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聖霊の炎を掲げて③

試練を乗り越えて

鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

弓山喜代馬
(1900-2002年)

弓山師(1930年頃)

 102歳の長寿を全うし半世紀に及び日本アッセンブリー教団と中央聖書神学校を導いた弓山喜代馬先生の足跡はとても大きいものです。そんな弓山先生ですが御自身の過去を封印し前半生についてあまり語られませんでした。現在の私たちが弓山先生の前半生について知ろうとする時には残された幾つかの断片的な情報を拠り所としなくてはなりません。しかし弓山先生が生前に語られた断片的な証言にも齟齬があり、未だに多くのミッシング・ピースが残されたままです。そのため弓山先生の前半生を正確に描き出すことは難しくこの小文は一つの試みにしか過ぎません。

 弓山喜代馬は1900年8月20日に弓山藤四朗とナヲの4男として愛媛県周桑郡吉岡村で生まれます。最初に聖書に触れたのは今治中学の学生の時でした。1918年1月に姉の死がきっかけで中学卒業後に岡山医学専門学校に進学します。1920年6月には学校の近くにあった教会に足を踏み入れて信仰を持ち21歳で洗礼を受けます。その教会の牧師は後に日本アッセンブリー教団の前身の一つである日本聖書教会大塚教会の牧師となった村井屯二(「屯」の下に「二」で読みは「ジュン」)だったと推定されます。今治ホーリネス教会の牧師であった長井喜三郎が岡山の弓山を訪問する際には村井夫妻を訪ねています。この頃に弓山は後に妻となる一歳年上の服部風衣と出会います。風衣の父の服部杢三郎は岡山の著名な教育者で、風衣も就実高等女学校の卒業生でした。弓山は1921年には岡山医学専門学校を中退し、上京、結婚、そして池袋に居を構え伝道活動を始め、長女幸子が1921年12月に生まれます。

 弓山は友人の紹介で1922年暮れにジョン・W・ジュルゲンセンが牧会する本郷の富士前ペンテコステ教会を訪ね、そこで異言を伴う聖霊体験をします。その後ジョン夫妻の聖書塾に学び、居を滝野川に移して彼らの働きを助けます。1924年春にカール・F・ジュルゲンセン家族が米国での休暇帰国を終えて再来日すると、弓山は秋頃から主に彼らの滝野川での働きを助けるようになります。滝野川で次女恵美子が1924年9月に生まれ、次いで1927年7月には長男愛作が生まれます。

滝野川の自宅前で(1925年秋頃)
弓山師、幸子さん、風衣夫人、恵美子さん
風衣夫人、愛作君、恵美子さん、幸子さん(1928年頃)

 弓山は上京した際にはまだ医学の道を諦め切れず東京慈恵会医科大学への編入をも視野に入れていました。風衣夫人や夫人の実家も弓山が医者になることを強く望んでいたようです。しかし弓山は落合で活水の群れの柘植不知人の聖会に出席した後に、体に無数の傷を負ったキリストの幻を見て伝道者として献身することを決心します。

 1927年10月にジュルゲンセン一家によって日本で最初のペンテコステ派の会堂として滝野川教会(現 神召教会)が献堂されます。弓山は1927年11月に滝野川教会の牧師に就任し1928年に按手礼を受けます。しかしその後弓山は滝野川教会を辞任し、妻は岡山の実家に帰郷し、長女と次女を愛媛の親戚に預けた弓山は長男を伴って朝鮮に渡ります。朝鮮での活動について弓山は後に『永遠の御霊』誌上に「何處へー朝鮮だより」(其の一)から(其の十一)として、1928年6月10日から1928年10月9日までの生活を綴っています。滞在中の朝鮮忠清南道扶余郡扶余で3歳にもならない長男愛作が1929年3月に病死します。

 1930年1月に単身帰京した弓山は3月に滝野川教会の枝教会である千駄ヶ谷教会で働き始め八王子教会から献身した田中篤二と起居を共にします。5月には滝野川教会の牧師であった鈴木仙之助の辞任に伴い滝野川教会の牧師に復帰します。12月の滝野川教会の特別集会の際には多くの人たちが聖霊体験をし、1931年1月には弓山を校長として聖霊神学院が開校されます。そして聖霊神学院の卒業生たちによって十条、浜松、西ヶ原、仙台、飛鳥山、市川と次々に開拓伝道がなされていきます。1934年9月には弓山を総務局長として「滝野川ミッション」という滝野川教会を軸としたネットワークが始まります。1937年には滝野川教会で弓山を園長として「めぐみ幼稚園」が開設されます。また保谷に土地を取得し「聖耕園」という農園も開設されます。この農園の跡地に立つのが現在の西東京キリスト教会です。

当時日本におけるアッセンブリーの群れは「日本聖書教会」と名乗っていましたが、1937年の日本聖書教会の再編の際に、滝野川教会は日本聖書教会を離脱し、1938年には新たに「滝野川聖霊教会」として発足し独自の道を歩み始めます。1940年9月にカール・ジュルゲンセンが軽井沢で死去し、1941年10月にはフレデリケ夫人とマリア・ジュルゲンセンが戦争前の最後の船で帰国の途に着き弓山の肩に大きな責任が残されます

 宗教団体法の施行を受けて1941年6月に日本基督教団が結成された際には、滝野川聖霊教会は第十部に加入し「神召教会」と改名します。弓山は1941年11月には日本基督教団の正教師に任じられ、聖霊神学院も発展的に消滅して弓山は1942年4月には日本東亜神学校教授に任命されます。弓山は後に日本基督教団日吉町伝道所兼務主任者にも任命されます。戦争中の神召教会の日曜礼拝出席者は10人にもならなかったと言います。幸い弓山は徴兵されることもなく、神召教会も戦禍を逃れます。風衣夫人が1943年12月に岡山で死去し、1945年8月に弓山は神召教会で敗戦を迎えるのです。

 戦後マリア・ジュルゲンセンは弓山と父カールとの関係を「この人(弓山)を導き勇気を与えたこの神の人(カール)の祈り無くしては、この人(弓山)は躓き倒れ(伝道を)諦めてしまっていたかもしれないでしょう。」と回想しています。

 弓山喜代馬先生は『永遠の御霊』誌を1934年5月第一号から主筆兼編集者として発行していました。現在その所在が確認されている『永遠の御霊』誌は1937年月発行の第49号までですが、1941年11月の第100号までは発行されていたことが確認されています。今後未確認の『永遠の御霊』誌などの原資料の発見があれば、弓山先生の前半生の活動がさらに明らかになることでしょう。

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執筆者紹介

鈴木 正和

水場コミュニティチャーチ 牧師
中央聖書神学校講師

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