MENU

聖霊の炎を掲げて ⑱

幻の大塚日本聖書教会
[豊島区西巣鴨町宮仲2446番地]

鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

 日本アッセンブリー教団の前身の中心の教会の一つが1920年にアレックス・モンロー夫妻によって設立された西巣鴨宮仲の大塚教会でした。巣鴨拘置所のすぐ横にあったこの教会は巣鴨教会、巣鴨宮仲教会、大塚教会などと呼ばれました。戦前の大塚は都内有数の繁華街で池袋よりも栄えていたと言われます。大塚教会は現在の中央福音教会から徒歩5分ほどのサンシャイン60の横の豊島消防署の前にありました。1927年10月に滝野川教会(現 神召キリスト教会)が献堂される前には日本ペンテコステ教会の聖会は大塚教会でもたれ、1938年に滝野川教会が日本聖書教会から離脱すると大塚教会が日本聖書教会の本部教会となりました。ですから日本アッセンブリー教団創立50年史には、「西巣鴨・宮仲を中心に(ノーマン・)バース、(フローレンス・)バイヤス、村井()、徳木(力)、川崎(一)、伊藤(智留吉)、大地(兼香)、上井(乙熊)、太田(福造)、内村(誠一)、沖(千代)、丸山(栄)、長島(鶴)らがしばし聖会を重ね、恵みを受け、交わりを深めていた」(58ページ)とあり、戦後の日本アッセンブリー教団の創立メンバーの多くが大塚教会に参集していたことがわかります。大塚教会の教会堂は1945年4月13日の空襲で消失し、西巣鴨の地に大塚教会は現存しませんが、その創立から空襲による消失までの25年間に日本ペンテコステ教会(1920年)、日本聖書教会(1929年)、日本聖書教会教団(1940年)、日本聖書教会(1941年)、イエス之御霊教会(1942年)とその所属を変えながらも発展し、現在の日本アッセンブリー教団の篠原教会、大和リバイバルチャーチ、結城基督教会 / 関城基督教会を生み出し、最後にイエス之御霊教会となります。

この大塚教会はどのような教会だったのでしょうか。

大塚教会の所在地[西巣鴨宮仲2446番地]
大東京中央明細地図(1941年版)

モンロー夫妻の時代 (1920~1927) 【日本ペンテコステ教会】

Alexander Munroe (1884-1950) Gwendolyn Verra Francis Munroe (1900-1978)
中山万吉(1885-1932)

大塚教会の伝道者たち(1925年)
後列左から中山万吉、モンロー、朝倉敏
前列左から中山夫人、モンロー夫人、一人おいて朝倉夫人

 1919年にカナダのモンロー夫妻は米国アッセンブリー教団の宣教師の任証を受けて、1920年2月25日に来日します。横浜で彼らを出迎えたのはマリアとジョン・ジュルゲンセン兄妹でした。この時アレックスは34歳、妻のグウェンドリンは19歳でした。彼らはジュルゲンセンの教会に寄寓しながら、日本語を9ヶ月間集中的に学び、そのかたわらジュルゲンセン一家の働きを助けます。1920年10月末に巣鴨拘置所近くのかつて鉄工所(鉛筆工場)であった建物を彼らの教会として開拓伝道を始めます。彼らはこの建物を月15ドル10年リースの保証金なしで借りることができました。

 新しい教会の献堂式にはジョン・ジュルゲンセン夫妻とマリヤとアグネス・ジュルゲンセン姉妹が応援に来ました。モンロー夫妻の大塚での働きは順調で、すぐに信仰を持つ人も与えられ、日曜学校の生徒もあっという間に250人になり、1921年の春には最初の洗礼式を持つことができました。しかし初めての出産を踏まえたモンロー夫妻は1921年10月に休暇帰国し、その際にはジョン・ジュルゲンセンと彼の日本人伝道者が留守を守ります。

 1922年3月10日は長女ビューラーがバンクーバーで生まれます。カナダのペンテコステ教会はそれまで米国アッセンブリー教団と提携していたのですが、モンロー夫妻の帰国中に米国アッセンブリー教団から分離してカナダアッセンブリー教団(PAOC)を設立し、モンロー夫妻もPAOCに参加します。休暇帰国中にモンロー夫妻はプリンスルパートの日本人教会を訪れ、そこで20年ほど前にカナダに移住した中山万吉と出会います。モンロー夫妻は中山に彼らの日本人伝道師となって帰国することを要請し、その後モンローと中山は宣教基金を集めるために諸教会を巡回し再来日の準備をします。彼らの出航予定日は1923年9月6日でしたが、その直前に関東大震災が起こり、彼らの出航は延期されます。中山はモンロー夫妻より先に日本に帰還し、モンロー夫妻は1924年1月10日に横浜に到着します。大塚教会の建物も関東大震災でかなりの被害を受けており、そのための修理が必要なこともあって、当初彼らは路傍伝道をするしかありませんでした。1924年の秋には以前レオナード・クートの元で働いていた朝倉敏が彼らの働きに加わります。モンロー夫妻は当時困難の中にあった神田のバーナー夫人の働きを助けたりします。

 1926年7月に後に伊藤智留吉の妻となる加藤トミノが初めて大塚教会に出席します。当時は大塚ペンテコステ教会という看板を掲げていました。トミノは当時の会堂は下駄履きで入りただ講壇があるだけの「工場の時だったままで、油の匂いがプンプンする、お世辞にきれいと言えない教会でした」と述懐しています。トミノは10月17日に荒川で洗礼を受けます。その後モンロー夫人からオルガン演奏を習い日曜学校の助手をするようになります。伊藤智留吉もモンロー夫妻の元でクリスチャンとなっており、1926年にはすでに献身して働きながら大塚教会で奉仕をしていました。

大塚教会(1926年)
後列:左から5人目が伊藤智留吉、8人目が加藤トミノ
二列目:左から2人目が中山夫人とお子さん
三列目:中央がモンロー夫妻、その右が中山万吉

 モンロー夫妻は経済的には恵まれてはいませんでしたが、彼らはその中にあって月刊誌の発行、トラクトの印刷配布をしていました。PAOCに移籍してはしましたが、日本での米国アッセンブリー教団の宣教師たちとの交流は続き、1927年1月4日5日の二日間の日本ペンテコステ教会の最初の聖会をホストし、赤羽、滝野川、富士前、立川の教会が参集します。しかし1927年にPAOCは大塚教会が自給教会になることは困難と判断して日本宣教からの撤退を決定し、モンロー夫妻は大塚教会を米国アッセンブリー教団のベンダー夫妻に委ねて1927年6月に失意のうちに帰国します。帰国したモンロー夫妻はバンクーバーの教会の牧師になりますが、日本宣教の思いは強く再来日の道を長らく探りますが、その道が開かれることはありませんでした。

創立当時の大塚教会のことをモンロー夫人はこのように述懐しています。

ある晩モンロー兄と私は夕礼拝をしていました。モンロー兄がメッセージを語っている時に、教会の外で「モンローさん、モンローさん」と叫ぶ声が聴こえます。まもなく3人の若者たちが明らかにお酒で酩酊して教会に入って来ました。私は導かれるままにオルガンのところに行き奏楽を始めました。モンロー兄は説教壇から降りて若者たちを出迎えに通路に行き、一人一人を掴まえては最前列に座らせました。しばらくそこに座っていた彼らはかなり落胆したようで一人づつ立ち上がっては静かに会堂を去りました。このことがあってから誰も騒ぎを起こす人はいませんでした。 「ダネル・マクリーン師宛ての手紙」(1978年1月5日)

ベンダー夫妻の時代 (1927~1931)【日本ペンテコステ教会⇒日本聖書教会】

Gordon Bender (1900-1983) Anita Bruch Bender (1902-1989)
中山万吉(1885-1932)

大塚教会のメンバー(1926年頃)
前列左から2人目 加藤(伊藤)トミノ、 後列中央モンロー夫人、右端ゴードン・ベンダー

 アニタ・ブラッチは1924年4月に、夫となるゴードン・ベンダーは1926年1月に米国アッセンブリー教団の宣教師として来日し、1926年2月にジュルゲンセン家で結婚します。彼らは日本語の習得が終わるまでジュルゲンセン一家の働きを手伝い、その後関東大震災で壊滅した横浜のB. S. ムーアの働きを再開することを計画しますが、PAOCの日本撤退を受けてモンロー夫妻から大塚教会を引き継ぎます。中山万吉は大塚教会の牧師として残りベンダー夫妻と共に働きます。ベンダーは大工の心得があり会堂を教会堂らしく自らの手で改装します。

 1929年の春には男性8人女性1人の洗礼式が行われ、5月の特別聖会の講師には巡回伝道者の村井を講師に招き、そこで18人の決心者が与えられます。6月にはジョン・ジュルゲンセンの赤羽教会出身の長島鶴が立川のベレヤ女子聖書学院を卒業し大塚教会の婦人伝道師として赴任します。長島は聖書学校入学以前からベンダー夫妻宅に住み込んで働いていました。次いで7月の第三日曜にも洗礼式が行われ、女性2人男性4人が受洗します。11月に再び村井を招いて聖会がもたれ、そこでも決心者20名が与えられます。当時の大塚教会は日曜礼拝には25名から30名が出席し、日曜学校には60名ほどが集まっていました。1930年10月に創立10周年記念集会が持たれ24名が信仰決心をするのですが、最後の晩の講師は村井でした。

謹賀新年の広告
『後の雨』」第32号(1932年1月1日)、5.
洗礼式前のゴードン・ベンダーと受洗者たち
Gordon Bender, “Baptismal Service at Tokyo,” Pentecostal Evangel (1929-04-19), 10.

 ベンダー夫妻は大塚教会の働きを継続するだけではなく、横浜のB. S. ムーアが1916年から展開していた茨城での働きを再開します。そして1ヶ月に一回は茨城の川島村や小川村などムーアのかつての伝道地を中山と共に再訪します。1930年には天幕集会を開催し、日本聖書教会の分教会である茨城教会を起こして9月12日には16人の洗礼式を鬼怒川で行ないます。またベンダーと中山は江古田で日曜学校を開始します。

 大塚教会のメンバーたちは、1929年夏に近所のC.F.ジュルゲンセンらの滝野川教会の天幕伝道に応援に出かけます。この時すでに弓山喜代馬は滝野川教会を辞任していました。この天幕伝道で救われた徳木力は当時大塚教会と滝野川教会の途中にある材木店で働いており、彼の店の前を「中山万吉師はその当時は珍しい洋服姿で、新婚早々らしく伊藤師夫妻は肩を寄り添い、長島師は和服姿で良く通られた」と述懐しています。伊藤智留吉と加藤トミノは1928年7月に結婚し、1929年に献身して谷力夫妻が去って無牧であった滝野川教会の枝教会である富士前教会の伝道師となり、牧会しつつ柏木のホーリネスの聖書学院に通います。その後当時村井が校長代理であった兵庫県柏原の日本聖書義塾で学び、1931年3月には大塚教会から横浜に派遣されてノーマン・バースと共に働くことになります。

ゴードン・ベンダーの元で働く長島鶴と日曜学校の子供たち
Miss Nagashima, “Testimony of Japanese Convert,” Pentecostal Evangel (1931-10-10), 6.

 1931年6月にベンダー夫妻は休暇帰国し、彼らの帰国中は友人のバースの支援のもとに中山と長島によって大塚教会の活動は継続します。8月と10月の大塚教会の特別伝道集会には横浜教会のバースや伊藤、八王子教会のジェシー・ウェングラー、また滝野川教会からも復帰した弓山や聖霊神学院の神学生たちが応援に来ます。11月29日には滝野川教会を借りて洗礼式を持ちます。再来日を予定してベンダー夫妻ですが、1931年9月に勃発した満州事変などもあり彼らの休暇は長期化し、結果的には再来日することがありませんでした。後にベンダー夫妻はニューヨーク州バッファローで牧会します。

バース夫妻の時代 (1931~1940) 【日本聖書教会】

Norman Barth (1905-1973) Grace Barth (1907-1972)
中山万吉(1885-1932)
村井(1897-1970)村井スワ(1900-1998)

バース夫妻と日本人伝道者たち(1936年)
前列左から長島鶴、ノーマン・バース、グレイス・バース、大地兼香
後列左から朝倉敏、伊藤智留吉、村井
Norman Barth, “Meet Some of Our Japanese Workers,” Pentecostal Evangel (1936-08-08), p. 8.

 ベンダー夫妻が再来日できなくなり、ノーマン・バースが継続して大塚教会の責任を担います。長島鶴は大塚教会から1932年1月に茨城に派遣され、関本に伝道所を開設します。しかし1932年6月に中山万吉が妻つる子と3人の子供を残して急死したため、バースは長島を大塚教会に呼び戻します。バースは1932年10月に大塚教会の牧師として村井を招聘し、それを受けて長島は茨城へと帰還します。間もなくしてバースは長島に代わってハワイから戻った朝倉敏を、そして1933年7月に関本に須藤和男を派遣し、長島は神奈川の長後の開拓伝道に派遣されます。

 1933年7月23日にその後の大塚教会の発展の起因となった聖霊体験のリバイバルが起こります。その火付け役となったのは姫路の日の本女学校の坂本ヤエルでした。向ヶ丘の林の中での祈祷会で聖霊体験をする大塚教会のメンバーが次々と起こされて行きます。1933年の秋には練馬の神の教会でも村井を講師として聖霊待望会が持たれます。大塚教会は教会誌として1933年2月から発行された『草苑』(まきば)は1934年に『聖霊』と改題されるのですが、『聖霊』誌を通して、大塚教会で始まった聖霊のリバイバルの炎が日本聖書教会の群れだけでなく他教団をはじめ日本各地に拡大して行きます。

 1934年3月18日には大塚教会内に日本聖書神学校が設立されます。これは男女共学の神学校で、受霊者のための本科、未受霊者のための予科、本科卒と2年の伝道経験者のための専攻科が設けられましたが、この神学校の詳細は不明で、1939年頃には4名の神学生がいました。

 大塚教会の責任を担うバースは横浜の篠原町に居住して伊藤智留吉夫妻と共に横浜で働きつつ、他の日本人教職たちと共に宣教活動を拡大します。1933年にはエマ・ゲールが長後の長島と共に戸塚の働きを始め、彼女が西宮の子供ホームに戻ると、1934年には加古川でホッキンスの働きを助けていた大地兼香が加わり、1936年には戸塚の働きは大地の担当となります。バース夫妻は1933年12月に二人の子供たちを伴って休暇帰国し1935年9月に再来日します。1936年3月にはバース夫妻を中心に横浜の伊藤智留吉、茨城の朝倉敏、長後の長島鶴と戸塚の大地兼香が一つのミッションを形成していました。長島は1938年7月から山田盛彦を手伝って静岡伝道を開始しますが、1939年5月の朝倉敏の死に伴い関本に1939年11月に帰還します。

『草苑(まきば)』第9号
(1933年10月30日発行)

大塚教会誌として『草苑』が発行され、後に『聖霊』と改題されます。『聖霊』は大塚教会の教会誌から、日本聖書教会教団機関誌、日本聖書教会機関誌、そしてイエス之御霊教会機関誌となり、戦後もイエス之御霊教会機関誌となって再刊されます。

『聖霊』第12号
(1934年2月20発行)

 1936年9月30日から横浜の篠原の丘で日本聖書教会主催の聖霊盈満聖会が開催され、大阪の粉濱教会の上井乙熊などもこれに参加します。後に上井は村井に導かれて聖霊体験をし、粉濱教会が関西の聖霊の働きの拠点となって奈良の川崎一をはじめ次々と聖霊体験をする人たちが与えられていきます。1938年に滝野川教会が日本聖書教会から離脱すると、大塚教会が日本聖書教会の本部教会である東京教会となって名実ともに日本聖書教会のハブとなります。1939年4月の宗教団体法の施行に伴い、1940年2月20日に日本聖書教会の緊急時理事会が開催され、日本聖書教会は米国アッセンブリー教団から独立し、日本聖書教会理事長であったバースが退き、バース夫妻は翌年3月に帰国します。

村井夫妻の時代 (1940~1945)
 【日本聖書教会教団 ⇒日本聖書教会 ⇒イエス之御霊教会】

村井(1897-1970) 村井スワ(1900-1998)

 日本聖書教会の日本人教職たちは1940年4月30日に粉濱教会で日本聖書教会教団設立総会を持ち、初代監督に村井を選出します。これを受けて大塚教会の『聖霊』誌は1940年6月号から日本聖書教会教団機関誌なります。しかし村井は1940年10月に理事会を解散し1941年春には日本聖書教会教団の指導体制が大きく変化します。1941年6月に日本聖書教会の指導者であった村井、長島鶴、川崎一、太田福造、上井乙熊の5人が台湾の日本真耶蘇教会に招かれ3週間程訪問するのですが、村井と上井はワンネスの神観を持つ真耶蘇教会の熱心な聖霊信仰に動かされ、彼らの教義などを受け入れて再洗礼を受けます。しかし同行の川崎、長島、太田はそれをよしとせず袂を分かって帰国します。台湾訪問以降、村井はそれまでに増して聖霊体験を強調し、真の教会は東から来ることを新たに説き始めます。

1941年次の日本聖書教会教団所属教会
『基督教年鑑』(昭和16年版)から作成

 1941年11月に日本基督教団が発足し、大塚教会以外の日本聖書教会の多くが加入するのですが、もともと合同教会に反対であった村井は加入せず、大塚教会は村井のリーダーシップのもとに独自の道を探ります。そして1942年10月にイエス之御霊教会という宗教結社として文部省から認可されます。これを受けて1942年10月号から『聖霊』誌はイエス之御霊教会の機関誌となります。村井は戦時中も関西、四国、九州を訪れ伝道し、四国の立川基督教会や福岡の井手宗雄などとの交流が続きます。大塚教会の教会堂は1945年4月13日の米軍の空襲で消失し、1920年に始まった西巣鴨での働きは終焉を迎えます。

『聖霊』第60号
(1940年6月1日発行)

1940年4月1日の日本聖書教会教団発足を受けて日本聖書教会教団機関紙となります。

『聖霊』第81号
(1942年5月1日発行)

1941年11月に日本聖書教会教団は解散し、所属教会は各自に日本基督教団に加入します。大塚教会は日本聖書教会として新たな歩みを模索します。

『聖霊』第85号
(1942年10月1日発行)

大塚教会は日本聖書教会として存続することを申請しますが、文部省から教会名に日本や東京を冠することを禁じられ新しい教会名を模索します。最終的には「イエス之御霊教会」とし、大塚教会が豊島区にあるので「豊島イエス之御霊教会」として文部省から認可されます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 敗戦直後のイエス之御霊教会は大塚日本聖書教会を継承して改称したことを主張しつつ、ペンテコステ信仰を持ち同じワンネスの神観を持つ眞耶蘇教会、ユナイト・ペンテコステ教団、レオナード・クートの日本使徒教団と連携して教勢を爆発的に伸ばします。教義的に袂を分かちましたが、村井は篠原教会の伊藤智留吉夫妻にとって日本聖書義塾時代からの恩師でもあり、1947年6月13日の戦死した伊藤智留吉の篠原教会での葬儀は村井が司式します。大塚教会出身の伊藤家と村井との関係は深く、長兄の初太郎をはじめ智留吉の弟妹たちはイエス之御霊教会に参加します。筆者が2000年に弓山喜代馬師に戦前の日本のペンテコステ運動についてインタビューした際に、岡山時代から旧知の村井について尋ねると、弓山師は「素晴らしい方でした」と二度繰り返されました。

資料の『聖霊』誌は小樽イエス之御霊教会の木田徳男師に提供していただきました。

筆者:鈴木正和

この記事が気に入ったら
いいねしてね!

お友だちへのシェアにご利用ください!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

感想・コメントはこちらに♪

コメント一覧 (2件)

  • 主の御名を賛美いたします。
    古い歴史ながら素晴らしい内容に毎回新しい感動を与えられます。
    資料を集めるご苦労を覚えつつ主が顧みてくださいますようお祈りしています。

    教会一同で今回の恵みを分かち合う予定です。次回も楽しみにしております。
    お働きの祝福とご健康が支えられますようお祈りしています。
    在主

  • 林由佳先生、コメントありがとうございます。教会でシェアしてくださりありがとうございます。手探りの作業なので間違いがあるかと思います。ご指摘くださると感謝です。今後ともよろしくお願いいたします。

コメントする