MENU

聖霊の炎を掲げて⑫

「ジョン・クレメント夫妻」

鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

クレメント夫妻

John James Clement (1907~1988)
Esther Ann Buttle Clement (1904~1979)

 戦後の日本アッセンブリー教団の設立と中央聖書学校の設立の陰の立役者だったのは英国人のジョン・クレメント夫妻です。彼らは戦前英国アッセンブリー教団の宣教師として東京で7年半活動しましたが、戦後は米国アッセンブリー教団宣教師団議長として再来日し7年間滞在します。もしも1949年1月末のクレメント夫妻の来日がなければ、日本アッセンブリー教団の設立は遅れていたかもしれません。クレメント宣教師は駒込の本部と神学校の土地の購入や聖書学校の設立に大きく寄与します。また中央聖書学校理事長、学監、講師、そして日本アッセンブリー教団理事の重責を担いました。英国紳士然としたクレメント宣教師の立ち姿やブリティシュ・イングリッシュの格調高い明快なメッセージは初期の日本アッセンブリー教団のメンバーや神学生たちに大きな影響を与えたと言われます。彼らの日本での足跡は大きく、決して忘れることの出来ないものです。

ジョン・クレメント


 ジョン・J・クレメントは1907年7月16日に英国南ウェールズのスワンズィーの伝統的なバプテストの家庭に8人兄弟の末っ子として生まれます。母親がペンテコステ教会に通い始めたことをきっかけに、ジョンも母と共にペンテコステ教会に通い始め、1928年に信仰を持ちます。ジョンは地元の警察に就職しようと考えていたのですが、クリスチャンの友人に近郊の町の教会で催されるインドで活動した女性宣教師の集会に誘われます。そこでジョンはその女性宣教師のメッセージにいたく感動し、それまで以上に聖霊の満たしを求めるようになります。彼はそれから六週間後には聖霊体験をし、その後はそれまで以上に路傍伝道などに励んだと言われます。

 それから数ヶ月後にジョンは日本の遊郭で女郎として見せ物のように座らされている若い女性たちの写真を見る機会がありました。それを見たジョンは神様が自分を日本に招いているのだと感じるのです。そして彼は1932年にロンドンにあるハワード・カーターが校長を務める英国アッセンブリー教団のハムプステッド聖書学校に入学します。またロンドン滞在中は有名なマーチン・ロイド・ジョーンズが牧会するスポルジョン・テンプルに通ったと言われます。

 聖書学校での3学期の学びを済ませたジョンは1932年1月にエセックスの教会から牧師に招聘され短期間奉仕しますが、日本へ宣教師として渡るのが神様の御心だと確信し、日本へ宣教師として渡るための献金を募るために巡回伝道を始めます。そして1933年5月19日に按手礼を受けると、1933年6月1日に英国アッセンブリー教団の最初の日本派遣の宣教師として、そして英国イーラム教団の認可も受けて日本に向けて出帆します。東京に着いたジョンはまず豊島の東長崎に居を定め、日本語の習得に精力を注ぎ、時を見つけ大島への宣教旅行にも出かけます。

アン・クレメント

 妻となるアンはジョンより3歳年上で英国のエッセクスで1904年5月17日に生まれます。彼女は1933年に英国アッセンブリー教団から按手礼を受けると、1934年の夏に婚約者のジョンのいる日本に向かいます。東京で再会したジョンとアンは1934年9月6日に滝野川教会(現 神召キリスト教会)で結婚式を挙げます。彼らの結婚式の介添人は奈良県生駒在住のカナダアッセンブリー教団のアーサー・ランドルと滝野川日本聖書教会の弓山喜代馬でした。

クレメント夫妻の クレメント夫妻の クレメント夫妻の クレメント夫妻の 滝野川教会での 滝野川教会での 滝野川教会での 滝野川教会での 結婚式 結婚式 (1934年 9月 6日)

 ジョンとアンはそれぞれ2年間日本語学校へ通い日本語の習得に努めます。伝道所として用いる家屋を見つけるのに苦労しますが、1936年には奥沢(世田谷区玉川奥沢町3の80)に場所を見つけ、奥沢福音伝道館と幼稚園を始めます。彼らの働きに女性伝道師及び幼稚園教師として時末佐賀恵が加わります。奥沢で彼らは日曜学校、平日の夜の集会、婦人会、日曜礼拝、訪問伝道、トラクト配布、英語のバイブルクラスと様々な働きを展開します。ジョンは滝野川教会の特別伝道集会の講師を務めることもあり、また弓山喜代馬が聖霊神学院の神学生たちと共に奥沢に応援伝道に駆けつけることもありました。クレメント夫妻は1937年には荏原町の中延(荏原区中延町1321)で荏原福音伝道館の開拓伝道を始めます。そして開所後まもない荏原福音伝道館を英国アッセンブリー教団から新たに派遣されたディヴィッド・ディヴィス夫妻に託し、1938年には彼らは新たに自由が丘での働きを始めます。

 クレメント夫妻の日本宣教の三本柱は、1)目的:聖書学校の設立と自立教会の開拓、2)祈り:「即ち異邦人が福音によりキリスト・イエスに在りて共に世嗣となり、共に一體となり、共に約束に與る者となる事なり。」(エフェソ書3章6節)、3)モットー:「かくて我が走りしところ勞せしところ空しからず、キリストの日にわれ誇ることを得ん。」(フィリピ書2章16節)でした。

奥沢教会(1930年代)
1923年9月の関東大震災に遭遇するまで横浜を中心に活動していたB. S. モーア夫妻が訪日中だった。

 クレメント夫妻は自分たちの聖書学校を開校することを視野に入れ、そのために献金も捧げ始められ神学生候補も与えられていました。いつも主にあって楽観的な彼らでしたが、戦争の足音が近まり経済的困窮もあって彼らの日本の宣教の現実は厳しいものでした。1938年12月27日にクレメント夫妻の元で働いていた滝野川聖霊神学院出身の斎藤仁男は同僚の時末佐賀恵と結婚します。英国アッセブリー教団としては喜ばしい最初の日本人伝道師カップルの誕生でしたが、新郎の家族は息子の信仰に反対していたために結婚式には出席しませんでした。

斎藤仁男と時末佐賀恵の滝野川教会での結婚式(1938年12月27日)

 クレメント夫妻は訪日する英国アッセンブリー教団の要人たちを度々ホストします。1936年には世界巡回旅行中の英国アッセンブリー教団総理のハワード・カーターと米国アッセンブリー教団所属のエヴァンジェリストのレスター・サムロォルを迎え通訳として日本各地に同行します。関西訪問の際にはカーターが内村誠一と小川裕に按手礼を授けています。また1937年には英国アッセンブリー教団聖書学校教授でペンテコステ派の著名な神学者であるドナルド・ジーを迎えています。また1938年10月には米国アッセンブリー教団宣教師団議長・日本聖書教会理事長のノーマン・バースと共に京城に赴いています。京城で彼らは米国イーラム教会のメアリー・ラムゼイ、英国アッセンブリー教団のルシー・メレディスとリィリアン・ベッシーと協議し、朝鮮五旬節教会の所属問題やリーダーシップに対する考えの不一致を調整します。京城でクレメントとバースは3人の朝鮮人伝道者たちに按手礼を授けています。そのうちの二人は名古屋のジョン・ジュルゲンセンの教会の出身でした。また1940年9月にカール・ジュルゲンセンが軽井沢で亡くなると、ジョンが英国アッセンブリー教団を代表して弔辞を読んでいます。

軽井沢のカール・ジュルゲンセンの葬儀(1940年9月)
棺の左にジョン・クレメントと村井屯二、棺の右にディヴィッド・ディビス、弓山喜代馬、菊地隆之助

 クレメント夫妻とディヴィス夫妻は1935年から1940年までジャパン・クリスチャン・イアブックには英国アッセンブリー教団“Assemblies of God- Great Britain”として登録されますが、彼らの奥沢福音伝道館と荏原福音伝道館は日本聖書教会に一時加入し、その後に単立となっています。戦雲高まる中クレメント夫妻は1940年10月19日に太平洋を渡り休暇帰国の途につきます。斎藤仁男が荏原福音伝道館の牧師になります。日米が開戦するとディヴィス夫妻は強制収容されます。その後斎藤が奥沢福音伝道館の牧師も兼ねます。その後斎藤夫妻は伝道館を閉鎖し岡山に疎開します。戦後になって斎藤は岡山で開拓伝道を始め1949年3月の日本アッセンブリー教団の創立に参加します。

 クレメント夫妻は太平洋を渡りシアトルに着いたものの戦局の悪化によって英国に帰還することを諦めます。シアトルのホテルに逗留していたクレメント夫妻を市内のハリウッド・テンプル(現在のカルバリ・クリスチャン・アッセンブリー)のヘンリー・ネス牧師が訪れます。彼はクレメント夫妻に牧師館に住んで礼拝のメッセージをすること、そして後ノースウェスト大学となった教会内の聖書学校で教えることを依頼します。クレメント夫妻は1943年5月21日に米国アッセンブリー教団ノースウェスト教区から按手礼を受けてシアトルに根を下ろします。1944年からはシアトル周辺の幾つかの教会を牧会しつつ、ノースウェスト聖書学校で宣教学の講師及び理事となります。

 1945年8月に戦争が終結すると英国アッセンブリー教団は日本宣教の再開の鍵はクレメント夫妻であると考え、滞米中のクレメント夫妻と連絡を取って彼らが英国アッセンブリー教団の宣教師として日本に赴く意思があるかを訊ねます。クレメント夫妻は英国アッセンブリー教団が日本宣教の再開に関してどのようなヴィジョンを持っているかを問うのですが、英国アッセンブリー教団の戦後の日本での宣教計画は極めて限られたものでした。その一方1948年初頭に米国アッセンブリー教団がクレメント夫妻に米国アッセンブリー教団の日本宣教師団議長として日本に赴くことを要請します。クレメント夫妻は未だ日本が米国を中心とする連合軍の占領下にあり米国アッセンブリー教団が彼らに提示した日本での新たな明確な宣教計画を評価し、米国アッセンブリー教団の宣教師として日本に帰還することを決心します。クレメント夫妻の決断に英国アッセンブリー教団は失望の念を隠せませんでしたが、クレメント夫妻は彼らが米国アッセンブリー教団所属になっても英国アッセンブリー教団の日本宣教に対して協力することを確約します。クレメント夫妻は米国アッセンブリー教団から1948年3月に日本への宣教師として任命され、1948年7月から日本へ赴く準備をはじめて1949年1月11日シアトルを出帆し再来日を果たします。

 1949年3月18日の日本アッセンブリー教団創立総会において、ジョンは日本における新たなアッセンブリー教団の設立と聖書学校の設立を米国アッセンブリー教団が全面的に支援する旨を明言します。ジョンは創立総会において教団理事及び中央聖書学校の設立の学務委員として選出されると、日本アッセンブリー教団と中央聖書学校の堅固な礎を築くことに専心します。彼は中央聖書学校の学監や理事長の要職にありながらも講解説教の講義をし、神学生たちにウェールズのリバイバルを熱く語り、教団本部と聖書学校の庭の手入れを率先して指導します。アン夫人はアメリカから送られてきた古着を改良して神学生たちのためにあつらえ直すなどの心配りをします。クレメント夫妻は1954年4月24日に帰国の途につきましたが、1955年10月に再来日することができました。そして1957年7月3日に多くの人に惜しまれつつ日本での働きを終えて米国に戻ります。

駒込の教団本部棟献堂式(1950年3月19日)
John J. Clement, “New Headquarter’s Building Dedicated in Tokyo,” Pentecostal Evangel (1950-05-27), 8.

 シアトルに戻るとクレメント夫妻は周辺の幾つかの教会の牧会をし、ジョンはノース・ウェスト教区長などを歴任します。アン夫人を1979年2月6日に亡くすのですが、ジョンは1979年12月2日に長い間夫妻でクレメント夫妻をサポートしていた英国出身のエルシー・クーパー未亡人と再婚します。1982年に引退したジョンは1988年8月12日にワシントン州エドモンズで亡くなっています。

 日本アッセンブリー教団のクレメント師夫妻を送る言葉には以下のような一節があります。「殊に先生が説教家として聖会などの講壇に奉仕された印象は、われわれとしては忘れることのできないもので、その豊富な内容をもち、表現の妙を得て、しかも霊性の高い説教は聴衆を魅了さすに充分で、これこそ同師に与えられた神の賜物という外ない。」また米国アッセンブリー教団のクレメント師の追悼文には「彼は宣教師の中の宣教師、牧師の中の牧師、そして紳士の中の紳士であった」とあります。

クレメント夫妻

📝 記事の感想等は、下方のコメント欄をご利用ください

この記事が気に入ったら
いいねしてね!

お友だちへのシェアにご利用ください!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

感想・コメントはこちらに♪

コメントする