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聖霊の炎を掲げて⑤

華族出身の女性伝道者

鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

 日本の初期ペンテコステ運動を担った人たちの中でもその背景が異色な人の一人が沖千代です。
彼女は38歳で伝道者として立ち上がり、戦争中に空襲で教会堂を消失しますが敗戦後63歳で再起し、
1949年3月の日本アッセンブリー教団創立総会に創立メンバーとして参加します。

沖 千代(1883-1965)

日本アッセンブリー教団創立メンバー[1949年3月]神召基督教会
前列左から:大地兼薫、坂本きみ、沖千代、伊藤トミノ
後列左から:徳木力、アーサー・チェスナット、内村誠一、ジョン・クレメント、弓山喜代馬、フローレンス・バイヤス、
川崎一、マリア・ジュルゲンセン、田中篤二、エスター・クレメント、菊地隆之助、斎藤仁男、マーガレット・カーロー

 千代は1883年に横浜に生まれますが、当時父の沖守固(もりかた)は神奈川県知事でした。当時の県知事は民選ではなく勅任です。守固は鳥取出身の明治政府の有力なメンバーで1871年の岩倉具視使節団に加わり欧米を視察した後に英国に私費留学しています。帰国後長崎、滋賀、和歌山、大阪、愛知の知事を歴任し、男爵となり貴族院議員に選出されています。千代はこのような有力者の次女として生まれ、御茶ノ水の東京女子師範学校に学び1901年に卒業します。

 卒業後暫くして千代は4歳年上で陸軍騎兵少尉の海江田虎次郎と結婚し、3男一女をもうけますが一女は夭折します。虎次郎の父の海江田信義(有村俊斎)も薩摩出身の有力者で、奈良県令、貴族院議員を歴任した後に子爵となります。虎次郎は1906年に父の死に伴い子爵家を継ぎ宮内省式部官に任ぜられます。しかし後に家督相続の裁判で敗訴し、子爵位を異母弟に譲り式部官を辞任します。その背後にあったのは伯母の夫の東郷平八郎であったと長男信和は推測しています。

 千代たちはその後渋谷の海江田家、鎌倉の沖家で過ごしますが、虎次郎が定職を持たず遺産を頼りに生きていたこともあり、海江田家の家計は次第に圧迫され、1918年頃に下谷御徒町、そして大塚の天祖神社の裏に引っ越します。近所にL. W. クートの始めたペンテコステ教会があり、千代はその教会に通うようになり信仰を持ち洗礼を受けます。

 この頃既に千代と虎次郎の夫婦関係は破綻しており、子供たちはまだ未成年でしたが千代は離婚を決意します。子供たちの前では夫婦仲の悪さを全く見せたことがなかったために父母の離婚は子供たちにとって全くの晴天の霹靂だったようです。そして中学を卒業したばかりの長男信和(1903年生)は東京で塗装屋の学僕となり、次男信武(1905年生)は大阪で日本初の民間パイロットであった後藤勇吉に弟子入りし、三男信兼(1907年生)は千代に連れられて後に陸軍幼年学校に入り一家は離散し、千代は独立して信仰に生きることを決心します。1921年千代が38歳の時のことでした。


 伝道師となった千代はクートを助け横浜の本牧、扇町、西戸部で伝道します。クートは千代が「とても熱心な働き人である」と記しています。1923年9月の関東大震災後には実母と共に大阪の玉造に移り、クートの支援を受けて玉出町で伝道活動を再開します。1926年からはクートが始めた大阪の聖書学校でも教えたようです。1927年には鶴橋駅近くの船橋町(小橋元町)で教え子の内村誠一(1907年生)と小川裕(1903年生)と共に宣教活動を開始します。

 沖、内村、小川の三人はクートが関東大震災によって横浜から関西に移転する前からの弟子たちでしたがこの頃にクートと袂を分かちます。沖たち三人の結束は固く、後に神戸のテーラー夫人、京都のスミス夫妻とも親しく交わり、共に京阪神で宣教戦線を戦い互いの伝道活動を支援します。スミスは千代は「神様の愛に動かされて地位や名誉を捨てた学識のある日本女性で雄弁な説教家だ」と記しています。

 千代は1928年に正式に伝道師の資格を得て小橋本町に伝道所(後の神愛基督教会)を開設します。後に小川は京都に移りますが、千代と内村は毎晩のように集会を開き1930年には140人の会衆が集うようになります。1931年に教会の土地を確保し1932年には会堂を建設、そして後に森小路町にも森小路教会を設立します。小川と内村は1936年に京都で日本旅行中の英国アッセンブリー教団総理のハワード・カーターから按手礼を受けています。千代と内村は1941年の日本基督教団設立時には味原教会として加入します。京都の小川が招集されると千代が北野教会の代務者となります。

 1945年6月の空襲で味原教会は消失し、千代は三男の信兼を頼って岡山県福浦に疎開し、内村は京都に移ります。残念なことに小川は1944年8月7日に戦死します。敗戦の翌年1946年に千代は岡山から関西に戻り、宝塚市山本の長男信和の家に身を寄せます。既に63歳になっていた千代ですが伝道に対する熱意は衰えることなく、山本を足場に京阪神で宣教活動を再開します。1948年からは老人ホーム・大阪市弘済院でのボランティアを始め、フローレンス・バイヤスが再来日すると、内村や徳木力と共にバイヤスを助けます。その働きが後の東灘神愛教会となります。千代は京都の内村の働きも助け離散した北野教会の教会員を訪問し、それが後の七条キリスト教会となります。また千代は1949年に池田にある戦前の教会学校の生徒の家で伝道を開始し、これが後の神愛基督教会となります。

月例関西教職祈祷会 1951年1月29日 東灘神愛教会にて
前列左から:フローレンス・バイヤス、エレン山田、沖千代
後列左から:弓山喜代馬、斎藤仁男、【女性未詳】、徳木力、山路寿、ニッパー、
菊地隆之助、エレノア・ニッパー、【男性未詳】、内村誠一

 1959年に信和の元に元夫虎次郎が身を寄せることになり、京都の内村誠一が1961年に千代のために一部屋建て増しして隠退した千代を預かることになります。4年後の1965年3月20日に千代は内村家の皆に看取られて82歳で亡くなり、葬儀は七条キリスト教会で菊地隆之助の司式で行われます。千代の遺骨は七条キリスト教会の墓所に埋葬されています。


 千代を偲ぶ同僚や霊的子供たちの声から彼女の人柄が偲ばれます。
【「勝利の凱旋」『月刊アッセンブリー』(1965年5月号)より】

 ・・・神愛教会の根を下ろし、それから後は春夏秋冬、雨、風に怯いはなく、炎暑の日、寒風肌を刺す朝夕の明けくれにも、日曜の礼拝、木曜の祈りの集い、家庭集会ともあれば競って出席、一度も欠かしたことがない。信仰をもって集う人たちは『あのお年であの熱意』と感謝をこめて口を揃えて言う。(内村誠一)

 沖先生は女の身、しかもご老体でありながら風雨をいとわず集会を、ご自分が先頭に立って導いてくださいました。例のご達筆で「汝、腰をひきからげて丈夫の如くせよ」とのみ言葉を掲げられ、絶えず祈のうちに思いやりと寛容をもって、あたたかく、それぞれ悩み多い私たちを励まし導いて下さいました。私は心から先生を尊敬、ご信頼し、徐々に神様の深いお恵みを受けることのできる者としていただきました。(太田緑)

 当時はまだ婦人のみの集まりで五、六人の集会でしたが、そこで私は何とも言えない温かさ、むつまじさ、豊かさ、高き気品さ等を感じました。当初のことを思い浮かべた時、先生が黒のスーツを召して座っておられたお姿がありありと映ります。とても当時六十五歳を過ごされた御老人とは思えぬ程元気に溢れた先生でした。(町田美子)

 いつも笑みをたたえたあのお顔が、そして少し腰を右に左に動揺しながら歩まれたあの姿がはっきりとうかんでまいります。・・・上品でモダンなお祖母さんという感じを受けました。・・・「此の石橋の地に教会を建設するのです」と語られた先生、いくら先生の祈でも無一物の中から教会等、大それたことをと先生と一緒に祈り求めながらも、信仰の薄き私は思っておりましたが、そんな私の心をちゃんとご存知で「私がするのではなく祈に答えたまう神がなさるのです」と力強く語られ、そして先生のご希望の年に会堂建設の実現を見ましたのです。(西とみ恵)

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鈴木 正和

水場コミュニティチャーチ 牧師
中央聖書神学校講師

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