この聖句は、私が召命を受けた時に与えられた御言であり、私の伝道生涯を貫く御言でもあります。
さて、これから、私の伝道生涯50年の略史を述べてまいります。
第一期は、教会信徒時代(1961年6月~1968年3月)
第二期は、中央聖書神学校時代(1969年4月~1972年3月)
第三期は、教団伝道隊時代(1972年4月~1972年11月)
第四期は、堺キリスト教会時代(1972年11月~1993年3月)
第五期は、仙台神召キリスト教会時代(1993年4月~2023年3月)
月刊アッセンブリーNEWS連動
– 引退に寄せて-
川上 良明 師
仙台神召基督教会
2023年3月31日に引退された先生方による手記です。この記事は「月刊アッセンブリーNEWS 2022年6月号・引退レポート」に連動しています。ぜひそちらもご覧ください。
私がはじめて教会に導かれたのは、友人から「英語本をタダでもらえるよ」との言葉で教会に出席したことからでした。F・バイヤース宣教師からギデオンの聖書をいただき、初めて開いた箇所が「罪の支払う報酬は死である」との箇所でした。初めて「罪」を意識し、教会礼拝に導かれて悔い改め、高校三年生のときに洗礼を受けました。さらに大学一年生のときに受霊、聖霊に燃やされて大学内での個人伝道、同好会などを結成するに至りました。ある超教派の集会の帰り、ホームで電車を待っていた時、酔っぱらった一人の中年男性が突然、線路に落下、駅員を捜したがおらず、電車が近づいていたので、線路に飛び降り、この男性を持ち揚げました。その時、前掲の御言葉が、私の心に電光のように走り、「主イエス・キリストを知らない人々は、丁度、この泥酔した男性のように、永遠の滅びに向かっている。今、全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」とのみ声を聞きました。大学の学びを三年で終了し、神学校に献身する準備に入りました。両親は未信者であったため、献身について理解できず、神学校へは、母教会の全面的サポートを受けて入学しました。長男であった私は、両親を神さまに委ね、福音宣教のために祈りと学びを続けていきました。後日、両親は仙台で同居することとなり、東日本大震災の時に信仰を告白、洗礼を受けることとなりました。主の約束は真実です。
伝道者となるための必要な訓練と学びを受けることができました。それは聖書の学びだけでなく、寮生活を通して主に従うこと、教会派遣を通して牧会伝道や個人伝道の実践を学びました。特に海外宣教祈祷部に入っていたことで、復帰前の沖縄に夏期派遣されました。その時の経験は、伝道者の姿勢を学ぶ時となりました。もう一つの思いでは、毎年、教団本部で行われる全国聖会に神学生は全員、奉仕に当たります。私は作業部員でしたので聖会参加者の朝食を準備します。早朝からご飯炊きをしますが、私は準備中に誤って熱湯を下半身被ってしまい、その熱湯が長靴に流れ込み、両足に重度の火傷を負ってしまいました。このことが皆に知れ、病院に行くように言われましたが、ふと私の心に「自分は神様のことを学ぶため神学校に入学させていただいたのだ。この火傷を通して神様の癒しを求めるチャンスだよ」と大変、危険な判断をしてしまいました。両脚が水膨れでパンパンに腫れても自分流の手当てをしながら祈りました。ある先生は、この火傷を見て「川上くん、病院に行きなさい。信仰は信仰、病気は病気だから」と勧めて下さいましたが、信仰によって癒していただくことを決断しました。数日後から腫れと痛みが消え、火傷の跡形も残らず、新しい足毛が生えてきました。この時の経験は私の伝道生涯に大きな影響を与えてくれました。
神学生時代に導かれた家内と卒業後、一緒に伝道する約束をしましたが、教団の規定で卒業後一年間は教団伝道隊で奉仕をするようにと辞令を受けました。東北、四国を中心に教会・伝道所の応援をさせて頂きました。
家内が卒業後、先に堺伝道所に遣わされました。ここは、かつて粉浜教会の伝道所として家内の両親が住んでいたところです。そして11月には堺伝道所に辞令が出、家内の両親と共に教会形成がはじまりました。当時は、日曜学校の子供たちが多く集まり、後の堺キリスト教会の中心となるメンバーがここから生まれました。ある時、新しい求道者が伝道所に来たときのことです。その人が「ここは教会ではない、普通の家や、映画で見る教会とは違う」と言われとき、会堂建設のビジョンを神様は与えてくださいました。会堂用地を購入する所からはじまり、会堂建設へと本当に、きつい大変な堺教会時代でした。
仙台教会は、歴史ある教会で戦後、カーロ―宣教師によって開拓された教会です。私たちで七代目の牧師となりました。さて仙台教会には川崎伝道所があります。天理教からキリスト教に改宗した信徒が仙台教会に出席していましたが、関西から来た牧師と言うことでお断りがありました。そんな時、川崎伝道所の子供が大怪我をして私たちに祈りの要請がありました。草刈り機で子供の側頭部を裂傷,生死を分ける怪我でした。仙台教会で特別祈祷が行われ、奇跡的に命が助かりました。この出来事で川崎の信徒は信仰復興され、その年の夏には27名の集団洗礼式が行われました。また日曜礼拝・祈祷会などが再開され、仙台教会にも大きな影響を与えました。もう一つの大きなビジョンは会堂の建て替えでした。1955年に建てられた旧会堂は傷みがひどく、新会堂建築のために祈りが続けられ、赴任三年後に献堂することが出来ました。
いま振り返って見ると、東日本大震災の前に献堂できたことは、神様の不思議な導きであったと覚え、主に感謝いたします。来仙して30年間、多くの人に支えられて奉仕が出来たことを心から感謝いたします。
ぜひ、こちらの手記も併せてお読みください
感想・コメントはこちらに♪