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聖霊のバプテスマの恵み(6)三箇豊実

 

郡山キリスト教会
三箇豊実

聖霊のバプテスマの力〜15歳の6月から

そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。

(コリント人への手紙 第一 2章4~5節)
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

聖霊のバプテスマの力〜15歳の6月から

 牧師家庭に生まれ、12歳で洗礼を受けた。

 その後パンクロックにハマり、受験を目指すが、将来に対する明確な目標がない友人たちや、お小遣いもままならない牧師家庭という環境に嫌気がさした。中学3年で「神様。もういいです。さようなら」という祈りをした私は、夏のYouthキャンプにイヤイヤ参加していた。二日目の夜の集会で「こんな私を愛していると言ってくださる神様にさよならしたなんて! こんなバカな自分にこそイエス様が必要だ!」と再度信仰の決心をした。

 高校に入学した5月の上旬、面識のない上級生20人程に呼び出されカミソリと言葉のリンチにあう。でも前の晩にダビデとゴリアテの場面を示されていたことを思い出し、彼らと話しをして乗り越えた。

 同じ5月、鈴鹿で全国聖会が開催された。聖霊のパプテスマの体験や恵の証しを、戻ってきた何人もの大人たちが証しをした。「参加したかったな…」。高知県から鈴鹿までは経済的にも牧師家族の全員参加は難しかったのだろう。聖会後の礼拝でも聖霊待望会が始まった。「私も聖霊のバプテスマが欲しいけど、今も礼拝に参加している友人たちは決定的な決心に至っていない。彼らがまずイエス様を信じる決心を!」と思い、6月6日の礼拝で友人2人を促して、共に招きに応じて講壇の前にでた。

 その瞬間、頭の上から押しつぶされるような力が私を覆い、その場に崩れ落ちて、言葉からはあの両親や教会のメンバーたちが祈っている異言が溢れて出てくる。どの位の時間だったのかが分からないが、唇が捉えられ顔を床につけて言葉が溢れて止まらなかった。感じたことのない大きな大きな平安で包まれ、会堂の床にうつ伏せになったまま偉大な天の父の存在を初めて感じた。

 翌日「自分がどうなったのか?」と驚いた。登校時、自転車で感じる風が、四万十川の赤い鉄橋を渡るときの水面の煌めきが、堤防に咲く小さな雑草や花が、神を賛美して輝いている!「何なんだ! なんて神様は素晴らしいお方で、偉大なんだ!」と心が震える。

 クラスの友達が愛おしく感じる。学校のトイレで異言が溢れてくる。私を呼び出した上級生たちとすれ違う時にも笑顔になる。不思議なことに3年生たち数名が私を可愛がるようになる?!(購買でパンとか買ってくれる)。

 あの15歳の6月から、聖霊は私の心に語り続け、矯正し、励まし、私の考えを遥かに上回る思いもよらないことを教えてくださる。私が聖霊の促しや語りかけに従順に従うことを喜んでくださる。異言を伴う聖霊のバプテスマは私を造り変え続け、父なる神様との個人的な交わりの場へと私を導き、「わたしの証人となれ!」と訓練し励まし続けておられる。

 私は自分の力や努力や能力でキリストの証人には、決してなれない。聖霊が異言を持って祈らせ、異言を持って捧げさせてくださる礼拝を通して、私は「証人」としての訓練中である。

この証は、書籍『聖霊のバプテスマの恵み』との連動企画です。
書籍はAG福音出版でお買い求めいただけます。

※教会名は、掲載時点のものです。

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