船乗りから人を漁る者に
鈴木正和
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師
Barney Stansbury Franklin Moore (1874-1956)
Mary Ellis Moore (1877-1963)
胎動期の日本のペンテコステ運動は幾つもの試練を乗り越えなくてはいけませんでした。それらは1916年ごろから数年間続いたニュー・イシュー論争、1923年9月1日の関東大震災、そして1941年から1945年までの太平洋戦争でした。バーニー・S・モーア夫妻は、ロサンジェルスのアズサ・ストリートのリバイバルを体験し、1914年に単独のペンテコステ派宣教師として来日します。彼らはまず神戸に向かい、翌年には横浜に移り、後には茨城での農村伝道も手がけます。そして横浜で聖書学校を始めようとする直前に関東大震災に遭遇し全てを失い急遽避難帰国をするのです。そしてそこで彼らの意図と反して彼らの日本での働きは終焉してしまうのです。
バーニーは左腕に刺青がある182cmの長身で、夫妻はともに正教師の資格を持っていました。モーア夫妻が日本で働いた期間はわずか10年程でしたが、彼らの働きはどのようなものだったのでしょうか。関東大震災後の復興が始まり日本社会に落ち着きが戻る中モーア夫妻の再来日がかなわないと知った同僚宣教師たちは彼らの横浜や茨城での働きが消滅することを惜しみます。大塚教会のゴードン・ベンダーと中山萬吉は1929年頃から茨城での伝道を開始し、1930年には洗礼式を行い、1932年には長島鶴を常駐の伝道者として派遣しています。ノーマン・バースは1931年春に兵庫県柏原の日本自立聖書義塾で学んでいた伊藤知留吉夫妻を招聘して横浜での伝道を開始します。
来日前
バーニー・S・モーアは米国メリーランド州で1874年8月2日に生まれます。彼の父は船乗りで、バーニーは5人兄弟の3番目でした。後にバーニーも船乗りとなり米国東海岸中部で働きます。バーニーの左腕の刺青はその当時の彼の奔放な生活を象徴しています。そんな彼ですが1901年に27歳でメリーランド州でメソジスト・ホーリネス派の宣教師によって回心します。当時彼が通っていた小さな教会で聖霊の油注ぎがあり、床に倒される人や異言を語る人たちが多く与えられます。バーニーは肺の病気や痔やリューマチを患いますが全て癒されて伝道者になる決心をします。
バーニーはバプテスト派のテーラー大学とシカゴ聖書学校に通い、1903年4月13日にはシカゴの急進的なメソジスト・ホーリネス派のメトロポリタン・チャーチ・アソシエーションから任証を得ています。1904年にはイリノイ州アーバンナで牧会しています。因みにこのメトロポリタン・チャーチ・アソシエーションから東亜宣教会を創設したカウマン夫妻が1900年に日本に派遣されています。バーニーの牧会した教会でも聖霊の油注ぎがあり一人の婦人がラテン語とヘブル語を話し出します。バーニーは1906年2月25日にはペンテコステ・ユニオン・チャーチの長老として正教師となります。
バーニーは1906年にメアリー・エリスと結婚します。メアリーはカナダのケベック州で1877年10月15日に生まれ、1899年には米国に移民し1900年に帰化しています。彼女は1905年にはホーリネス・アポストリック・アソシエションの正教師でした。モーア夫妻はロサンジェルスのアズサ・ストリートのリバイバルを聞き及ぶとシーモアたちのアポストリック・ミッションを訪問し、そのままカリフォルニア州に引っ越します。1910年にはカリフォルニア州オークランドで巡回伝道師として働き、カリフォルニアだけでなくカナダのバンクーバーや米国の西海岸沿岸も巡回します。1914年にはワシントン州タコマに居住していました。
第1期(1914年〜1918年)
すでに宣教師となる思いが与えられていたモーア夫妻は意を決して日本宣教を志します。1914年4月には米国アッセンブリー教団がアーカンソー州で創設されますが、モーア夫妻はオレゴン州ポートランドに本部を置くペンテコスタル・アッセンブリー・オブ・アメリカに所属し日本宣教に向かい1914年6月19日に横浜に入港します。横浜では茨城県古河のフランク・グレー夫妻と東京のカール・ジュルゲンセン一家が彼らを出迎えました。モーア夫妻はしばらくの間は東京神田のエステラ・バーナー宅に寄寓し、それから神戸に移ります。彼らはバーナーを助けていたタキガワ・イチタロウを伴って神戸へ行き、神戸でも他のペンテコステ派の宣教師たちに迎えられます。タキガワの助けを得て伝道活動を開始したモーア夫妻ですが、タキガワが東京へ戻った後に神戸で良い通訳が見つからず、1915年の春には神戸の働きを閉じて横浜の本牧に移ります。
モーア夫妻は横浜で「ジャパン・ペンテコスタル・ミッション」と名乗り、まず天幕集会から伝道活動を始めます。彼らの働きは急速に発展し三つの日曜学校を始め、三人の助手と日本人牧師が与えられます。1916年にはメンバーが60人、5人の働き人、3人の婦人伝道師と3つの伝道所を展開していました。1917年には二つの農村伝道拠点を持っていました。
茨城での農村伝道は1916年に横浜で牛乳宅配の仕事をしていた男性の回心から始まります。彼は茨城の名家の出身でしたが放蕩を尽くし妻には離縁され横浜で働いていました。彼はモーア宅にも牛乳を配達していて、その際に婦人伝道師から福音を伝えられるのです。救いを体験した彼はその喜びを故郷の伊讃美ヶ原の家族に伝えます。息子の生活の変化を見て彼の家族がモーアたちを招いた集会には周囲の村からも多くの人々が集まり、初日は600人、二日目は700 人が集まり、三日目に100人の信仰決心者があったとも言われます。この時周囲から殺人者として恐れられていた一人の男性も回心し聖霊体験をするのです。モーア夫妻は茨城の農村伝道を通して多くの劇的な救いや神癒の体験を見ます。
ニュー・イシュー論争 (1916年から1919年)
このニュー・イシューと言われる神学論争の発端は米国アッセンブリー教団設立一年前の1913 年4月15日のカリフォルニア州アロヨ・セコのキャンプ集会にあります。この集会で「父・御子・御霊による洗礼」ではなく「イエスの名による洗礼」が新しい啓示として強調されるようになり、そこからワンネス神観へと発展します。米国アッセンブリー教団は1914年4月に特別な教理を持たない緩い協議会として設立されますが、1916年の米国アッセンブリー教団の第4回総会において三位一体の神観を明確にした「基本的真理に関する宣言」を採択します。これを受けて米国アッセンブリー教団のメンバーの三分の一の人たちが教団から離脱します。
日本のペンテコステ派宣教師の中でもこの神学論争が繰り広げられます。1916年頃に日本で宣教の働きを始めていたレオナード・クートは他のペンテコステ派の宣教師たちから「恵みの特別な働き」は何段階あるか問われます。当時日本のペンテコステ派の宣教師たちの中にもその恵みが三段階、二段階、そして一段階あると信じていた人たちがいたのです。(クート『不可能は挑戦となる』170ページ)
「恵みの特別な働き」の三段階とは「回心→聖化→聖霊のバプテスマ(異言体験)」を示し、二段階は「回心→聖霊のバプテスマ(異言体験)」を示し、一段階はイエスの名による洗礼を通し「回心・聖霊のバプテスマ(異言体験)」を示しています。この三つの古典的ペンテコステ派の流れを今ではホーリネス的ペンテコス、十字架の完成した業ペンテコステ、ワンネス・ペンテコステと言います。
当時の日本在住のペンテコステ派宣教師の中で一番このニュー・イシューの影響を受けたのは茨城県古河で活動していたフランク・グレー夫妻でした。彼らは母国のニュー・イシュー論争を耳にするとすぐに聖書の学びを始め、それによってすぐにイエスの名による再洗礼を受ける必要を感じます。そしてそれを同僚のバーニー・モーアに依頼するのです。そしてフランクはバーニーと再洗礼の場所と時刻を取り決めて共に水の中に入リます。フランクはバーニーによって「イエスの名」による再洗礼を期待したのですが、フランクが耳にしたのは「イエスの名」ではなく「聖なる父」でした。バーニーはフランクに「イエスの名」による再洗礼を施すことに同意して約束の場所で共に水の中に入ったのにも関わらず、最後まで逡巡し最後の最後に母国の彼らの支援者のことを思って「イエスの名」による再洗礼を施さなかったのです。(Olive Gray Haney, “Frank and May Gray”, 97-98.)
米国アッセンブリー教団が三位一体の神観を明確にした後の1917年11月に神戸のウィリアム・テーラー、1918年5月に東京のカール・ジュルゲンセン、1918年9月には横浜のバーニー・モーアが米国アッセンブリー教団の任証を受け、1919年には米国アッセンブリー教団の宣教師としてジョン・ジュルゲンセン夫妻、ドロシー・ミルズ、ルース・ジョンソン、アレックス・モンロー夫妻、ジェシー・ウェングラーが来日し、1920年に日本で米国アッセンブリー教団の宣教師たちによって日本支部が設立され、彼らによって三位一体の神観を明示する日本ペンテコステ教会が設立されます。
1920年以前から日本で活動していたペンテコステ派の宣教師の中で日本聖書教会に参加したのは、ウィリアム・テーラー夫妻、バーニー・モーア夫妻、エステラ・バーナー、カール・ジュルゲンセン一家でした。モーア夫妻はワンネス信仰を持っているのではないかと母国の支援者たちから嫌疑をかけられますがそれを否定します。レオナード・クートの妻エスターは独自の洗礼論を持つ米国ワシントン州シアトルのベテル教会の出身で、彼らは日本ペンテコステ教会には参加せずに独自の道を選択し、その後も米国のワンネスペンテコステ派の人たちとの交流を続けます。
第2期(1918年から1921年)
モーア夫妻は1918年6月に最初の休暇帰国をします。彼らの留守を茨城県古河のグレー夫妻と神戸から関東に移ったばかりのレオナード・クートが守ります。バーニーは休暇帰国中の1918年9月20日に米国アッセンブリー教団の任証を受けています。休暇帰国を終えてモーア夫妻が1919年の夏に再来日した際にはカール・ジュルゲンセンとクートが彼らを横浜で出迎えています。1919年夏にルース・ジョンソン、1919年12月にジェシー・ウェングラーが米国アッセンブリー教団派遣宣教師として来日し、二人はモーアの家の隣に住み日本語を学びつつ彼らの働きを助けます。当時モーア夫妻の元には牧師として町田保、婦人伝道師の原と鈴木の二人がいました。
ジェシー・ウェングラーが来日直後に初めて横浜のモーア夫妻の教会の礼拝に出席した時のことを次のように述懐しています。
私の最初の日本の教会の礼拝での経験は忘れ難いものがあります。モーア夫妻が横浜の働きを担っており、会堂は彼らの家からそう遠くない場所にあります。私たちはいくつもの興味深いクネクネと曲がった混雑した通りを通って最後に会堂に着きました。そこにはきちんとベンチとオルガンが置かれていて、まるで米国の会堂のようでした! この最初の礼拝は私たちの歓迎会のようなものでした。私たちが教会に入ると、女性全員が片方にそして男性全員がもう片方に座っているのに気づきました。私たちは他の女性たちと前の席に座りました。誰もささやいたり話したりしません。女性たちは頭を下げて座り、目は下を見ていました。日本人の牧師が礼拝の司式をしました。話されていること、歌われていること、説教されていることが全く何もわからずに座っているのは実に奇妙な感覚で、宣教師が話す時だけ通訳がつきました。私は彼らの何人かが彼らの手の中に丁寧に丸められた白い紙の巻物を持っているのに気づきました。讃美歌が歌われた後に、牧師が祈り、そしてモーアさんが短いメッセージを語り、手に巻物をもった男性が立ち上がり、静かに通路に向かい、深くお辞儀をし、それから会堂の前にゆっくりと歩み出ると、再びお辞儀をまず牧師にそして宣教師たちにし、それから会衆を前にして彼は再びお辞儀をしたのでした。日本のお辞儀は百聞は一見にしかずです。頭を頷かせるのではなく、身体が丁寧に腰から折られ、目は下を向いたままで、辺りやお辞儀をしている相手の様子を伺ったりしません。男性は会衆の前でお辞儀をすると、巻物を両腕の幅に広げ、それを顔の前まで上げます。それからゆっくりと巻物を開き、この儀式に時間を取ることを全く気にしていないのです。私はその巻物が読み終わられるのを固唾を飲んで待っていました。
日本人は「筆」と呼ばれるブラシを巻物に日本文字を書く時に用い、多くの場合は巻物を読む人は歓迎の言葉を詩文の形で自分で書くのだそうです。男性がそれを読み終わった時に、巻物を再び静かに巻き、会衆にお辞儀をし、再び宣教師たちと牧師にお辞儀をし、それからゆっくりと彼の席に着いたのです。その後この集会は厳かに霊的に続けられました。(Jessie Wengler, Letters from Japan (1952) 11.)
横浜でモーア夫妻はジュルゲンセン一家、バーナー、グレイ夫妻、クートと連携して伝道をし、聖霊体験をする人が多く与えられました。モーア夫妻は引き続き農村伝道にも力を入れ、1919年には横浜に2つの集会所、地方に4つの農村伝道所があったといいます。1919年には茨城の川島村に集会所がつくられます。1920年の夏には横浜の会堂も大改修し彼らの働きは拡大するですが、メアリー夫人の病いのためにモーア夫妻は1921年に2度目の休暇帰国をします。この時に同僚のルース・ジョンソンも同時に休暇を取り、町田保牧師も共に渡米することになり、モーア夫妻の留守をジェシー・ウェングラーがジョン・ジュルゲンセン夫妻の支援を受けて婦人伝道者たちと守ります。
第3期 (1921年から1923年)
休暇帰国中のモーア夫妻は米国やカナダを町田保を伴って巡回伝道します。その間にバーニー夫妻だけでなく町田もカナダアッセンブリー教団(PAOC)から経済的支援を受けています。モーア夫妻は1922年10月にはニューヨーク州ロチェスターで町田と共に17日間の連続集会を持っています。彼らはまたカナダのプリンス・ルパートの日本人教会を訪れ、そこで長谷川キン夫妻に帰国して彼らと共に横浜で働くことを要請し、長谷川夫妻は4人の子供たちを伴って1922年11月に帰国します。
モーア夫妻は帰国中にカナダと米国の諸教会を巡回し、横浜に聖書学校の建設のための一万ドルの献金を募ります。しかしその間にモーア夫妻はカナダと米国東部の支援者たちと衝突し、米国アッセンブリー教団宣教委員会は彼らが日本に戻る前に問題を解決するよう迫りますが、モーア夫妻はその勧告を無視して1923年3月に来日します。そのため米国アッセンブリー教団宣教委員会は彼らの任証を1923年3月30日に取り消します。
関東大震災と緊急避難帰国(1923年9月1日)
横浜の暑い夏を過ごすのは大変なのですが再来日したばかりであり、モーア夫妻は9月の聖書学校の設立準備もあり、彼らは他の宣教師たちのほとんどが軽井沢に避暑をするなか横浜に留まって祝福された天幕集会を継続します。彼らは11部屋もある大きな家を借りて会堂としおり、そこで聖書学校が始める準備をしていました。しかし9月1日に未曾有の大地震が横浜を襲いこの大邸宅は二つに裂けて倒壊したのです。
バーニーはメアリー夫人と婦人伝道者の鈴木を倒壊した会堂からかろうじて助け出すことができましたが、会堂を失っただけでなくカナダから来たばかりの長谷川キン牧師夫妻と彼らの息子も亡くなります。モーア夫妻はかろうじて近くの港に停泊していた船に避難し、メアリー夫人の腕の怪我もあり神戸を出帆する罹災者を乗せた帰還船で太平洋を渡り9月16日にシアトルに入港します。怪我をした左腕を着物の切れ端で作った三角巾で吊るしたメアリー夫人を支えながら桟橋に降りてくる空身のバーニーたちはまさに避難民の姿でした。
他の多くのペンテコステ派の宣教師たちは震災時に軽井沢で避暑中のために安全でした。ジョン・ジュルゲンセン夫妻の家で留守番をしていた弓山喜代馬夫妻や八王子に赴任したばかりのジェシー・ウェングラーも無事で、カール・ジュルゲンセン一家は休暇帰国中でした。横浜が壊滅状態になったために横浜で大きな働きを展開していたクート夫妻は全てを失い数人の仲間と共に大阪に向かいます。日本の惨事を受けて米国アッセンブリー教団のクリスチャンたちから多くの義援金が捧げられ、それらが建物の修繕費などに使われるのですが、その余剰金は米国アッセンブリー教団日本支部にプールされ、それが1927年10月に献堂された滝野川教会(現 神召キリスト教会)の建設資金となります。
震災伝道者として
モーア夫妻は前回の休暇帰国で多額の支援を受けて再来日したものの関東大震災で全てを失い、日本人牧師夫妻も死亡し、その上米国アッセンブリー教団の任証が取り消されていたこともあり再来日の道は閉ざされました。そのため彼らは『日本の惨事 又は世界最大の地震』という本を著し、カリフォルニア州ロングビーチを拠点に「震災伝道者」として活動を始めます。1929年には英国、中東、南アフリカ、エジプト、オーストラリアを歴訪し、主の再臨を強調した宣教活動を展開します。帰国後モーア夫妻は米国アッセンブリー教団南カリフォルニア教区の同意を得て、1930年10月29日に米国アッセンブリー教団所属の伝道者となりますが、その際に彼らは過去の過ちを謝罪する必要がありました。
再来日の試み
モーア夫妻は1931年1月17日にハワイに移り、1933年10月12日からホノルル在住の宣教師となります。1931年にモーア夫妻は休暇帰国を終えて日本に向かうベンダー夫妻とホノルルで出会い日本宣教への復帰を考え始めます。そして1937年には再度日本を訪問し浜松のアグネス・ジュルゲンセンの活動を支援しようとしますが、この試みは短期間で終わり彼らはハワイに戻ります。モーア夫妻はハワイに1941年まで滞在し、その後カリフォルニア州ロングビーチに移り、1951年には宣教活動から引退します。そしてバーニーは1956年6月27日、メアリーは1963年にカリフォルニア州サンベルナルディーノで亡くなります。
参考文献
Barney S. Moore, The Japanese Disaster or The World’s Greatest Earthquake (Giles Publishing Company, 1924)
Jessie Wengler, Letters from Japan (1952)
Mark Hutchison, “The Text Repeats itself: Of Earthquakes and Waifs and Strays in 1920s Australian Pentecostalism”. (https://www.ac.edu.au/research/apsc/newsletter/)
Olive Gray Haney, “Frank and May Gray,” in Mary H. Wallace, complied, Profiles of Pentecostal Missionaries (Hazelwood, MO: Ward Aflame Press,1986), 87-112.
レオナード・W・クート『不可能は挑戦となる』(日本ペンテコステ教団出版委員会、1981), 132-179.
秋本幸二「結城キリスト教会の源流と支流をたどる」『創立70周年記念誌』(結城基督教会、2016), 109-130.
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