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メディカルカフェの働き(4)

メディカルカフェの働き(4)

笹子 三津留・真由子 夫妻

ここ20-30年の間にがん医療のインフォメーション、情報の共有に関する認識は大きく変化しました。

40年前は、「がん」は死を連想させるため、がんという病名は伏せ、医療者も家族も患者にがんと悟らせないように関わることが一般的でした。徐々に、告知することは拡がってきましたが、告知しても生きる望みを断つような厳しい情報はできるだけ曖昧に伝える、あるいは伏せておくことが良い、死に対峙させるのは酷すぎると考えられていました。

近年は患者本人が自分でどう生きるか、どう死を迎えるかを考えることが大切だと、病名を告知し、治療の奏効率や予後の告知をすることも普通になりました。治療を説明して同意を得るというインフォームド・コンセントと言う概念から、徐々にではありますが、シェアド・デシジョン・メイキング(Shared Decision Making)つまり、治療選択に必要な情報を提供した上で、患者さんの希望や個別の社会的な状況なども組み入れて治療を患者さんと医療者が共同して決めていくという流れが始まっています。同じ癌の同じ病期でも、年齢や家族構成、併存して持っている病気などによって、おすすめできる治療が変わることもありますし、本人が十分生きたから、積極的な治療はしなくて良いですと選択されることもあるのです。そのためには、進行癌の場合「治療目的は完治では無く延命です」とはっきりと伝える必要がありますし、生存率で示されるデータの意味をきちんと理解してもらう必要もあります。一方、患者さんサイドにも大きな変化があり、比較的若い世代では、最近は医師が伝える前にインターネットで自分の癌の経過、治療法、予後、生存率や治癒率などを調べた上で受診する人も増えています。ネットで何でも調べることができますが、ネットに溢れる情報は玉石混合であり、誤った危険な情報も少なくありません。人間ですから痛そうな治療や副作用の強い治療より、身体に優しい治療、食事だけで治せるとか言われるとそちらになびきがちです。厳しい情報より、心地よい情報、嬉しい情報の方に惹かれてしまい、治療が上手くいかず後悔する患者さんも少なからず見受けます。ガイドラインは標準治療を記載していますが、日常生活では「標準」というと「並」を意味するので、医療でもそう考えて標準じゃ無くて特別に良いのをお願いしたいと思われる方も居るようですが、「最も推奨できる最高の治療」が「標準」であることは皆さんにも覚えておいていただきたいと思います。

がん医療以外の医療・介護の現場でも、終末期の過ごし方を元気なうちにご家族、医療者、介護者なども含めてみんなで考えておくようにと、ACP(アドバンスケアプランニング)が推奨されています。

終末期の過ごし方や死生観について自分で考え選択するようにと、社会は大きく変化しています。しかし、がん患者さんが死について家族に話すと「縁起でも無い、今は生きることを考えて」と言われる事が多いようです。病院内で医療者に語ると、治療をしたくないと受け取られるのではないかと躊躇してしまいます。それに今の医師達は業務の多さと時間の少なさのために、じっくりと話す必要のある死という重いテーマはなかなか切り出せません。

カフェでお話ししていると、参加される方は「死」についてそれぞれの「死生観」「あの世観」を持っておられます。「死んだら無になる」「私は狩猟をして沢山のいのちを殺してきたので、天国には行けないと思う」「死んでも霊になってこの世を浮遊していると思う」「私は死んだら天国には行きたくない。地獄に居るだろう父親に会って文句を言いたい」など様々ですが、皆さんが意外と「死」について語りたいし聞きたいと思っておられることを感じます。

 私達はがん医療に携わり、終末期のがん患者さんとも数多く関わってきましたが、病院の中で患者さんが死や死後のことについてはっきりと語ってくださったことはあまり無かった様に思います。ですからカフェに来られる方が「死」や「死後の世界」について、フランク且つ真剣に語られることに「こんな風に死や死後のことについて語っても良いのか」と少々驚きを感じました。病院と違ってゆっくりと対話することが出来るので、関係を深めながら心が開かれていくのかもしれませんし、教会が、宗教的・霊的な空間であるがため、死や死後のことについて語りやすい場と感じられるのかもしれません。終末期の過ごし方や死について、自分で考えて選択するようにという社会のなかで、死について臆せずに安全に語り合える場、死や死生観について分かち合うにふさわしい場は以外と無いのかもしれません。

そのような話題になると「クリスチャンの方は死をどうお考えですか」「聖書には何と書かれているのですか」と必ず聞かれます。カフェは積極的に伝道する場ではありませんが聞かれたことには喜んでお答えしますし、関係性が築き上げられると私たちの持つ信仰に前向きに純粋な関心を示してくださる方が多くいます。そのような方の中には、礼拝に参加するのは敷居が高いが礼拝のメッセージは聞きたいという方もおられ、そのような方々は毎週リモートで礼拝に参加し、その感想を聞かせてくださいます。これもコロナ禍でリモートの礼拝が充実したおかげです。

 この3年間のコロナ禍、特に緊急事態宣言下ではカフェの活動を自粛することを余儀なくされました。カフェを再開した後も、治療中の方や高齢の方は感染を恐れて参加されないかもしれないと心配していましたが、意外にも皆さんがカフェに集うようになり感謝しています。カフェに継続的に参加される方に共通することは「孤独」を感じておられる方であるように思います。これは、個人の問題と言うより社会の問題です。年代や家族が居るか居ないかに関わらず、孤独を感じる社会になっているのだと受け取っています。他の教会の方が「私たちも教会でカフェをしたい」と言って、時々見学に来て下さるのですが、その時に「私たちは医療者ではないので・・・」と心配される方も居られます。私たちが医療者であることは、カフェに来るきっかけのひとつであるかも知れませんが、継続してこられるリピーターの方は、兄姉のみなさんがいつも優しく寄り添って聴いてくださるので、居心地の良さを感じ、いつも兄姉とおしゃべりすることを楽しみに来られているように見受けます。

この世の肩書きでは無く、聖霊様の助けによって、兄姉の愛の奉仕によって、教会のメンバーの祈りによってこの働きが守られ継続されていることを感謝しています。教会が地域社会に開かれた場、社会の中で不安や弱さを感じる方が「ここにいてもいい」と思える場、死について語り合える場、人とつながることの出来る場、そのような地域社会に開かれる場であり続けたいと思います。

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