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聖霊の炎を掲げて⑥

韓国アッセンブリー教団の礎を築いた人たち

鈴木正和 水場コミュニティーチャーチ牧師

 韓国アッセンブリー教団の前身である朝鮮五旬節教団の礎を築いたのは五人の外国人婦人宣教師と三人の朝鮮人伝道師だったと言われます。婦人宣教師のメアリー・ラムゼイは米国ニューヨーク州のロチェスター聖書学院・イーラム・ミッション所属、グラディス・パーソンズとアイフリーダ・オフステッドは米国ミネソタ州のスカンジナビア系ペンテコステ教会のダルス・ゴスペル・タバナクル所属、そしてエルシー・メレディスとリィリアン・ベッシーは英国アッセンブリー教団所属でした。彼らと共に働いたのが朴聖山(パク・ソンサン)、許弘ホ・ホン)、そして裵富根(ベー・ブグン)です。


このうちのメアリー・ラムゼイ、朴聖山、裵富根の三人は朝鮮で活動する前に日本で活動していました。このコラムではこの三人を取り上げます。

メアリー・ラムゼイ(1884-1969)

メアリー・ラムゼイ

 メアリー・ラムゼイは1884年に米国ニューヨーク州の熱心なメソジスト派の家庭に生まれます。母方の家族には聖職者も多く、音楽に長けたラムゼーは1905年に21歳でワシントン特別区にあったメソジスト派の女子聖書学校に入学し訓練を受けます。1907年に卒業するとすぐにメソジスト派の女性執事に任命されます。1911年にはバプテスト派に転籍しバプテスト教会の牧師となります。その後再びメソジスト派の教会で働いた後に1919年にペンテコステ派のロチェスター聖書学校に入学し1921年に卒業します。在学中に朝鮮への宣教の召しを受けたラムゼイはカリフォルニアに移住し朝鮮に赴く準備をします。

 1927年に来日したラムゼイは米国アッセンブリー教団の宣教師であった立川のハリエット・デスリッジの元に寄寓します。ラムゼイはデスリッジの働きを助けながら3年ほど日本語を学びますが、この間に他の米国アッセンブリー教団の宣教師や同労者の日本人伝道者たちと交流します。1928年8月の米国アッセンブリー教団日本支部の総会に参加していますし、1929年9月のジョン・ジュルゲンセンとネティ・グライムズとの結婚式にも参列しています。

米国アッセンブリー教団日本支部の総会【1928年夏】
後列左から⼆⼈⽬がメアリー・ラムゼイ
ジョン・ジュルゲンセンとネティ・グライムズの結婚式【1929年9⽉】
後列右から四⼈⽬がメアリー・ラムゼイ

 日本での生活に馴染んだラムゼイは朝鮮に渡らず日本に留まってデスリッジの働きを継続して助けることを考え始めるのですが、デスリッジはラムゼイが初志を貫徹するように彼女の背中を押し、ラムゼイは1930年に京城へと赴きます。

朴聖山[朴珍煥](1908-1956)

朴聖山(パク・ソンサン) 朴珍煥(パク・ジンファン)

朴聖山

 朴珍煥は1908年に日本に併合される前の大韓帝国の慶尚北道で長老派の熱心なクリスチャン家庭に生まれ、長老派のミッションスクールで学びます。朴は早くから左翼思想を持ち、17歳で結婚するものの18歳で学業を続けるために日本に来ます。しかし日本でも苦学し、結局学業を諦めて社会主義活動に没頭し新聞記者になります。

 1930年4月10日に名古屋で取材していた朴はジョン・ジュルゲンセンが主催していた伝道集会の横を通った際に集会に興味を持ち、翌日その集会に出席し回心します。その後ジョンと兼崎勉二伝道師に導かれて信仰を強め、1930年5月にはジョンの聖書塾で学ぶようになります。当時名古屋には1万3000人ほどの朝鮮半島出身者がいましたが、伝道熱心な青年に生まれ変わった朴は聖山と名を改め、翌年の1931年3月5日には朝鮮人名古屋聖書教会を設立してその牧師となります。

 後にマリア・ジュルゲンセンは兄のジョンの元に朝鮮総督府から感謝状が届いたと記しています。それはかつて過激なマルクス主義のリーダーで常に当局から睨まれていた朴がジョンの元でクリスチャンになり伝道者となって「最も悪かった者が最も有益な者に変えられた」ことを感謝する文面だったそうです。

裵富根(1906-1970)

裵富根(ベー・ブグン)

(左)朴聖⼭と(右)裵富根【1934年】

 この設立間もない朝鮮人名古屋聖書教会に導かれたのが裵富根です。裵は1906年に大韓帝国の江原道に生まれ、地元の漢学塾で学んだ後にメソジスト派の学校に通い、1925年にクリスチャンになります。彼も1929年に学業を続けるために日本にやって来ます。しかし心に平安がなく神を真剣に求めるようになっていた時に、朝鮮人名古屋聖書教会に導かれたのでした。裵はすぐに朴と共にジュルゲンセンの聖書塾で学ぶようになり、朝鮮人名古屋聖書教会日曜学校部の牧師になります。裵は1932年の新年聖会で神に触れられる体験をし、ジョンに導かれて丸山栄伝道師や朴聖山と共に聖霊のバプテスマを熱心に求めて聖霊体験をします。

名古屋朝鮮聖書教会幼年部
(左端に朴聖⼭、右端に裵富根)【1932年】

 マリア・ジュルゲンセンはラムゼイや米国から朝鮮に向かう途中に東京のC. F. ジュルゲンセン家を訪ねたパーソンズとオフステッドなどに、名古屋で朴と裵がペンテコステ体験をし、ジョンの聖書学校で訓練を受けていることを伝え、彼らの経済的サポートを依頼します。これを受けてラムゼイたちは朴と裵をサポートします。


 2年間の聖書塾の課程を修了した朴聖山は1932年5月にラムゼイに招かれて伝道師として京城に向かいます。1932年の秋に英国から朝鮮に向かう途中のメレディスとベッシーは香港で巡回伝道中であったメアリー・テーラーと出会います。メアリーは英国出身ですが神戸で活動する米国アッセンブリー教団の宣教師でした。メレディスとベッシーはテーラーを通じて京城のラムゼイやパーソンズとオフステッドの働きを知り、京城に着くと彼女たちと共に働くようになります。京城での宣教活動の拡大に伴い、婦人宣教師たちは1933年3月に名古屋から裵富根も伝道師として招きます。日本語も朝鮮語も堪能ではない外国人婦人宣教師たちが京城で開拓伝道をするのは容易ではなく、朴や裵のような聖霊体験をし聖書学校で訓練を受けた朝鮮人伝道者が彼女たちの働きに加わることはとても心強いものでした。

丸⼭栄(名古屋⽇本聖書教会牧師)の朴聖⼭の記事
(「福⾳使者の派遣」『永遠の御霊』第37号1932年6⽉1⽇発⾏、7ページ)

 朝鮮五旬節教会を築いた人たちと日本のペンテコステ派のクリスチャンとの関係は深く、この他にも立川のデスリッジの教会のメンバーであったパイロットの金東業(キム・ドンオブ)と片山タエコ夫人は1933年に京城に渡り知己のラムゼイの働きを助けます。また1934年にラムゼイは同労者の許弘伝道師を伴って東京の滝野川教会のC. F. ジュルゲンセン家と弓山喜代馬を訪ねます。この時に許は滝野川の聖霊神学院に暫く逗留して学んでいます。1938年10月には東京在住の英国アッセンブリー教団宣教師のジョン・クレメントと米国アッセンブリー教団宣教師団議長・日本聖書教会理事長のノーマン・バースは京城のラムゼイとメレディスとベッシーを訪問します。訪問の目的は朝鮮五旬節教会の所属問題やリーダーシップに対する考えの不一致を調整するためでした。この時にクレメントとバースは朴たち三人の朝鮮人伝道者に按手礼を授けています。

 ラムゼイは1940年11月に帰国し、翌年太平洋戦争が始まると朝鮮五旬節教会の諸教会は次々と閉鎖されて行きます。朴は古本屋を開業し、裵は親戚の小児科医院で働いて生計を立てます。戦後になって1950年4月に朴の掛け声で戦後初のペンテコステ派クリスチャンたちの聖会が開催され、そこで後の韓国アッセンブリー教団の母体となる韓国ペンテコステ教会が設立されます。1953年4月8日には日本から韓国に渡ったアーサー・チェスナット米国アッセンブリー教団宣教師と11人の韓国人伝道者たちによって韓国アッセンブリー教団が設立されますが、朴と裵はその設立メンバーでした。

12⼈の韓国アッセンブリー教団の設⽴メンバー【1953年4⽉8⽇】
右から3⼈⽬が朴聖⼭、6⼈⽬が裵富根

 朴は日本のクリスチャンの友人たちを忘れることはありませんでした。徳木力は滝野川の聖霊神学院の神学生の時からの友人であった朴から戦後になって古本の入った大包が届いたと記しています。

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