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メディカルカフェの働き(3)

メディカルカフェの働き(3)

笹子 三津留・真由子 夫妻

 前回、カフェに来られる患者さんのことを書かせていただきましたが、今回はご家族・ご遺族のことについて少しお話ししたいと思います。

病院の中では皆それなりの夫婦や家族を取り繕います。たとえ関係が悪くても、医療者の前では仮面夫婦を装います。

夫婦関係の不満や愚痴をぽろっとこぼすことはあっても、忙しい医師や看護師に家族内の悩みを真剣に相談したりはしませんし、治療に関わるような大きな問題でない限りこちらも介入し難いものです。もちろん、がんで絆が強まるご夫婦もたくさんおられますが、カフェに参加する方のお話を聞いていると、病院の中で感じていた以上に多くの患者さんとご家族が、夫婦や家族の関係で悩みを抱えておられることを知りました。

「こんなにしてあげているのに…」「もっと心配して欲しい」「ちっとも私の気持ちを理解してくれない」「優しく出来ない自分を嫌になる」など、カフェではパートナーに対する様々な思いがあふれます。

ただの愚痴のように感じますが、健康な時には我慢出来たこと、やり過ごせた問題も、がんという病気によって心に余裕がなくなると、相手への甘えや嫌悪感が顕著になるようです。そして実際の生活の中に暗い影を落とし、更に辛い闘病生活に陥ります。

こじれてしまった関係は時にがんの治療以上に治癒が難しく、いつの間にか、私たちも医師・看護師ではなく夫婦カウンセラーのような立場でお話しを聞き、相談者と一緒に頭を抱え、それについて祈ることもあります。しかし、それをきっかけに救いへと導かれた方も居り、神様のなさることは素晴らしくまた不思議です。

がん患者さんを支えるご家族は、患者さんと同様、生活が一変します。

「優しくしなければ」「私が弱音を吐いてはいけない」という支える立場にあるプレッシャーや、家庭内での役割の変化に対する困難さ、もっと早く気付いていればと自分を責め、辛そうな患者さんを目の前に無力感を覚え、リフレッシュすることには罪悪感を持ってしまい、時に患者さん以上に心身を疲弊しておられます。何より、大切な人が近い将来居なくなるかも知れないという恐れ・予期悲嘆を抱えながら過ごす毎日に平安はありません。

患者さんを支えるご家族もケアされる必要があり、カフェは同じ立場にある参加者同士がお互いをケアし合うピアサポートの場となっています。

私たちも聖霊様の働かれる中でなされる参加者のやり取りを微笑ましく見せていただいています。


ある男性は、がんは完治していたのですが、カフェに来られたときの最大の悩みは妻との会話がないことでした。「そんなことで・・・?」と周りは思いますが本人にとっては鬱になりそうなほど深刻な問題でした。彼は妻のことを「敵」と呼んでいました。「敵はこんな風に攻撃してくる」とか「敵の思うつぼにならないように警戒している」とか、とてもその家庭に平和は感じられませんでした。まさにサタンの完全な支配下にあることが覗えました。

夫婦の愚痴や不満は家で吐き出すと状況は悪化します。でもカフェでは共感して聞いてくれる人がいます。妻の言葉は素直に聞けなくても、第三者のアドバイスや感想は耳に入るようで、カフェで同席する関西のおばちゃんたちに、「そんな言い方したらんあかんわー」とか「こんなふうに言うたらええねん。」と言われ、アドバイス通り言われたことを家庭で実践するうちに関係が少しづつ改善していったそうです。

また、活動を続けるなかで、通っておられた方がやがて終末期を経て亡くなり、残されたご家族がご遺族としてカフェに参加されるようになることがあります。

私たちは、病院で医師や看護師として、がん患者さんやそのご家族と関わる経験は積んできましたが、ご遺族と関わることは滅多に無く、メディカルカフェを始めて最も難しさを感じたことはご遺族との関わり、グリーフケアでした。

特に男性は妻を失ったとたん、深い悲しみと同時に日常生活が立ちゆかなくなるという現実に直面します。

毎日の食事や家事もそうですが、季節が変わると着る物を捜すのに苦労をし、子供達や親戚とのつきあいにおいても、奥様の果たされていた役割に否応なく気付かされます。また、仕事に忙しく病気に気付いてあげられなかった事を悔い、自分は無力で何もしてあげられなかったと嘆くのは男性の方に多いように思います。

そんな状態でも日本人男性は人前で弱さや涙を見せられず、ひとり家に引きこもり、感情を押し殺して働いておられる方が多いようです。

私たちのカフェには、そのような妻を亡くした男性が多く集います。

男性同士、互いに感情を吐露し合い、「ここでしか泣けない」とはばかることなく涙を流し、慰め合っておられます。

生活の悩みや困り事を相談したり、超簡単なレシピや、片付けを楽にする家事の工夫などの情報交換をして盛り上がる様子はとても微笑ましい交わりです。そして、命日を覚えてその月が近付くと「寂しくなる季節ですね」とお互いに気遣い合う、優しさのあふれる場となっています。

最愛の奥様を亡くして悲しみに暮れ、毎日泣き続けていた方も5年が経ち、ここでの交流を通して少しずつ笑顔が見られるようになりました。

患者会などは、普通は圧倒的に女性が多いのですが、私たちのカフェは、半分以上が男性、時には8割男性という珍しい集まりとなっており、カフェが終わった後も教会に残って話しをされているのはたいてい男性達です。帰り道に一緒に夕食を食べたりメールの交換をしたりと、個人的な関係も深まっているようです。

このようなご遺族の様子も病院の中では知ることのできなかったことのひとつですし、私たちが直接関わらなくても、神様がその場に居られる方々を愛し、人との関わりを通して慰めてくださっていることを感じています。

カフェの働きを通して、神様からも人からも様々なことを教えられます。

あるご遺族の書かれた文章が目に留まりました。

「辛くてたまらないとき、

流れるままに涙を流すと良い 

何を言っても どんな感情も、 そのままに受け止めてくれる誰かがそこに居てくれると もっと良い

圧倒的な感情を表現し それをともかく 受け止めてもらえると

圧倒的だった感情は 少しだけ 自分の手の中に持ちやすくなる」

愛する家族を亡くした遺族は、喪失感や罪悪感や後悔など様々な感情を抱えて生きていかなければなりません。

大切な人を失った悲しみは無くなることはありません。

悲しみは愛していたことや大切な存在であることの証しであり、大切な記憶と共にあるものです。

悲しい気持ちであっても、誰かを愛おしく思う気持ちは幸せなことでもある、と聞きました。

「そんなに泣いてると、天国で悲しんでるよ」「少し元気になられたようですね」「辛さがわかるよ」、何気ない周囲の言葉がご遺族の悲しみを更に深め、人の言葉に傷付けられたくないと心を閉ざして孤立が深まります。

クリスチャンであっても、クリスチャンだからこそ、いつまでも悲しんでいるのは不信仰なことと思い、悲しみを吐露出来ずに抱え込み過ごす方もおられました。

「悲しむ者と共に悲しみなさい」と主は言われました。悲しむ者がしっかりと悲しめる場が必要です。

悲しむ方の重荷を負って下さるのは神様です。

私たちが出来ることは、ただ聴いて共に悲しむことだけです。

おひとりおひとりに聖霊様が働いて下さるように、感情を少しだけでも吐き出して持ちやすくなるように・・・と祈りつつこれからも聴かせていただきたいと思います。

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