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聖霊の炎を掲げて⑪

滝野川聖霊神学院
(1931年〜1941年)

鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

(年代不詳)
「神に献身せよ、聖霊神学院に入学せよ、救霊戦に参加せよ 學友会○事」

設立

 戦前の日本アッセンブリー教団の前身の団体の聖書学校の一つに弓山喜代馬が滝野川教会(現 神召キリスト教会)内に開校した聖霊神学院があります。1928年に滝野川教会の牧師を辞任し東京を離れていた弓山は1930年の1月に東京に戻り滝野川教会の支教会の千駄ヶ谷伝道所を手伝い始めます。3月には八王子教会出身の田中篤二が千駄ヶ谷で弓山と寝食を共にしながら伝道者訓練を受け始めます。弓山は5月に滝野川教会の牧師に復帰し、秋には夜間の聖書塾を始めます。12月に滝野川教会で聖霊体験をする人たちが与えられたこともあり、弓山は聖書塾を発展させて正規の神学院を始める思いを強めます。当時マリアとアグネス・ジュルゲンセン姉妹は休暇帰国中でしたが、カール・ジュルゲンセン夫妻は弓山の願いを聞き入れて1931年1月16日に聖霊神学院が開校されます。1931年5月に弓山が正式に聖霊神学院の校長に任命されます。マリア・ジュルゲンセンは後に「我々の弓山兄が神様の油を注がれて『信仰によって我々はペンテコステ聖書学校を開設せねばならぬ』と明言したことによってこの神学校が生まれた」と記しています。

1931年
後列左から:フレデリケ•ジュルゲンセン、鈴木多三、菊地隆之助、徳木力
前列左から:池田夫人、丸山栄、 弓山喜馬代、 田中篤二

 聖霊神学院の開校時の学生は昼間部2人夜間部6人でした。入学条件に聖霊体験はなく修業年限は2カ年で卒業すると勧士(伝道師)の資格が与えられたようです。後に聖霊神学院は米国アッセンブリー教団日本支部の認定された聖書学校となりますが、学生の衣食住は滝野川教会や神学生の母教会の負担であったようです。当初は男女共学でしたが、1940年の募集要項には「19歳以上の男子、高卒程度の学力者、学業勤労に耐え得る健康者」という募集要件がついています。弓山は神学生たちと寝食を共にし、神学訓練と伝道に打ち込みました。神学生の一日の生活は、5時半に起床し早天祈祷、掃除をし、午前中勉強、昼食を取り、午後は路傍伝道とトラクタ配布だったようです。聖霊神学院の生徒たちは入学すると半年ほどで開拓伝道が命じられ卒業すると講師となるのが常であったようです。

 弓山自身の受けた神学教育はジョン・ジュルゲンセン夫妻の私的な聖書塾での学びだけでしたが、岡山医学専門学校で学び、英語とドイツ語にも堪能であった弓山は独学で聖書を学ぶ術を持っていました。聖霊神学院の教育内容は定かではありませんが、マリアとアグネスが1932年帰国し聖霊神学院の働きを助け、アグネスはアメリカの中央聖書学校(Central Bible Institute)で学んでおり、1936年にはイギリス・アッセンブリー教団の聖書学校校長のハワード•カーター、また1937年には同じくイギリス・アッセンブリー教団の聖書学者のドナルド•ジーも滝野川教会と聖霊神学院を訪問しており、弓山は当時の欧米のペンテコステ派の神学教育の状況を充分に理解し、欧米のペンテコステ派の聖書学校が用いていたテキストに通じていました。中央聖書神学校の図書館には当時の欧米のペンテコステ派の神学書が残されています。

卒業生

 聖霊神学院は1931年の開校から1941年に日本基督教団の東亜神学院に併合されるまでの10年間に16人の卒業生(男11、女5)を送り出しましたが、正式な記録が残されていないために卒業生の名前と卒業年次が判明しているのは第1回から第7回卒業までの以下の10人だけです。


第1回卒業(1933年3月)田中篤二
第2回卒業(1934年3月)徳木力、鈴木多三 、池田政喜夫人
第3回卒業(1935年3月)菊地隆之助、遠藤志津代 [夜間部 池田政喜、榎本仁助]
第5回卒業(1936年6月)大巻三郎、庄子テツヨ、富永喜多子
第6回卒業(1937年3月)栗谷尚

 卒業年次がわからない卒業生には、坂本亀蔵、菅野正、斉藤仁男、岩元藤雄、堀内よし子、和田一男がいます。この他に丸山栄、天利操、重松安子、明田餘作、丸山久司、黒田(男性)、塚原夫妻、須藤(男性)などが学んだと思われます。

 聖霊神学院に関する断片的な情報としては以下のようなものがあります。1931年に8人の夜間生がいた;1932年秋には8人が昼間生がいた;1933年春には9人が在学していた;1933年度の入学者が黒田(男性);1934年度の入学者が堀内よし子;1935年5月の時点でそれ迄に聖霊神学院で学んだ者が24人、そのうち6人が伝道者となり、5人が未修了者、1人が召天者、12人が在学中である;1939年度に3名が入学し、その内の一人は朝鮮半島出身者などです。

聖耕園農園

 滝野川教会は1937年に聖霊神学院の附属農園として保谷(現在 西東京キリスト教会の場所)に聖耕園を開園します。この農園の目的の一つは滝野川教会の財政基盤を整えることでした。聖耕園で働く若者を「鍬の戦士」と呼び、1940年の鍬の戦士の募集要項には、「高卒程度の学力ある者、身体剛健なる19歳以上の基督者たる男子」とあります。この地に神学校の寄宿舎が1940年5月に建てられ、神学生はそこから滝野川へ自転車で通っていたようです。

日本聖書教会からの離脱と滝野川聖霊教会の設立

 滝野川教会は1934年から滝野川ミッションとして滝野川教会を本部として独自のグループを形成し始めます。1936年にはカール・ジュルゲンセン夫妻は宣教の第一線から引退し、弓山とマリア・ジュルゲンセンがリードします。聖霊神学院の卒業生には母教会に戻る者や他の宣教師に招かれる者もいましたが、多くは滝野川ミッションに残り開拓伝道を始め、滝野川ミッションの発展に聖霊神学院の卒業生たちが大きく寄与します。

 1938年にはマリア・ジュルゲンセンと弓山喜代馬に率いられる滝野川教会は日本聖書教会を離脱し、独自の滝野川聖霊教会を設立します。この時点で滝野川ミッションには5つの教会(滝野川、十条、西ヶ原、浜松、仙台)があり、滝野川教会を滝野川第一教会[Takinogawa First Assembly]、十条教会を滝野川第二教会[Takinogawa Second Assembly]、西ヶ原教会を滝野川第三教会[Takinogawa Third Assembly]と呼んでいました。特記することとして、大巻三郎夫妻が宮城県秋保で癩病者伝道所である神成園を開設します。卒業生同士の遠藤志津代と鈴木多三や富永多喜子と和田一男が結婚しています。

東亜神学校に編入

 滝野川聖霊教会は1941年の日本基督教団の発足に伴い、その第10部の日本独立基督教会同盟会に加入します。それを受けて1942年に聖霊神学院は日本聖書学校、大東塾神学校、興亜神学院、聖書学寮と合同し東亜神学校に編入され、弓山は東亜神学校の教授の辞令を受けます。

戦中から戦後へ

 聖霊神学院に学んだ伝道者の中で名古屋教会の丸山栄と神召教会の副牧師であった坂本亀蔵が戦死し、田中篤二は戦病者となって帰還します。戦後になり新たなペンテコステ派のグループの結成が模索される中で、聖霊神学院に学んだ田中篤二、徳木力、菊地隆之助、和田一男・喜多子、斎藤仁男、岩元藤雄の7人が日本アッセンブリー教団に加入します。大巻三郎は事前の会合には参加しますが、新設の教団に加入することはなく、斎藤仁男、岩元藤雄は加入したものの数年後に離脱します。

 日本キリスト教団に在籍中でした弓山は1948年3月に神召教会内に聖霊神学院を再開します。1949年3月に日本アッセンブリー教団が発足し、新たな教団立の聖書学校の設立が決定されると、1950年4月に聖霊神学院は発展解消し教団立の中央聖書神学校が駒込に設立されます。

資料『永遠の御霊』第100号(1941年11月1日発行)


 聖霊神学院の正式な記録が残されておらず、ここに掲載した聖霊神学院関連の写真資料のほとんどがいつどのような時に撮影されたか不明です。ここに示した氏名なども必ずしも正確ではありません。弓山喜代馬が滝野川教会(現 神召キリスト教会)で発行していた『永遠の御霊』誌は当初は日本聖書教会出版部発行でしたが、後に聖霊神学院同窓会機関誌となり聖霊神学院出版部の発行となります。『永遠の御霊』誌は1934年5月1日発行の第1号から1936年2月1日発行の第49号まで現存していますが、第50号から1941年11月1日発行の第100号までのほとんどの所在が不明です。もしも欠号分が今後発見されるならば 聖霊神学院と滝野川聖霊教会の実像が明らかになるでしょう。

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