「福祉について」
〜現場での経験から③
居場所がある
様々な教会の礼拝に伺う時、障がいを持たれた方々が集われているとなんとなくホッとします。ああ、ここに居場所があるんだ、受け入れられているのだと感じるからかもしれません。
ある時横浜で伝道されている他教団の宣教師からお電話をいただきました。「手足のご不自由なお母さまと知的障がいのあるお子様の親子が、イエス様を信じて救われました。しかし自分が母国に帰ることになり、この親子を委ねる教会を探しています」とのことでした。場所を伺うと紹介できる教会がありましたので、「ご紹介します」とお伝えすると、「あなたの教会に委ねたい」と言われます。一度もお会いしたことのない宣教師でしたので「なぜですか、近い方がいいと思います」とお伝えすると「あなたの教会に弱視の方がおられて、その方への対応をある方から伺い、そのような教会にお任せしたい」とのことでした。
この弱視の方は、30代になられてから糖尿病のために目が悪くなり始めた時、私どもの教会に来られました。初めは不自由ながらも見えていたのですが、だんだんと見えなくなり、何度も手術を受けられたのですが、どんどん視力は低下していかれました。この兄弟に、毎週の説教箇所を大きく印刷したものを用意したり、タブレットを使うようになられてからは映し出すパワーポイントをタブレットで見られるようにして、少しでもみんなと一緒に礼拝に参加できるように工夫していました。そんな彼への対応をどこかで聞かれたようです。
必要に応える
必要に応える、そのことを仕事の中で学んできました。
父とともに療護施設を建てた時、ディサービスに係る備品購入を担当しました。すべての必要な物品を予算内で購入する初めての大役です。陶芸窯や七宝焼きの材料などでしたが、私が最も時間をかけたのがドラムセットやアコースティックギター、キーボードなどの楽器関係の購入でした。重度重複障がい者施設で1年の研修期間を過ごしましたが、そこではよく利用者の方々に楽器を触ってもらっていました。ピアノの前に立つと必ずラの音だけを鳴らし続けるK君や、自傷行為のあるA君にスティックを持たせると上手にドラムを叩いてくれたことを思い出し、きっと役に立つと考えたからです。
楽器を買いそろえたところに来た施設長が言った一言は「利用者は楽器を弾けないのに、どうして必要なんだ!」でした。
なるほど、通常の施設ではこれらのものは上手にできないから、なくていいものだったのだと初めて知りましたが、福祉を学校で学んだこともなければ資格も免許もない私にとっては現場での学びが全てでしたので「きっといつか役に立ちます」と答えるのが精一杯でした。それから、利用者の方々が「人生で初めて触った」と楽器を楽しそうに弾く姿を何度も見ることができました。決して上手にはできませんし、音楽ではなく騒音でしかない時もありますが、その方の人生の中の「やったことのないものリスト」から音楽は除外されていきました。そして「やってみたことのリスト」に音楽が加えられたのです。
年に一度、地域の方々にも楽しんでいただけるイベントをしたい、そう考えて秋に屋台を出すイベントを始めました。みんなで制作した作品を販売する良い機会です。でも地域の方々に来ていただくためには目玉が必要。そこで名の知れた芸能人に来ていただき、歌ってもらうことになりました。施設長の兄(イベント興行会社社長)にお願いし、楽しいイベントとなりました。そんな時にわずかな滞在時間でしたが来てくれたのが施設長の実兄オヒョイさん。焼きそばを焼いていた私のところに顔を出してくださり数年ぶりの再会でした。屋台やイベントが似合わないオヒョイさんでしたから、早々に引き揚げてしまいましたが、利用者の方や地域の方には良い刺激の時となりました。
魂のお世話
あるとき車いすを押しながら移動する度ごとに、心の中を巡る思いがありました。『人の体のお世話ではなく、魂のお世話をしたい』。職場に何の不満もなく、むしろ多くのやりがいを感じながら、勤務時間などを考えることなく早朝から夜遅くまで入り浸っていました。タイムカードはなく、出勤簿に印を押すだけで、残業の計算をしたこともありませんでした。
この職場で、私の代わりに車いすを押してくれる人はたくさんいる。ならば私は魂のお世話をしたい、そのように考え、神学校に入ることを決断しました。神学校入学前に、1年間研修をさせていただいた施設にご挨拶に伺いました。研修を受けさせていただいたのに、数年で現場を離れることを謝罪し、これからの計画をお伝えすると、『私たちは障がいをもった子どもたちの居場所が必要と思い、日本で最初の重度障がい者のディケア(通所施設)を始めました。そしてその子たちが大きくなりはじめ、ナイトケアの必要を感じ始めています。だからこれから入所施設を作っていきます。でもどれだけ環境を整えても、子どもや家族の心の領域をどうすることもできないと感じているのです。私たちのできない魂の領域をあなたが頑張りなさい!』と励ましてくださいました。
祈りと教会
「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている」
哀歌 2:19
人の必要に気がつくこと、これが施設で私が考え続けてきたことでした。言葉が出ない、表現ができない、そんな方々の必要を感じ取り、必要に応えたいと願ってきました。今現在、そのような環境の中にある方々に心からのエールを送ります! あなたが寄り添うことの中で支えられている方々が多くおられることと思います。仕事としてではなく、家族のために介護をしなければならない方々もおられることでしょう。自分の時間が削られて、痛みを覚えておられる方もおられるかもしれません。
私たちにとって人の必要を知り、それに応えること、それ自体が祈りです。
同時に、福祉に携わりながら感じることは、魂の必要に応えることができる唯一の場所が教会であるということです。
それぞれの置かれた場所で、主に仕えるように、誰かに寄り添っておられる皆様の上に主の豊かな祝福がありますように。
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