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リアル放蕩息子放浪記⑥

城市 篤
豊川キリスト教会牧師

十字架の道

リアル放蕩息子放浪記⑥

“この道を行けば どうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし

踏み出せば その一足が道となり その一足が道となる

迷わず行けよ! 行けばわかるさ! 1、2、3だぁ~!”

これは、私の敬愛する偉大な格闘家の言葉である。

 さて、聖霊のバプテスマを受け、しっかり神様のしるしと不思議を体験はしたものの、まだまだ自分の信仰の足りなさを覚えていた私は、一念発起し、次の就職先に就労するまでの2か月間、自身の信仰をもう一度しっかりとしたものとするために旅に出る事にした。さながら信仰の武者修行である。行く先は沖縄である。決してバカンスではない。

 沖縄に行く切っ掛けとなったのは、当時八王子教会の協力宣教師であった木﨑宣教師が沖縄でティーンチャレンジという薬物・ギャンブル・アルコールなどの依存症を克服するための働きを始めておられたからである。私自身は、ギャンブルや酒・たばこなどは多少やったことがある程度で、身を持ち崩すほどの領域までは踏み込んではいないし、ましてや違法薬物に手を出したことなどただの一度もない。私の周りにもそういう人はいなかった。教会で初めてこの働きを紹介された時は、「本当にこんな人がいるのか!?」まるで、ヤクザ映画の中でしか見たことがないような世界が本当に実在するのだという事と、リアルの世界では、本当に洒落にならない悲惨な事なのだという事に非常に驚いたのだ。そして、その依存症に対して「福音の力」で対抗し、回復からの社会復帰、そして宣教の拡大まで計画しているというのには、私にとってはとてつもない衝撃であった。神様を信じてクリスチャンになってから、自分が普段何気なく読んでいる聖書の御言葉や賛美、祈り、礼拝という普通の信仰生活が、実はとんでもない力を持っているのだというのである。私は実際にこの目で見て、少しでも体験したいという思いもあり、木﨑先生に頼み込んで、ボランティアという事で現地の沖縄ティーンチャレンジセンター(以下、センターと省略する)での2か月間の滞在を許可していただいたという次第である。

 こうして私は沖縄へとやって来た。1月だというのにTシャツで過ごせるぐらい暖かい。流石に沖縄である。私達のセンターでの一日のスケジュールは、だいたい以下の通りである。

平日

6:30 起床
7:00 デボーション(聖書を読んで、感想などを分かち合う)
7:30 朝食及び片付け、身支度
8:30 掃除
9:00 聖書の学び①
10:30 軽作業(草刈りなど)
11:30 昼食準備
12:00 昼食・昼休憩
13:00 聖書の学び②
14:30 運動・買い物など
16:00 シャワータイム・夕食準備
17:00 夕食及び片付け
18:00 協力教会などで祈祷会などあれば参加、または自由時間
21:00 就寝

 土曜日は休み、日曜日は近隣の教会の礼拝に参加する。という感じで、実に規則正しい生活なのである。ちなみにテレビ、インターネット、ゲーム、漫画、一般雑誌などは無い。今現在の私の生活も、多少の難しい所もあるのだが、だいたいこのスケジュールを基にして生活するように努力している。それは規則正しい生活が、健全な生活の基礎だということをこの時よくよく理解した経験からである。

 このような生活のお陰もあり、私にとって心身だけでなく信仰面においても非常に充実したものであった。他にすることが無い事もあるのだが、それまで中々聖書の通読が出来なかったのが噓のように通読が捗り、一か月ほどで聖書の全巻通読をする事が出来たのである。御言葉を暗唱する事も集中してしっかりと出来るのも良かった。これも他にすることが無いからである。祈りにおいても非常に充実したものである。起床時間よりも1時間ほど早起きしての早天祈祷に始まり、日中は事ある毎に祈り、就寝前にもしっかりと祈るという習慣が自然と身に着いた。これもまた他にすることがないからである。

 このような生活の中で私の信仰生活は劇的に変化していったのである。そして、この頃から神様を非常に身近に感じるようになってきた。私は暇さえあれば聖書を読んでいたのだが、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい。」(マタイ16:24)この聖書の一節が強烈に私の心をとらえたのである。それは、イエス様が直接私に呼びかけ、招いているように思えてならなかったのである。

 私はこの神様からのお招きに対して、今考えれば大変申し訳ない事であるが、祈りの中でいつも丁重にお断りをしていた。「神様、すみません。私は無理です。他を当たってください。・・」という具合である。私は、自分自身のやりたいことなどを捨てて、自分の人生を全て神様に捧げて、自分に死んで主と共に十字架を背負って生きるなど、とても恐ろしい事のような気がしたのである。また自分のような全くの未熟な者が、自分よりも信仰年数が何倍もあるような人達の前で神様の御言葉を取り次いで福音を語るなどという姿を全く想像できなかった。自分は社会の中でしっかりと働き、忠実に教会に仕えていくのが性に合っているとも思っていたからである。しかし、何度も丁重にお断りしてもこの神様からのこの強烈な招きの呼びかけが頭から消える事はなかったのである。

 そんなことをしながら過ごしていたある日、事件は起こってしまった。ある一人の少年が私たちのセンターにやって来たのが事の発端である。細かい説明は省くが、少年の家族から相談を受け、当センターで預かる事となったのである。彼は話しかけてもあまり答えてくれず、コミュニケーションをとることは中々困難であった。また、聖書を読むとか、お祈りするという信仰的な生活も初めてだったのだろう。かなり違和感を覚えているのだろうという印象であった。「まあ一日目だし、こんなものだろう。時間が経てば慣れてくれるだろう。」と思い、その日は就寝となった。夜の9時に就寝するなど、彼の普段の生活からは、あり得ない時間だったのだろう。二段ベッドの上に寝ている彼は中々寝付けない様子であった。私は昼間の疲れもあり、ぐっすり寝てしまったのだが、真夜中を過ぎたころ突然の怒号で叩き起こされたのである。気が付くと懐中電灯を持った数人の男が慌てた様子で何事か喚いている。「ここに人がいるぞ!大丈夫か!すぐに起きろ!・・%△#?%◎&@□!」寝ぼけていたのもあり、全く理解が追い付かない状況である。後で分かったことだが、どうやらあの少年による放火未遂事件に巻き込まれたという事だったようだ。ちなみに110番通報はあの少年がしてくれたという事も後で分かった事である。そういうわけで、勇敢な警察官数名が救助のために駆けつけてくれたということだったのだが、これで良かった良かったとはいかなかったのである。このあと、私たちは取り調べのために警察署に連れていかれる事となったのである。

 センターでは当時、少年を除けば私を入れて3人が生活していたのだが、警察官の目には完全に怪しいものに見えたのであろう。私達3人はそれぞれ別々のパトカーに乗せられ、警察署へと向かった。取り調べも3人別々の部屋で行われた。誰かと相談するどころか、全く接触も出来ない状況である。私の取り調べが始まった。「えーと、お名前と年齢、あと免許証とかあったら見せて・・仕事は?・・皆さんはどういう関係?」と一通りテンプレの質問のあと、「あなた、東京から来たんだよね、何であそこにいたの?」と聞かれた。私はすっと答えることが出来なかった。「えーっと、何でだろう?ボランティアで来たような気もするし・・、訓練かなぁ・・、暇だったから遊びに来たっていう側面もあるような・・、何だろう・・」と、我ながら何とも煮え切らない受け答えであった。取り調べをした警官も「はあ、そうですか。・・・」と、益々怪しんでいるようであった。そして「しばらく、お待ちください。」と言ってどこかに行ってしまった。その後しばらくすると、今度は別の警官による取り調べがはじまった。質問の内容は前回と全く同じである。私はまたしても「・・何でここにいるんだろう?えーっと、何か色々ありまして・・」などと、これまた前回同様、モゴモゴと煮え切らない答弁をしていた。明け方近くまで、こんなやり取りを3、4回ほど繰り返したのである。

 長い待ち時間の間、私は祈って過ごしていたのだが、その祈りの中で一つ頭に浮かんできたことがあった。「これはもしかしたら、神様が私に決心を迫っているのではないかな?」というものである。正直な所、「ここまでするか?」という気持ちもあったのだが、何か確信というか、自分の十字架を背負ってイエス様に従う覚悟を決めなければいけないような気持ちになったのである。そして、また取り調べがはじまった。「あなたは、なぜあの場所にいたのですか?」全く同じ質問である。この質問に対して、今度ははっきりと応答する事が出来た。「私はクリスチャンで、神様を信じています。私は神様の働きをしたいと願っていて、そのための訓練と思ってここに来ました。今まで中々自信が無くて、モゴモゴ言っててすみませんでした。でもお陰で腹が決まりました。私はこれから、神学校に行って、将来は牧師になろうと思っています。・・・」と言うような決心の告白を目の前にいる名前も知らない警官にしたのである。唐突な献身告白を聞かされて警官も一瞬ポカンとしていたが、「・・そうでしたか。私にはよくは分りませんが、それは素晴らしい事だと思います。頑張ってください。もう大丈夫だと思います。安心してください。もうすぐ帰れますよ。」との事だった。私の心に平安がきた。

 空はすっかり明るくなり、長い一夜が明けた。他の2人も嫌疑が晴れたようで解放されていた。帰りは三人一緒にパトカーで送ってもらった。戦いを終え、自分の持っていた何かを捨てたはずなのだけれども、何かを勝ち取ったような、何とも晴れやかな気分であった。

 私はこのあと幾日かして、東京へ戻った。母教会の牧師に献身思いが与えられた事、そしてそのために翌年に神学校に入りたいという事を相談し、一年間の教会に住み込んでの訓練の後、翌年、晴れて神学校に入学する事となったのである。その後、何とか無事に3年間の学びを終えて、現在、伝道牧会している豊川キリスト教会に赴任し、現在にいたるのである。

 これらの事が、私の献身の証しです。ここまで長きに渡り、私の証しにお付き合いいただき心から感謝をいたします。今回のような機会をいただき改めて私の人生を振り返る中で、神様がどれほど大きな憐みと恵みを注ぎ続けてくださったのかを思い出させていただく機会となりました。まことに神様の計画は計り知れないものであります。

 しかし、それは私だけの事ではないのであります。イエス様を信じる全てのクリスチャンの信仰の歩みは、すなわち献身の歩みそのものであり、一人ひとりに背負うべき十字架(使命)があるのです。ある人は牧師伝道師という道もあるでしょう、またある人は社会において世の光・地の塩としてイエス様を証しをする道もあるのです。私のような自分のためだけに生きていたような放蕩息子が、主のために生きる者に変えられ、主が用いてくださいました。そして、あなたをも用いたいと主は願っておられるのです。あなたにしかできないこと、あなたでなければ伝えることが出来ない証しがあるのです。たった一度の人生です。主のために、主と共に生きることの真の幸いをしっかりと握りしめていただきたいと切に願うのであります。

 皆さんが今いる学校、職場、もしかしたら少し嫌な所や不満もあるかも知れません。しかし、それも神様の遠大な計画の一つであると信じていただきたいのです。無駄な事は何一つありません。そこにも神様が願っていることが必ずあるはずなのです。誰一人として不必要な人はいません。あなたは神様が愛してやまない、素晴らしい神の作品なのです。なぜなら神様に失敗はないからです。どうぞ、安心して信仰の確信をもってあなたの道を主と共に踏み出してください。皆様の信仰の歩みが主にあって祝福に満ちたものとなりますよう心からお祈りいたします。栄光在主

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