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聖霊の炎を掲げて ㉒
1949年3月15日に新しいペンテコステ派の教団の設立のために8人の外国人宣教師と12人の日本人教職たちが東京の神召キリスト教会に参集し、そこで日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が設立されます。米国アッセンブリー教団の新任宣教師であったマーガレット・カーローは当時最年少の32歳でただ一人の大卒者でなおかつ戦前の日本を知らない人でした。 -
聖霊の炎を掲げて ㉑
日本のペンテコステ運動は陸の孤島ではありませんでした。宣教地に赴く際や帰国の際に日本に立ち寄るペンテコステ派の宣教師や巡回視察に訪れるペンテコステ派のリーダーたちがいました。私たちは彼らの日本訪問記によって当時の日本のペンコステ運動の状況を垣間見ることができます。 -
聖霊の炎を掲げて ⑳
日本アッセンブリー教団の源流の一つである滝野川聖霊教会(現 神召キリスト教会)は戦前仙台で活発な宣教活動を行なっていました。その先鞭となったのは滝野川聖霊神学院卒業生の大巻三郎・辰枝夫妻でした。 -
聖霊の炎を掲げて ⑲
胎動期の日本のペンテコステ運動は幾つもの試練を乗り越えなくてはいけませんでした。それらは1916年ごろから数年間続いたニュー・イシュー論争、1923年9月1日の関東大震災、そして1941年から1945年までの太平洋戦争でした。 -
聖霊の炎を掲げて ⑱
日本アッセンブリー教団の前身の中心の教会の一つが1920年にアレックス・モンロー夫妻によって設立された西巣鴨宮仲の大塚教会でした。 -
聖霊の炎を掲げて ⑰
米国インディアナ州インディアナポリスでハワイ生まれの日系人谷本善男と出会ったエステラ・バーナーはハティ・スクーノーバーと共に1910年4月29日に独立ペンテコステ派宣教師として来日します。谷本善男も5ヶ月後の9月に来日します。…エステラ母娘とタキガワ、そして谷本はどのような人たちだったのでしょうか。 -
聖霊の炎を掲げて ⑯
1919年11月に単身22歳で来日したジェシー・ウェングラーは、戦時下も日本に留まり、戦前・戦中・戦後を通して39年間日本宣教に従事し、八王子、甲府、市川に教会を立てあげ、1958年7月22日に71歳で人生の馳場を駆け抜けて日本の土となりました。 -
聖霊の炎を掲げて ⑮
日本で最初に設立されたペンテコステ派の児童養護施設(孤児院)は西宮の子供ホーム(Children’s Home)で、メアリー・テーラーの「一銭貯金」から始まり、1922年にメー・ストラウブによって創設され、フローレンス・バイヤスによって継承され、そして100年後の現在でも「社会福祉法人 神愛子供ホーム」として存続しています。 -
聖霊の炎を掲げて ⑭
ノーマン・バースは戦前の日本アッセンブリー教団の前身であった日本聖書教会と米国アッセンブリー教団宣教師団の最後の議長でした。彼が日本で過ごした1928年から1941年の足掛け13年は日本のみならず日本聖書教会にとっても激動の時代でした。 -
聖霊の炎を掲げて ⑬
マーガレット・パイパーは1914年に25歳で独立宣教師として来日し、その働きの結実が現在の日本基督教団阿倍野教会です。マーガレットの長女のルース・フロイは1949年に29歳で独立宣教師として8歳の息子のノーマンを伴って来日し、1950年からは日本アッセンブリー教団の協力宣教師として働き、その働きの結実が京都左京区岩倉にあった日本アッセンブリー教団岩倉キリスト教会です。