聖霊の炎を掲げて⑧

「宣教スピリットの継承―子供宣教師―」

鈴木正和 水場コミュニティーチャーチ牧師

 戦前の日本で親子で宣教活動に従事した宣教師家族が幾つかあります。その一つがオーストラリアから来日したスミス一家です。まだ幼い子供たちが日本語をマスターし、日本語のおぼつかない壮年の父母を支えて諸集会で通訳者として立ちます。彼らは「子供宣教師」とも呼ばれました。メアリー・スミスもその一人です。彼女は1925年に両親と共に10歳で来日します。テラ夫人が1935年に日本で天に召され、スミス一家は1940年12月に帰国しますが、娘のメアリーは単身1960年に再来日を果たします。そしてメアリー自身も1971年に日本で天に召され、母娘共に日本の土となります。

ハーバート・スミスHerbert E. Smith (1870-1959)
セラ・スミスThera Smith (?-1936)
メアリー・スミスMarie N. Smith (1915-1971)

ハーバートとテラ スミス夫妻
Good News (1928-10), 16.

メアリー・スミス
Marie N. Smith
(1915-1971)

“Gratitude for Grace,” Australian Evangel (1948-12),11.

 オーストラリアのブリスベン在住のハーバートとセラ夫妻は1924年にオーストラリアのペンテコステ運動の先駆者であるサラ・ジェイン・ランカスターの出版物であるグッド・ニュースを手にし、初めてペンテコステ運動に触れます。その後彼らはブリスベンのW. A. ブキャナンとフロリー・モートモアの集会に参加しそこで聖霊体験をします。当初彼らはブリスベンで宣教活動を始めようと思うのですが、奈良のレオナード・クートが発行していた『Japan and Pentecost(日本とペンテコステ)』誌を読んで海外宣教師として献身する思いを強めます。日本への召命を感じた彼らは1924年3月にクートと連絡を取り、1925年の秋に当時10歳の娘メアリーを伴ってランカスターのグッド・ニュース・ホールの宣教師(後にはオーストラリア・アポスリッック・フェイス・ミッション)として来日します。

 当時奈良のクートの働きには世界各地からペンテコステ派の宣教師たちが参加しており、10月31日の天長節の祝日には合同で大阪の浜寺の民宿を借り切って午前中にスミス一家の歓迎会を催し午後には近くの海岸で洗礼式を行い、その後大阪の市岡伝道所で集会が持ちます。当初スミス一家は大阪に住みながら京都のエマ・フュズリエの働きを助けます。後にフュズリエが奈良に移ると、彼らは京都での宣教活動をクートの支援を受けながら続けます。また彼らは米国アッセンブリー教団所属の神戸のテーラー夫人、以前クートの門下であった沖千代、内村誠一、小川裕などと協調関係を持ちながら宣教活動を展開します。しかし娘のメアリーが重い神経症に罹ったために1927年11月に一時帰国をします。

会堂のない時代の集合写真
Good News (1929-05), 21.

 幸い帰国中にメアリーは癒され聖霊体験をします。テーラー夫人や沖などの祈りと励ましもあって、スミス一家は1928年10月には再来日します。この時彼らはまず神戸のテーラー夫人と三好誠の働きを助け、三好から日本語を学び始めます。クートとは距離を置くようになり、それまで以上に大阪の内村誠一、沖千代、そして京都の小川裕と連携して伝道します。そして1929年には京都の西に移り住み、京都の北の小川の働きとは別に開拓伝道を始めます。スミス一家と神戸のテーラー夫人、大阪の沖と内村、京都の小川は頻繁に特別伝道集会などを応援し合い、姉妹教会のように宣教協力をします。この頃から娘マリアも父母の働きに加わります。

 1931年10月には東京の滝野川日本聖書教会の弓山喜代馬が四国の実家を訪問する途中で関西に訪れた際に、弓山は京都のスミスや小川たちを訪問します。このこともあってスミス一家は1932年から米国アッセンブリー教団を母体とする日本聖書教会と連携を持ち、後には日本聖書教会の名古屋のジョン・ジュルゲンセン、西宮のバイヤスや徳木力とも交流を持ちます。1935年12月号の『永遠の御霊』(日本聖書教会出版部発行)の子供ページには「王子様の誕生日」としてメアリーが記事を書いています。小川に至っては1938年には日本聖書教会から分かれた滝野川聖霊教会に加入します。

北京都の日本人教会
“Japanese Assembly at N. Kyoto,…,” Good News (1930-12-01), 17.

 1933年春にスミス夫妻は京都で室町永世基督教会として新しい会堂を献堂します。以前からセラ夫人は喘息持ちでしたが、悲しいことに1935年10月4日に喘息から来る心臓発作で亡くなり京都の住吉山墓地に葬られます。セラの死後もハーバートとメアリーは京都での働きを小川と共に続けるのですが、1938年に彼らの働きを英国人の独立伝道者であったエマ・ゲイルと小川に託し休暇帰国します。

室町永生基督教会での集合写真
“ Muromachi-Eternal Life-Christian Church,” Good News (1933-07), 15.

 彼らの帰国中にオーストラリアではペンテコステ派の教会の再編があり、スミスはオーストラリア・アポスリッック・フェイス・ミッションからオーストラリア・アッセンブリー教団に加入し、1939年5月に再来日します。この頃既に日本の情勢は不安定で、彼らが仏教の町である京都で伝道することが次第に困難になっていきます。英国政府の帰国勧告もあり、スミスたちは彼らの働きを再びゲイルと小川に託し、1940年12月29日に神戸埠頭から友人たちに見送られて日本を後にします。その後出征した小川が1944年8月7日に戦死したため京都の教会は閉じられ教会員は離散します。


 戦後になって大阪から内村誠一が京都に移り住み伝道を始め、戦前のメンバーの一部が集うようになり七条教会が設立されます。メアリーは戦後再来日を望みますが、老齢の父親の介護もあり、それがすぐにはなりませんでした。1959年にハーバートが89歳で召されると、メアリーは翌年の1960年にオーストラリア・アッセンブリー教団の宣教師として再来日します。そして西宮の子供の家、東灘教会、唐津教会などで働きますが病いを得ます。そして心臓などに水がたまり呼吸困難となって1971年3月31日に亡くなり京都の母の墓所の横に葬られます。

中央聖書神学校図書館資料室にはセラ夫人の日記が残されています。
また神愛キリスト教会の市川牧師がThe Australasian Dictionary of Pentecostal and Charismatic MovementsのMarie Bertha Smithの項を書いておられます。

https://sites.google.com/view/adpcm/q-t-top-page/smith-marie-bertha

 

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