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聖霊の炎を掲げて①

命を尽くして

鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

日本で最初に天に召されたペンテコステ派の宣教師は誰でしょうか?
それは米国アッセンブリー教団宣教師のエスター・ジュルゲンセンでした。

エスター・ジュルゲンセン
【Esther Juergensen】
(1898-1928年)

チャールズ・F・ケルチュナー家族(1906年頃)
【前列右から】二人目がエスター

 エスターは1899年3月30日に米国ペンシルバニア州フィラデルフィアに生まれ幼少期をオハイオ州クリーブランドで過ごします。エスターの父チャールズ・F・ケルチナーは単立のペンテコステ派の牧師で、後にペンテコステ派の宣教師となって来日するカール・F・ジュルゲンセンはケルチナーの働きを通して次女のアグネスは癒しを体験します。エスターは13歳で父によって洗礼を授けられ、17歳で献身を決意し18歳でニュージャージー州ノースバーゲンのビュラハイツ宣教師訓練学校に入学します。

 カール・F・ジュルゲンセンは1913年8月に長男ジョンを米国に残し娘のマリアとアグネスを伴なって来日します。アメリカに一人残されたジョンはニューヨーク州で電気技師になりますが、後に宣教師の召しを受けてロチェスターのイーラム聖書学校、そしてビュラハイツ宣教師訓練学校に学びます。そしてそこで幼馴染のエスター・ケルチナーと再会します。二人は聖書学校を卒業すると1918年5月21日に結婚し5月25日には米国アッセンブリー教団からの按手礼を受け、日本に宣教師として赴く準備をします。そして1919年11月3日に出航し、11月20日に横浜港に入港し家族の皆に喜びの中に迎え入れられます。彼らは荷を解くと直ちにカールたちの宣教を助け、特に伝道用トラクトの出版と日本人伝道者の養成に力を入れます。1919年にジョン夫妻のほか数人の若い米国アッセンブリー教団の宣教師たちが来日したことによって、1920年には米国アッセンブリー教団日本支部が設立され、日本ペンテコステ教会が発足します。

富士前教会前で路傍伝道出発前の記念写真(1920年頃)
【左から】不詳、ジョン、不詳、エスター、不詳、
グレイス、不詳、不詳、マリア、カール、アグネス

 ジョン夫妻には1920年4月24日に長女グレイス・マリーが誕生します。1922年5月に父母と妹たちが休暇帰国しますが、その留守をジョン夫妻が預かり富士前の伝道所の責任を持ちます。後に日本アッセンブリー教団の初代総理となる弓山喜代馬が1922年末にジョン夫妻の元を訪れその後他の数名の日本人と共に伝道者訓練を受け、1923年初頭からジョン夫妻の働きを助けるようになります。1924年4月にカールたちが再来日すると、彼らは富士前に加えて滝野川と赤羽、そして川口で新たに伝道を開始します。ジョンたちは主に赤羽と川口で伝道し彼らの働きを並木美麿夫妻が助け、カールたちは富士前と滝野川で伝道しそれを弓山喜代馬と谷力が助けます。

 ジョン夫妻は1927年2月13日にグレイスを伴って休暇帰国をします。帰国中に彼らは次の日本での宣教地について祈ります。当時日本のペンテコステ派の宣教は関東(東京・横浜)と関西(神戸、京都、大阪)に集中しており、彼らは次の宣教地はその中間にある名古屋と決めます。彼らは1928年5月9日に再び日本へ向かい、しばらく東京に滞在した後に家族と別れ、3名の日本人助手を伴って名古屋での伝道を開始します。天幕伝道から始めて半年後には二つの伝道所を開設します。しかしそんな彼らに大きな不幸が襲います。エスターが突然神経衰弱に襲われ亡くなってしまうのです。

家族写真(1928年ごろ)
【左から】エスター、グレイス、ジョン

 米国領事館によるエスターの死亡報告書から垣間見えるジョン夫妻の名古屋での生活は実に厳しいものです。彼らは名古屋の最も貧しい地区の小さな家に住みかろうじて生計を立てていました。困窮する中にあっても、エスターは家事や天幕伝道でのメッセージをこなし、なおかつ伝道トラクトを書いていました。しかし彼女は11月24日に神経衰弱に落ちいり、ジョンは彼女を近所の小さな病院に入院させますが、そこでは適当な治療を受けることができず愛知医科大学病院に転院します。しかし転院の甲斐もなくエスターは12月6日に29歳の若さで夫のジョンと娘のグレイスを残して天に召されます。

ジョン一家と並木美麿夫妻(1928年頃)
【左から】ジョン、並木、グレイス、エスター、並木夫人

 義理の妹のマリア・ジュルゲンセンがシカゴのラターレイン誌にエスターの死亡記事を寄稿しています。それによってエスターの生前の日常の様子がわかります。エスターの日本での8年間の生活は日本の人々の仕えるものであり、まさに自己犠牲の生活でした。そんな彼女は日本の人々によって尊敬され愛されていました。彼女は毎朝5時に起き、家事をこなし、日中は忙しく働き、そして真夜中まで聖書の学びに熱心でした。どのような困難に直面しても、神様の導きとお守りを信じて決して諦めませんでした。名古屋で新しく伝道所と借りた家があまりに汚かったのですが、彼女は身を粉にして掃除をし、そこが見違えるように綺麗になったのは彼女が亡くなる数週間前のことでした。エスターはジョンにとってかけがえのないパートナーでした。東京にいる時に日本人同労者たちに毎朝聖書を教えるのはエスターでした。ジョンは彼女がいたからこそわずか半年で名古屋に二つの伝道所が開設できたのです。

 失意のジョンは娘のグレイスを伴い一時東京の家族の元に身を寄せます。そして1929年9月25日に同僚の米国アッセンブリー教団宣教師であったネティ・グライムズと再婚し名古屋での働きを再開します。

ジョンとネティの結婚記念写真(1929年)
【前列左から】アグネス、ジョン、ネティ、マリア
【後列左から】ベンダー、ベンダー夫人、中山万吉、カール、谷力、
フレデリケ、メアリー・ラムゼイ、バイヤス、バース、バース夫人

二人には後にルース・アグネス、バーニス・フェイス、グラディス・ナオミ、ロザリー・メーの四人の娘が与えられます。しかしグラディスが1933年12月25日に5ヶ月で、バーニスが1934年4月2日にはしかから来る肺炎と中耳炎で2歳2ヶ月で亡くなってしまいます。そして糖尿病を患っていたジョンが肺炎となり2ヶ月の闘病後に1938年11月11日に脳卒中で亡くなります。アグネスは三人の娘たちを連れ1939年6月に帰国しキャンサス州で牧会します。ネティは戦後1950年5月に再来日し、名古屋での宣教を再開し天塚キリスト教会を開拓します。ネティは1963年に帰国します。帰国後カンザス州で牧師として働いた後に引退し1991年3月10日亡くなります。

軽井沢のジュルゲンセン一家の家族写真(1933年夏)
【前列左から】カールとルース、フレデリケとバーニス
【後列左から】マリア、ジョン、グレイス、ネティとグラディス、アグネス

 名古屋で亡くなったジュルゲンセン家の四人の墓所は名古屋市立八事霊園にあります。

名古屋市立八事霊園のジュルゲンセン一家のお墓二基
前方左の小さい墓石ジョンの墓
【TILL HE COMESと刻まれている】
前方右側の大きい墓石がエスター、グラディス、バーニスのお墓
【A Waiting the Resurrection Morningと刻まれている】

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執筆者紹介

鈴木 正和

水場コミュニティチャーチ 牧師
中央聖書神学校講師

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