放蕩息子の上京物語
リアル放蕩息子放浪記④
割と居心地の良かった実家暮らし無職の家事手伝いの日々は終わりを迎えようとしていた。20代最後の歳に転職活動をする事となったのだ。論語に「三十にして立つ・・」とあるが、私はまさにそんな心持であり、多少の不安はあったが何とも言えない高揚感があった。何か新しい事が始まる予感である。「オラ、何だかワクワクすっぞ!」という某有名マンガの主人公が言いそうな台詞が思わず出てしまいそうだ。
早速、私は張り切ってネットで求人サイトを検索しまくり、良さげな求人に片っ端からエントリーしまくってみた。はっきりとは覚えてはいないが、おおよそ50社程度にはなったと思う。その中にはかなり怪しい会社もあったりしたのだが、当時の私にはそんな事は全く分からないわけで、今考えると恐ろしいものである。読者のユース諸君も会社選びはくれぐれも慎重にしてもらいたいものだ。
改めて転職活動をして気付いたことは、日本全国に様々な会社があるのだが、東京は群を抜いて圧倒的に求人が多かったということだ。どうりで多くの人が東京に行くわけである。50社ほどに応募して書類審査を突破して面接までこぎつけたのは4社であった。その4社全てが東京の会社であった。そんなわけで、いざ東京へと行くこととなったのである。この時の私が東京に行くのは従妹の結婚式以来、実に5年ぶりである。少し浮かれながら準備を進めている時、ふと一人の友人の顔が頭に浮かんできた。大学時代の同級生R君である。(第2回「はじめての福音」参照)風の噂には結婚して元気にしているらしいのだが、「まだクリスチャンをやっているのだろうか?」と気になりつつ、連絡を取ってみた。幸いなことに携帯番号は変わってはいなかった。
「お~、城市、久しぶりじゃん!お前、今何やってんの?・・」、「いや~、実は俺、会社辞めちゃったんだよね、いま転職活動中でなぁ、こんど東京行くことになってぇ~・・」などと旧交を温めていた所、「お前東京に来るんだったらさぁ、クリスマスだし教会行かね?」と言ってきたのだ。彼はその時、通っている八王子教会の近くに住んで、都内の会社に通勤しているのだそうだ。R君が相変わらずクリスチャンであると言うことが確認出来た。なんだか、懐かしくもあり、嬉しくもあり、である。そして、全くたまたまなのだが、ちょうど面接の時がクリスマスを前後に挟んで行われると言うこともあり、その年のクリスマスは彼の通っている八王子教会に行くことを彼と約束したのである。ちょっとした同窓会気分であった。
そして、いよいよ東京での転職活動が始まった。池袋にある格安のビジネスホテルに滞在しながら、クリスマスを含め2週間、何とか漕ぎつけた4社の面接に臨んだのである。しかし、結果はあまり良いものではなかった。クリスマス前に3社の面接を受けたのだが、不採用もしくは、「アルバイトからなら採用しても良いけど・・」とか、現実の厳しさを目の当たりにする事となったのである。「これはダメかもしれない・・」私の中では、完全に諦めムードが漂っていた。3社目の不採用通知をもらって、ひとしきり落ち込んだ後、R君と久し振りの再会を果たした。新宿駅の近くにある横丁で焼き鳥をつまみながら、懐かしい昔話と互いの近況報告で話に花が咲いた。
そして次の日の夕方、八王子教会へと足を運んだ。都心から八王子までは結構な距離がある。R君の実家は都心にあるのだが、学生の頃はわざわざ電車に乗って八王子教会に通っていたそうである。社会人となってからは、教会に通うために八王子に住み、そこから都心に通勤しているのだというから驚きである。週に1、2回通う教会と、毎日行かなければならない会社ならば、生活の中心は、おのずと会社になるのではないかと思うのだが、私とは全く異なる判断基準を彼は持っているようなのである。R君にとっては教会こそが生活の中心なのであろう。八王子までの電車から見える景色を眺めながら、これも信仰のなせる業なのだろうといささか感心したのである。
やはりクリスマスは、教会で最も大きなイベントなのであろう。その年は日付と曜日の関係もあるのだが、金曜日の夜はユースのクリスマス集会、土曜日の夜はクリスマスキャンドル礼拝、そして日曜日はクリスマス礼拝と三日間ぶっ続けでクリスマス礼拝が行われていた。私は一日目のユースのクリスマス集会だけ参加するつもりであったのだが、あまりの教会の居心地の良さと、人々の温かさに触れ、結局三日間教会に泊まらせていただく事になり、すべての礼拝に参加したのである。今、思い返してみて、この日が私の人生の大きな転機であった。それは二日目の夜の礼拝の時であった。その時の礼拝は何か不思議な雰囲気があった。そして牧師が読んだ聖書の一節が強烈に心に迫ってきたのである。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカの福音書2章11節)
私はそれまで神様を本気で必要だと思った事はなく、自分の力で何でも出来ると本気で信じていた。礼拝の中で牧師の話を聞きながら、これまでの自分自身の生き方を思い返していた。無頼を気取ってはいたが、つくづく自分勝手な自己中野郎であり、いやらしさと欲にまみれた人生を送って来たものだなと改めて気づかされたのだ。聖書ではそれが人間の持っている罪だと言うのだ。私は自分がどうしようもない罪人であると自覚した。しかし、このどうしようもない罪人である「私」を救うために、神様は救い主であるイエス様をこの地上に遣わされたというのだ。その事を信じて受け入れるならば、どんな罪人であっても必ず救われるのだというのである。
この言葉を聞いて私は何か胸にこみ上げてくるものがあり、ちょっと泣きそうになった。感動で心が震えたのだ。その礼拝の中での感動は今でもしっかりと覚えている。その時、私は「この神様を信じたい。信じることが出来るようにして欲しい。」と心の中で願ったのだ。説教の最後に、牧師が「今日、イエス様を私の救い主として信じたいと願っておられる方はいますか?その方はどうぞ手を挙げてください。」という言葉に、私は迷わず手を挙げた。「では、その方々のためにお祈りします。・・・」と牧師は祈ってくださった。「・・アーメン!」この時、私の中で明らかに何かが変わった確信があったのだ。信仰が生まれた瞬間である。
次回 「歌いつつ主と共に歩む驚くばかりの恵み」
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