日本訪問記に見る日本のペンテコステ運動
鈴木正和
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師
日本のペンテコステ運動は陸の孤島ではありませんでした。宣教地に赴く際や帰国の際に日本に立ち寄るペンテコステ派の宣教師や巡回視察に訪れるペンテコステ派のリーダーたちがいました。私たちは彼らの日本訪問記によって当時の日本のペンコステ運動の状況を垣間見ることができます。
マーガレット・ダニエルズ Margaret Daniels
キャリー・ジャッド・モンゴメリー Carrie Judd Montgomery
ペンテコステ運動が神癒の伝道やホーリネス運動から派生したこともあり、近代ペンテコステ運動初期の日本訪問者はホーリネス派とペンテコステ派の双方と交流を持っていました。ホーリネス派の伝道者マーガレット・ダニエルズが1908年に日本を訪問した際には彼女を横浜でホーリネス派の中田重治とペンテコステ派のM. L. ライアンが共に出迎えています。癒しの伝道で有名なキャリー・ジャッド・モンゴメリーが1909年に日本を訪問の際には、笹尾鉄三郎(小さき群及びホーリネス伝道者)と旧交を暖め、その後M. L. ライアンの訪問を試みています。
ミルドレッド・エワーズ Mildred Edwards
ニューヨーク州のペンテコステ派のイーラム・タバナクルのミルドレッド・エワーズは1918年に来日し、東京、神戸、岡山に2ヶ月滞在します。彼女の訪問記によって東京のエステラ・バーナーやカール・ジュルゲンセン、神戸や岡山のウィリアム・テーラー夫妻の働きの様子がわかります。
1918年10月3日に横浜に入港したエドワーズは二人の日本人教職に出迎えられて東京神田のバーナーの元に向かい、そこで5週間過ごします。バーナーの元には多くの大学生が訪れており、バーナーは英語の聖書の学びを通して彼らに伝道します。バーナーは他にも子供の日曜学校や大人の日曜礼拝を持っていました。その後エドワーズは東京本郷のカール・ジュルゲンセンの元に向かい彼らの働きを見学します。そこでは16歳になったばかりの娘のマリアが日本語を習得して父母の働きを助けていました。エドワーズはマリアが「世界で最も忙しい忠実な宣教師の一人だ」と述べています。そして具体的にマリアの生活ぶりをこのように記しています。
これが彼女(マリア)の忙しい一日の例です。土曜日の午後、教会学校のために彼らのホームミッションに40人の子供たちが集まります。小さなマリアが校長で教師で全てです。土曜日の夜にはホームミッションで集会があります。日曜日の朝には大きな教会学校を第二ミッションで持ち多くの子供たちが畳の上に座り廊下に立っています。100人以上の子供たちがいますが、この小さな宣教師がイエス様の大切な宝物の子供たちに伝道している時に、聖霊様が支配され神の言葉が語られます。そして彼らの小さい顔が輝き大きな声で歌を歌い彼らの教師に応答します。
教会学校の後には大人のための礼拝があり、ジュルゲンセン兄弟が説教をし、彼の脇にこの親愛なる忠実な小さな通訳者が立ち、ただ語られる言葉を追うだけでなくメッセージの神髄を、“同じ霊”で一時間以上も語ります。それから家で食事をしてすぐに彼らはもう一つのミッションで150人の大きな教会学校を持ち、その後再び礼拝をしますがこの時も彼女が通訳をします。
それから食事を取りその後再び収穫の畠に向かい、もう一つの伝道集会をし、その後神様を求めイエスを見つける時を持ちます。
夜遅く家に戻ります。疲れますか?もちろんです、5つの集会をするのですから。しかし主のためにこれらの大切な働き人たちは快適な家よりも集会を望み、この小さなマリアは5つの集会から帰ってくると、会堂の中に布団をしき食堂を片付けて眠る場所を確保しなければなりません。しかし彼女は一言もつぶやかず砕かれた霊により主の謙遜さを持っています。
[Mildred Edwards, “Co-laborers with Him: A Glimpse of Pentecost in Japan,” Pentecostal Evangel (1919-05-03), 8.]
東京を後にしたエドワーズは関西に向かい神戸のテーラー夫妻を訪ねます。テーラー夫妻は神戸を拠点に大阪や岡山でも伝道しており、エドワーズは神戸には長く留まらず岡山に向かいます。神戸のウィリアム・テーラーは、息子ハドソンと娘エスターの面倒を見ながら宣教活動の他に出版や家事ととても忙しくしていました。岡山ではメアリー・テーラーが神戸の遊郭から救いに導いた女性たちを伝道者として訓練しつつ宣教活動に勤しんでいました。メアリー夫人は彼女たちにそれぞれの性格にあったクリスチャンネームを与えて、Grace(恩恵)Peace(平安)Joy(喜び)Love(愛)Patience(忍耐)Dorcas(ドルカス)Mercy(慈しみ)Truth(真理)などと呼んでいました。1918年の夏から日本伝道隊のJ.B.ソーントン(後に兵庫県柏原で日本聖書義塾を開校)が5ヶ月間に及ぶ天幕集会を開いていましたが、メアリー夫人たちは彼の働きを助けていました。
エドワーズは岡山でのメアリー・テーラーの活動をこのように記しています。
メアリー夫人たちは普通の日本家屋に住み、彼女たちの一日は6時の早天祈祷で始まります。メアリー夫人は婦人伝道師たちよりもずっと前に起きて自分のディボーションの時を持っています。日曜日には朝9時に日曜学校が始まり、10時半から聖餐式と説教があり、それは午後1時から2時に終わります。彼女たちは昼食を取らずに路傍と集会場での夕礼拝を持ちます。火曜日と水曜日の夜は町のはずれの集会場で集会を持ちます。まず子供たちの教会学校をしてから大人のための伝道集会をします。その後癒しの祈祷会をすることもあります。水曜日には近くの集会場で集会をもち、木曜日は断食してメアリー夫人などに導かれる待望会があり、夜にはスタッフ会議を持ちます。金曜日には婦人伝道師たちと西大寺に行ってトラクト配布や戸別訪問をし、夕方には路傍伝道と集会場での集会を持ちます。また女工伝道をしたり他の宣教師の伝道を支援し婦人伝道師たちが子供伝道に携わります。メアリー夫人には素晴らしい小川誠という助手の通訳者がおり、英語で自由にメッセージを取り継ぐことができます。土曜日には待望と休息の時です。
岡山でのメアリー・テーラーの働きをエドワーズは次のようにまとめます。
「祈りと御言葉の奉仕」とがあまりに完全に調和しているなんと祝福された働きであろうか。私にとってこの働きの主な特徴は、働き人と信徒との祝福された一致と愛の関係だろう。
ハワード・カーター Howard Carter と レスター・サムロール Lester Sumrall
数ある訪問者の中で特に注目を集めたのはハワード・カーターとレスター・サムロールの訪問でした。英国アッセンブリー教団議長であり聖書学校校長であったカーターは米国での宣教旅行中に米国人の巡回伝道者であったサムロールと出会い意気投合します。彼らは親子ほどの歳の差がありましたがペアを組み 1934年から2年ほど世界各地を共に巡回伝道し各地に大きな足跡を残しています。当初1935年7月頃の来日の予定でしたが半年ほどずれ込み、1935年の11月から1936年1月にかけて8週間日本各地を訪問します。当時の日本は満州国のこともあり世界から注視されていました。
彼らの旅行行程は東京から西に下り浜松、名古屋、京都、大阪、神戸を訪問し、その後下関から朝鮮の釜山に行くものでした。東京周辺の訪問は英国アッセンブリー教団のジョン・クレメント夫妻がガイドとして彼らに付き添いました。彼らは東京周辺に二週間程滞在し21回も集会を持ちました。東京の滝野川教会に弓山喜代馬とジュルゲンセン一家を訪れ伝道集会を持ち決心者が起こされます。カーターはルカによる福音書19章のミナの譬えから「忠実な僕」という題のメッセージを語り『永遠の御霊』誌に要約が掲載されています。
この写真には当時の関東のペンテコステ派宣教師、日本人教職及び神学生の多くが参集しています。
前列中央にハワード・カーターとレスター・サムロール、その左側に弓山喜代馬、カール・ジュルゲンセン、村井、田中篤二、鈴木多三、菊池隆之助、他にもマリア・ジュルゲンセン、ジョン・クレメント夫妻、ディヴィッド・ディヴィーズ夫妻、フレデリケ・ジュルゲンセン、ノーマン・バース夫妻の顔も見えます。
通訳者は弓山喜代馬、壇上にレスター・サムロールが座っています。
また滝野川では聖霊神学院の神学生たちと交流を持ちます。弓山校長は通常の授業を取りやめて、カーターは「聖霊の賜物」の特別講義をします。夕方の集会には近隣のペンテコステ派の宣教師、教職者、クリスチャンたちが集い聖霊待望会を持ち5人が聖霊体験をしています。その後彼らは立川のハリエット・デスリッジを訪問し、彼女の教会、幼稚園、そして開拓伝道の様子を視察します。立川の集会でも決心者が起こされます。デスリッジの働きは癒しの祈りから始まり心臓発作やリューマチから癒される人が起こされていました。カーターらの訪問中にも癒しの集会がもたれ、多くの人が癒しを求めて集まりました。巣鴨大塚では村井屯二に迎えられ、村井はカーターのメッセージを通して日本の霊的必要に対する大きなヴィジョンを得たと言います。横浜ではノーマン・バースと伊藤智留吉に迎えられ、教会の集会でも悔い改める人が起こされました。
その後彼らは音楽の町と言われていた浜松に行き、アグネス・ジュルゲンセンと菊地隆之助に迎えられます。浜松での集会には連日多くの人たちが集まり12人の決心者が起こされました。そこから新興の港町の名古屋に向かいジョン・ジュルゲンセン夫妻に迎えられます。彼らは教会と新しく建てられた公会堂で集会を持ちとても多くの子供たちが集まりました。他にも英語のわかる人たちのために通訳なしの集会も持ちました。
次に彼らは京都に向かい独立伝道者の小川裕を訪れます。カーターは伝道者となって数年たっている小川裕と彼の仲間である内村誠一に按手礼を授け、彼らに牧師として教会とキリストに対する勤めの話をしました。その後は教職者たちのための集まりで会衆を正しく導けるようにペンテコステ派の教理について教えました。産業の町である大阪の玉造の沖千代の教会では夜に集会が持たれ多くの人たちが集まり4人の決心者が与えられました。また京都の交流センターでは日本人の学生たちと交流を持ちました。
彼らは1936年の新年に奈良の生駒のレオナード・クートの新年聖会に訪れ、そこには朝鮮半島出身者や日本人、そして幾つもの国の宣教師が集まっていました。神戸では多くの女性を救出し更生してきたことで有名なメアリー・テーラー夫人の「希望の門」を訪問し、そこで彼女の働きを助ける三好誠たちに按手礼を授けます。また西宮の「子供の家」では孤児たちが聖霊を受けるように祈り4人が聖霊体験をしました。また神戸のユニオンチャーチでも話をしています。そこから彼らは船で瀬戸内海を旅して下関に向かい、そこから釜山に渡ります。
カーターやサムロールが興味深く思った日本の慣習は、家に入る前に靴を脱いでスリッパに履き替えること、集会では椅子ではなく床に座ること、お風呂の入り方や挨拶の仕方でした。人に会う時の挨拶はお辞儀で始まりお辞儀で終わり、彼らは婦人たちとは握手をせずに軽く礼をするのが良いということを習いました。集会に集まった6、7歳の女の子が背中に弟か妹をおぶって集会中に立ち上がってあやしている姿も彼らにとっては新鮮でした。
フレッド・ヴォグラー Fred Vogler
1937年にはカンザス州教区長及び米国アッセンブリー教団副総理であったフレッド・ヴォグラーがアジア・オセアニアに派遣されている宣教師を支援する際に夫人と共に日本を1ヶ月ほど訪問します。その間に彼らは横浜の伊藤智留吉に按手礼を授け、甲府教会と八王子教会献堂式に参加し、滝野川教会や名古屋教会で集会を持ちます。名古屋のジョン・ジュルゲンセンはヴォグラーの集会で聖霊体験をする人たちが何人も起こされたと報告しています。
ドナルド・ジー Donald Gee
中央がドナルド・ジー、左側がジョン・クレメント夫妻、右側がディヴィット・ディヴィーズ夫妻
“Donald Gee In Japan,” Redemption Tidings (1938-02-11), 14.
初期のペンテコステ派の著名な聖書学者で英国アッセンブリー教団副議長のドナルド・ジーも日本を訪問しています。当時のペンコステ派の聖書学の基本テキストであったジーの著作は中央聖書神学校の図書館に何冊も残されています。ジーは1937年に10月29日に来日し、横浜で英国アッセンブリー教団のジョン・クレメント夫妻とデイビッド・ディビーズ夫妻をはじめ米国アッセンブリー教団の宣教師たちに出迎えられます。東京ではクレメント夫妻とディビーズ夫妻との旧交暖め、その後カール・ジュルゲンセンや英国アッセンブリー教団の宣教師たちと集会を持っています。ジーはクレメント夫妻とディビース夫妻の訪問を通し、彼らが「ヴィジョンと信仰と叡智を備え、遣わされた地の状況をしっかり理解することを目的とする正しい種類の宣教師」だと述べています。横浜から神戸に向かう船には英国人の独立宣教師であったエマ・ゲールが同乗しています。
ジーは中国を訪問した後に北京から三日かけ朝鮮を経て再来日します。京城では英国アッセンブリー教団のメレディスとヴェシーを訪問しています。土曜の夜に神戸について休息したジーは翌日の日曜礼拝で聖霊の臨在に満たされた集会を持ち、集会の後の祈祷会は聖霊の臨在に満たされものでした。関西では西宮のフローレンス・バイヤスの「子供の家」孤児院を訪問し、小川裕、内村誠一や沖千代らとも交流を持ちます。その後7人のペンテコステ派宣教師(米国人2人、カナダ人1人、スウェーデン人、英国人3人)と油注がれた集会を持ったと報告しています。神戸から横浜に向かい横浜ではノーマン・バースが彼を出迎えています。その後バース夫妻、カール・ジュルゲンセン一家や英国アッセンブリー教団宣教師たちと集会を持っています。
日本国内に現資料が残されていなくても、このように日本のペンテコステ運動の状況を日本への訪問者の旅行記から垣間見ることができるのです。
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