聖霊の炎を掲げて⑦

「カナダから帰国した日本人伝道者たち」

鈴木正和 水場コミュニティーチャーチ牧師

 日本からのカナダへの移民は1870年代に始まり、その多くは季節労働者として、漁業、缶詰工場、木材伐採などの労働に従事しました。1910年にカナダ最北西岸のスキーナー川河口に大陸横断鉄道の最西端の駅の町としてプリンス・ルパートが建設されます。1920年頃までにはプリンス・ルパート周辺に2000人程の日本人移民が住むようになり、次第に日本人コミュニティーの中からクリスチャンになる人たちが増えて行きました。1921年にバンクーバー周辺でペンテコステ・リバイバルが起きると、プリンス・ルパートの日本人クリスチャンの中にも聖霊体験をする人たちが与えられるようになります。


 当時日本で活動していたペンテコステ派の宣教師たちは適当な日本人同労者を見つけるのに大変苦労していました。当時の日本には英語を理解しなおかつ聖霊体験をした日本人伝道者は皆無でした。ですから彼らにとってプリンス・ルパートの聖霊体験をした日本人クリスチャンの存在はとても魅力的なものでした。東京で活動していたアレックス・モンローと横浜で活動していたバーニー・モーアはそれぞれ休暇帰国の際にプリンス・ルパートの日本人ペンコステ教会を訪問し、メンバー中に彼らの同労者となって日本に伝道者として帰国する者がいないか探します。彼らの要請に答えて伝道者となって帰国したのが、長谷川キン夫妻と中山萬吉夫妻です。

長谷川キン(1878-1923)  マツ(1881-1923)

 バーニー・モーアは1921年夏にバンクーバーでプリンス・ルパートの日本人ペンテコステ教会のことを聞きつけて同地を訪れます。彼は3人の聖霊体験をし伝道者として献身しようと思っている日本人がいることを知り、そのうちの一人を日本に連れて帰ることにします。その3人の中で一番帰国の準備が整っていたのが長谷川夫妻だったこともあり、モーアは長谷川一家を日本に伴うことにします。1922年にはモーアと長谷川は北米の教会を巡回伝道し日本宣教のための献金を集めます。

バーニー・ムーア夫妻(1918年)

 長谷川キンは1878年に日本で生まれ、1910年に妻のマツと共にカナダに渡ります。後に長谷川はカナダに帰化し、プリンス・ルパートのホテルの料理人をしていました。彼は1919年にプリンス・ルパートの聖公会で洗礼を受け、1921年には長老派教会に属していました。後に彼と彼の妻と長女が聖霊体験をします。そして長谷川は帰国して日本で伝道することが神の召しだと感じるようになりました。モーアが彼と会った時にはすでに長谷川は3年ほど伝道活動に携わっており、モーアにとって長谷川は彼の横浜の教会の牧師にうってつけでした。長谷川夫妻は3人の子供たちを伴い1922年10月25日に日本に向けてカナダを出航します。日本到着後に彼はモーアの横浜アッセンブリー教会の牧師として働きます。しかし帰国後一年も経たない翌年の1923年9月1日に関東大震災が襲います。

 その日モーアと長谷川は午前中に一緒に仕事をして11時45分頃にそれぞれ帰宅します。そして11時58分に大地震が襲うのです。激しい揺れの中でモーア家ではモーアが家から飛び出して屋外に逃れることが出来ましたが、一歩遅れたモーア夫人と婦人伝道師の鈴木は倒壊する家の庇の下に押しつぶされてしまいます。モーアは難を逃れた日本人の使用人ともう一人の婦人伝道師である小田原と共にモーア夫人と鈴木伝道師を倒壊した家屋から救出することができました。幸いにもモーア夫人は腕の怪我と鈴木は顔の擦り傷だけ済みました。しかし長谷川家では長女メアリー、次男ピーター、そして4ヶ月の赤ん坊は助かりましたが、長谷川夫妻と長男のジョーの3人が亡くなってしまいます。

 モーア夫妻は1915年から横浜で活動し震災前には横浜の教会も順調に発展し、茨城などの農村伝道も活発に行い、これから横浜で聖書学校を立ち上げようとした矢先の罹災でした。あっという間に彼らのそれまでの働きの全てが灰燼に帰し、長谷川牧師夫妻と彼らの長男を失い、失意のうちに神戸を経て帰国することになります。その後彼らは何度か日本での宣教の再開を試みるのですがそれはなりませんでした。

 震災後長谷川夫妻の3人の遺児たちはそれぞれ異なる場所に身を寄せることになります。長女のメアリーは八王子のジェシー・ウェングラーが引き取り、ウェングラーが翌年に休暇帰国する際にウェングラーに伴われてカナダに渡りバンクーバーの叔父に送り届けられます。次男のピーターは日本の親戚に引き取られ、下の赤ん坊は孤児院に送られます。

中山萬吉(1885-1932)

 カナダ出身のアレックス・モンロー夫妻が1921年秋からの休暇帰国の際にプリンス・ルパートの日本人ペンテコステ教会を訪問します。そこで聖霊体験をした二人が彼らと日本で伝道することを望みました。その一人が中山萬吉でした。モンローは中山を伴って再来日することにし、モンローと中山は北米の教会を巡回し日本宣教に備えます。しかし1923年9月1日の関東大震災によって来日を遅らせなくてはなりませんでした。

プリンス・ルパートの日本人ペンテコステ教会(1920年)
中央はモンロー夫妻

 中山萬吉は1885年4月17日に福岡県に生まれ1905年に日露戦争に従軍します。その後彼は放蕩を尽くした末に母親や妻を置いて日本を去り、プリンス・ルパートに渡ります。そこで港の荷役人の元締めなどをして生計を立て、高校にも通いますが彼の悪癖は改善されず、1921年には深酒に浸り死の淵をさまよいます。その時に中山はプリンス・ルパートの日本人ペンテコステ教会のクリスチャンたちの祈りによって支えられます。彼は聖霊体験をし神学校にも通います。

中山萬吉とアレックス・モンロー(1923年)

 中山はモンロー夫妻に先立って震災後に日本に帰国し、翌年1924年1月10日のモンロー夫妻の来日に備えます。モンロー夫妻が開拓した巣鴨宮仲の大塚教会の建物は地震によって崩壊こそしませんでしたが大掛かりな修復が必要でした。その後モンロー夫妻と中山は協力して大塚教会を盛り上げ、伊藤智留吉・トミノ夫妻などもモンロー夫妻と中山の元で信仰を持ち聖霊体験をした大塚教会のメンバーでした。後に伊藤夫妻はバースと中山によって横浜に派遣されます。

大塚教会の伝道者たち(1925年)
後列左から中山万吉、モンロー、朝倉敏
前列左から中山夫人、モンロー夫人、一人おいて朝倉夫人
大塚教会(1926年)
後列:左から5人目が伊藤智留吉、8人目が加藤トミノ
二列目:左から2人目が中山夫人とお子さん
三列目:中央がモンロー夫妻、その右が中山万吉

 しかし1927年にカナダ・アッセンブリー教団が日本宣教から撤退することを決め、モンロー夫妻も帰国します。大塚教会は米国アッセンブリー教団のゴードン・ベンダー夫妻が引き継ぐことになり、中山も大塚教会牧師として留まります。1929年にはべレア女子聖書学院を卒業した長島ツルが大塚教会で伝道師として働き始めます。1930年から中山は長島と共に以前モーアが開拓した茨城での伝道を再開します。1931年にベンダー夫妻は休暇帰国しますが諸事情で再来日することができず、ノーマン・バース夫妻が大塚教会を引き継ぐこととなります。

 中山は温和でいつも微笑みを忘れず若い人たちを励ます謙虚さを持っていて日本人クリスチャンたちのロールモデルでもありました。そんな中山ですが特別伝道集会の用意をして帰宅した晩の1932年6月7日未明に、妻と幼い子供たちを残し脳出血で突然亡くなります。中山の死を受けてバースは茨城に派遣していた長島を呼び戻し、1932年10月にはそれまでに幾度か大塚教会の特別伝道集会の講師として招いていた巡回伝道者の村井屯二(「屯」の下に「二」で読みは「ジュン」)を大塚教会の牧師として招聘し、長島は茨城の伝道に復帰します。その後大塚教会は村井に導かれ日本のペンテコステ運動の一大拠点となって発展します。

資料①伊藤知留吉による中山萬吉の追悼文

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