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リアル放蕩息子放浪記③

城市 篤
豊川キリスト教会牧師

放蕩息子の帰郷

リアル放蕩息子放浪記③

 “苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。” (詩編119篇71節)とある。苦しみには出来るだけ会いたくはない。楽な方がきっと幸せなはずだと思うものではないだろうか。この記事を読んでいるユース達の中には、すでに社会に出て働いている方や、まだ働いてはいないけれども、「就活しています!」という人もおられると思う。親などの保護者からある程度守られていた学生と言う立場から離れて社会に出ると言うのは本当に大変な苦しみではないかと私は思う。

 始めて経験することだらけであり、分からない事だらけで、戸惑うことだらけなのである。ちょっと大げさかもしれないが、そのような苦しみの中に成人した途端、放り込まれるのである。しかし、そこから随分な時間を経て後、今は “苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。”と言う御言葉が全くその通りである。あの苦しい時が無ければ主イエスに出会う事も福音を信じ受け入れることも無かったであろう。あの苦しい時があったから、今は本当に幸せであると実感できるし、苦しかったことも決して無駄では無かった。いやそれどころか人生の財産と言っても良い大切な経験であったとさえ、今は思えるのである。

 大学を卒業し、社会に出て8年目。会社を辞めた。退職の理由としては、三六協定などお構いなしの一か月約160時間以上の残業。当たり前のように休日扱いの諸々の会議。大して教えられる事も無くほぼぶっつけ本番でやらなければならない多岐に渡る管理運営業務。ほぼ達成不可能な売上及び利益目標。そして会社内のドロドロの人間関係などなど、あと100個くらいは軽くあげられる。自分でもこんな所でよく8年間もの間、忍耐出来たものだと我ながら感心する。しかし、いくら若くて元気旺盛であったとしても人間の体力と気力には限界がある事も、忘れてはならない真理なのである。心身ともに限界を迎えた私は、あのルカの福音書の放蕩息子よろしく、ふと「我に返ったとき」、単純に「自分は何をやっているのだろうか。何か大事な事を見失っているのではないだろうか。」そして、「そんなに辛いのなら辞めよう!」という事で退職することに至ったのである。この会社での8年間は、私の人生の中ではかなり苦しい期間であった。まさに患難である。しかし、この経験があったからこそ学んだことも多くある。また、その後の人生において時々苦しい時期もあるのだが、そのような時に「○○が・・で苦しいな~、でも、あの時の△△の事を思えば今の方が全然マシ!」と気持ちがポジティブになれたりもするのは、あの8年間の辛い患難の時期がもたらした良い副産物なのである。そういう点ではある意味、とても感謝な出来事でもあるのだ。

 さて、こうして晴れて無職となった私は、しばらく島根県の父のいる実家に身を寄せる事にしようと考え、実家へと向かった。およそ数年振りの帰郷である。出て行く時には、「こんな田舎、もう二度と戻ってくるものか!」という思いで威勢良く出て行ったということもあり、少々ばつが悪いのだが、背に腹は代えられぬ。「親父は何ていうかな~。小言の一つや二つや三つや四つは言われるだろうな~・・」などと少々暗い気持ちになりながらも、いよいよ実家の玄関先まで帰ってきた。緊張の瞬間である。「ただいま~」と恐る恐る入ってみた。親父もちょうど仕事から帰ってきたみたいで、早速ビールを一杯煽りながら「おう!なんじゃ久しいのう。帰ったんか。」と一言。「あの~、実は会社を辞めてきた。」と言うと、「そうか。じゃあ、しばらくはウチにおれるんか?」と言うので「そうさせてもらえると・・」と言う私に「まあ、お前の好きなようにすりゃええ」との事で、晴れて居候することをお許しいただいた。特に父からの小言は無かった。こうして、私は29歳にして「実家暮らしで無職の家事手伝い」となったのである。

 実家暮らしで無職の家事手伝いの私の一日は、意外と規則正しい生活である。朝は6時に起床し、朝食の準備。親父と一緒に朝食を食べたら親父は仕事へ行く。私は後片付けと掃除、洗濯である。その後、必要な買い物をして、夕食の準備をしつつ、ついでに昼食を済ませてお風呂掃除を済ませてしまえば一日のミッションコンプリートである。それ以外は自由時間なのである。そして一日の買い物代と小遣いを含めて3,000円が親父の財布より現金支給されるという仕組みになっていた。初めの頃はなかなか要領がつかめず手間取ったのだが、要領さえつかんでしまえば、かなり自由な時間を作ることも出来るし、金銭的にも上手くやりくりすれば意外と手元に残ることも分かってきた。また前向きと言うべきか、妥協というべきか、判断が難しい所であるが気持ちの面にも変化があった。最初の頃は「早くこんな生活から脱出しなければ!」と何だか力が入っていたように思うのだが、半月も経つ頃には、だんだんと「これは、これでアリかもな。」などと思うようになってきた。これには他の理由もある。我が家は、祖父母も母もすでに亡くなっており、妹も就職で出て行ってしまったため、“孝行息子の自分”が家に居る事を一人暮らしの親父はきっと喜んでいるに違いないと私は勝手に思っていた。そのような訳で、この時の状況は親父にとっても自分にとってもお互いにWin-Winな関係を構築出来ているものだと思っていた私はとても満足していたのだ。しかし、親父はどうもそうではなかったらしい。

 ひと月ほどたったある日の夕食時の事である。いつものように親父が晩酌をしていた所、「お前、このまんまで本当にええんか?」親父の何気ない一言である。おそらく将来に対して何の危機感も持っていないように見えた私を見かねての一言であろう。私は返答に詰まってしまった。私自身としては、将来に不安がないわけではないのだが、正直その不安は見て見ぬふりをしていたのだ。現実を直視すると不安でどうにかなってしまいそうだった。ちょっとマズイかなと思いつつも、その日一日が楽で居心地が良ければそれでいいじゃないかという半ば諦めみたいなものがあった。それを親父に見透かされたような気がしたのだ。その晩は、今後の私自身の身の振り方をどうするべきか、床に入ってからしばらくの間に真剣に考えてみた。そして、一晩考えて「この家を出よう!」と決めた。それは以前のように実家の田舎暮らしが嫌だからという単純なものではない。私は自分自身では一人前の自立した大人になっていたつもりだったのだが、この実家暮らしの中で自分自身の弱さ、甘え、姑息さに気付かされたのである。そして、何より一人前の大人として父に認められたいと言う思いもあった。親と言うのは本当にありがたいし、感謝もしているのだが、同時に大きな壁でもあるのだと思う。自分と見比べてしまうと何とも情けない気持ちにもなってしまうのである。私のそれまでの人生の中で、この頃が最も苦しい時期だったかもしれない。まだ何者にも成れていない、しかし、一人前の何者かになりたいと願いながらも、何だか空回りで上手くいかず、もがいていた苦しい時であった。それでもこの苦しい帰郷の道は、やがて本当の帰郷へと至っていくための、通るべき通過点だったのだ。

次回「放蕩息子の上京物語」に続く

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