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聖霊の炎を掲げて②

最初の女子聖書学校

鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

最初のペンテコステ派の女子神学院は何と言いますか。それは誰が始めましたか。
それはベレア聖書女子学院で、ハリエット・デスリッジによって始められました。

ベレア女子聖書学院(Berea Women’s Bible School)
ハリエット・デスリッジ(Harriett Dithridge)
(1880-1969年)

 ベレア聖書女子学院はハリエット・デスリッジによって1926年に立川で始められます。デスリッジは1910年に米国バプテスト海外宣教協会によって宣教師として東京小石川の東京保姆養成学校(幼稚園教員の養成所)の校長となるために派遣されました。しかし1917年秋に神経衰弱に陥り1920年11月には帰国を余儀なくされます。彼女は西海岸のワシントン州シアトルで荷を下ろすのですが、1922年秋にカリフォルニア州オークランド市在住の妹を訪問中に妹夫婦の通うベテル・チャペルの祈祷会で癒しを体験します。その後聖霊のバプテスマをシアトルのW. H. オフィラーのベテル・テンプルに通いながら求め1923年4月に体験します。

 当時デスリッジはシアトルの日本人バプテスト教会幼稚園の指導者でしたが、聖霊体験の故にバプテスト教会を離脱することを余儀なくされ、1923年7月には故郷のニューヨーク市に戻り、東海岸のペンテコステ派の牙城であったグラッド・タイディング・タバナクルに通い始めます。そして1924年3月には単身米国アッセンブリー教団の宣教師として再来日を果たします。

 再来日したデスリッジは最初に八王子のジェシー・ウェングラーの元に行き彼女の働きを助けます。そして1925年4月には保姆養成学校の教え子であった山路寿と菅本峰を呼び寄せて当時まだキリスト教会のなかった立川で立川ペンテコステ教会として新しい活動を始めます。彼女が重点的に行ったのが幼稚園伝道と癒しの家の働きでした。また数年前に東京でジョン・ジュルゲンセンが若い男性のための小さな聖書塾を開いていましたが、デスリッジは若い女性の特性にあった聖書学校を開く必要があると考え1926年春に女性のための聖書学校を始めます。この働きが1926年夏の米国アッセンブリー教団宣教師会議に置いて米国アッセンブリー教団の正式な聖書学校として認可され、9月には2年課程の聖書学校として13名の女子神学生と共に開校します。

 開校時の神学生のうち8人が寄宿生、1人が通学生でしたが、病気持ちであった4人は癒しの家に住んでいました。神学生の背景は、それまでに聖書を読んだことのない人、お金のない人、身体に障害がある人、クリスチャンになり父母から勘当された人、女郎屋に売られた経験のある人など様々で、他の聖書学校に入学するのは無理だろうと思われる人たちもいました。デスリッジにとって聖書学校を運営するための経済的困難もさることながら、異なる教派的背景を持つ神学生たちにペンテコステ信仰に目を開かせることに心を配るのが大変でした。山路寿が聖書学校の主任教師として働きを担いました。聖書学校の一日の日課は、午前は聖書の学び、午後は伝道、そして夕方は福音集会でした。

 このデスリッジの働きを英国人のエドワード・ヘアやアリス・ウーリー、米国人のメアリー・ラムゼイが助けた時期もありました。ラムゼイは朝鮮での宣教を志し1927年に来日しデスリッジの働きを助けながら日本語を学んでいました。ラムゼイはウェングラーに背中を押されて1930年に京城に渡り、後の韓国アッセンブリー教団の礎となる朝鮮五旬節教団を設立します。

 立川での女子聖書学校の働きは順調でしたが、1929年8月末の軽井沢での米国アッセンブリー教団の宣教師会議で、新来の宣教師たちによって新たに男女共学の聖書学校の設立が提案され、デスリッジの反対を押し切ってベレア聖書女子学院を閉じ新しく東京に男女共学の聖書学校を開設することが決議されます。この決定はデスリッジにとってとても不本意なもので、この決定は米国アッセンブリー教団本来の各個教会の独自性を認めないものであると考えたデスリッジは1929年秋に米国アッセンブリー教団を離脱し、その後は独立宣教師として今まで通り立川での教会や聖書学校の働きを継続します。この会議で決議された東京での男女共学の聖書学校の開設はジョン・ジュルゲンセンが名古屋に移転したこともあり、1931年1月の弓山喜代馬による滝野川聖霊神学院の設立まで実現しませんでした。

聖書学校のための祈りの奨励
イザヤ書42章4節、イザヤ書66章19節

 デスリッジは戦雲急を告げる中でも帰国を望まず、1941年12月の戦争勃発以降も立川に留まり働きを続けます。1942年夏に120人の他の外国人女性たちと収容所に送られ、1943年秋には捕虜交換船でアメリカに送還されます。帰国後はモンタナ州の日系人収容施設で働き1947年夏には再来日して立川での活動を再開します。そして1965年77歳で日本での55年に亘る宣教活動を終え帰国します。

 ベレア聖書女子学院の記録はほとんど残っていません。今知り得ることは、1928年の第一期卒業生が坂本キミと大地兼香、1929年の第二期卒業生は長島鶴、武田かね、宮崎美智子、清水勝代、鈴木シナヨで、1929年には5人の新入生がいて神学生の総数15人であったことだけです。卒業生の坂本きみ、大地兼香、長島鶴の3人は戦後日本アッセンブリー教団の創立メンバーとなりました。宮崎美智子が戦前に始めた働きを戦後になって山路寿が助け、この働きが八坂伝道所(現在の和泉神愛キリスト教会)となります。

『後の雨』誌に見るベレア女子聖書学院の記事(1929年7月5日発行)

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執筆者紹介

鈴木 正和

水場コミュニティチャーチ 牧師
中央聖書神学校講師

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