設業にも仕事がなく、経済的に非常に苦しい状態が続くのです。貧困の中でマーガレットとジョンは農園での自給自足の生活を試みます。そして何とか子供たちを育てあげるのですが、第二次大戦の終了直後にマーガレットは急な腹痛を覚え、そのまま1940年8月29日に帰らぬ人となります。
末娘のマーガレット・ゲインズによると母のマーガレットは若い頃にフランスのカトリックの神秘主義者ジャン・ギュイオン(1648-1717)の伝記を読み、ギュイオンの唱える自己犠牲の精神に多大な影響を受け、それがそのままマーガレットの生き様となったと言います。
長女のルースは1919年8月6日にアイオワ州で生まれました。1921年に両親と弟と共に日本から帰国後はアラバマ州で育ち、後にジョージア州フランクリン・スプリングスにあるエマニュエル・カレッジの寄宿学校で高校を卒業します。卒業後に実家のあるアラバマ州アニストンのアラマバ・パイプ・カンパニーで秘書の仕事に就きます。1939年3月4日に19歳のときに9歳年長のコックのアール・デューイ・フロイド(1911~1957)と結婚し、1940年3月に息子のノーマン・ハワードをもうけます。しかし彼らは1940年11月20日に離婚し、その後よりを戻して1941年7月5日には再婚してテキサス州に移ります。日本宣教の召命を感じていたルースは1944年12月28日に夫を残し息子のノーマンを伴ってサンフランシスコを出発するのですが、彼らの夫婦関係がどのようであったのかはわかりません。ルースたちは1947年1月2日にハワイ州ホノルルに到着し1948年に来日します。
日本に着くとルースは母マーガレットの種を蒔いた阿倍野教会を探し出して横内千賀に会いこのように語ります。
母は八年前に永眠し、自分は幼少より殆んど毎日此処のことを聞かされ、母はいつも泣いて祈っておりました。臨終の間際に私を呼ぶように申し、遺言したいことがあると申したそうですが、その頃、私は遠隔の地に住まっていて間に合いませんでした。そのことが何であったのか、今でも知りたいのです。多分、大阪のことであったと思い、来阪しました。
ルースは1950年10月から京都北洛(花瀬、鞍馬、二瀬、木野、岩倉、大原、八瀬などの16の村々)で内村誠一の助けを受けながら日本アッセンブリー教団協力宣教師として働きます。仏教の強く根付いている貧しい山間部での伝道は忍耐のいるものでした。当初は路傍伝道が主でしたが、1951年には二瀬で牛小屋が与えられて3坪の集会所が確保されます。1954年8月には伝道の中心であった岩倉に会堂の土地が確保され、米国駐留軍のG Iたちの献金と米国ルイジアナ州教会の献金が捧げられます。1954年の夏にルースは病気になり長期療養の必要が明らかになります。その状況を鑑み米国アッセンブリー教団日本宣教師団は彼女に帰国して療養することを勧めます。しかしルースは「今、宣教を継続して会堂建築まで行かなければ、小さな群れが北欧の宣教師たちに流れてしまうかもしれないし、私の病気の療養がどの位の期間になるのかわからない」という理由でその申し出を断ります。会堂建築の目処が立ったこともあり、日本アッセンブリー教団は1955年4月に内村綏順を日本アッセンブリー教団岩倉キリスト教会(京都市左京区岩倉三宅町)牧師として任命し、ルースは宣教のバトンを内村に引き継ぎ1955年10月に帰国します。ルースの働きについて「女性ながら忍耐強く苦難と戦いつつ、洛北の地に福音の種を蒔いた結果、追々と救われる魂が起こって」とあります。米国アッセンブリー教団日本宣教師団は1956年2月にルースの健康が回復し再来日が可能ならば正式な米国アッセンブリー教団認可の宣教師となることを教団本部に要請します。
前列右から3人目がルース・フロイド
しかしルースが宣教師として再来日することはありませんでした。来日中ルースは未亡人だと思われていましたが、夫のアールは存命で彼女の帰国後の1957年に亡くなり、ルースは息子と共にコロラド州デンバーに引越し、1998年3月21日にニューメキシコ州アルバカーキで亡くなります。岩倉キリスト教会1992年5月に川崎聴牧師の退職に伴って閉鎖され、教会堂は耐用年数が過ぎたために処分が決定され、残された土地の運用は関西教区に委ねられました。
*阿倍野教会山下壮起牧師の承諾を得て、阿倍野教会創立六十周年記念委員会編集『阿倍野教会六十年史』(日本基督教団阿倍野教会、1981年9月)から一部引用させていただきました。
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コメント一覧 (1件)
宣教の情熱とそれに従うための犠牲を知り、神さまを崇めるとともに、宣教師の皆様に感謝をしたいと切に思いました。研究成果をわかりやすくまとめられた文書と貴重な写真で歴史を詳らかにしていただき、先人のご苦労に感謝する時を頂いたことをありがたく思います。日本人が日本の宣教は難しいと言ってはいけないと思いました。今日の宣教が容易でない、などと言ってはならないと思いました。宣教の歴史に学び励まされることと思いますので「聖霊の炎を掲げて」既刊行分を拝読することといたします。これからも期待して待ちます。中央聖書神学校の記念誌収録の「創立70周年記念論文」も興味深く読ませていただきました。鈴木正和先生ありがとうございます。