日本への最初のペンテコステ派の宣教師たち
鈴木正和
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師
マーティン・L・ライアン、そして コラ・フリッチ と バーサ・ミリガン
長らく日本における近代ペンテコステ運動と日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の始祖は、1913年8月11日に来日したカール・F・ジュルゲンセン(Carl F. Juergensen)一家だと言われきましたが、実際にはそうではなく日本のペンテコステ運動の嚆矢は1907年9月27日に横浜に上陸したマーティン・L・ライアン(Matin L. Ryan)に率いられた宣教師団でした。彼らの働きは「アポストリック・ライト」「アポストリック・フェイス」と呼ばれました。彼らの日本での宣教活動は長くはありませんでしたが、このライアンに率いられた宣教師団は日本のペンテコステ運動史にどのような足跡を残したのでしょうか。ライアンと宣教師団のメンバーのコラ・フリッチとバーサ・ミリガンに焦点をあてて見てみましょう。
来日以前
マーティン・L・ライアン「1869-1963]は1869年5月17日にミシガン州で生まれ、1893年にカリフォルニア州でロウェナ(Rowena Holden)[1869-1952]と結婚し、来日前に4人の息子をもうけています。ライアンは1890年代に急進的ホーリネス派(Apostolic Holiness Mission)の牧師となり、1900年初頭にはオレゴン州セーレムで牧会しつつ聖書学校を運営し、『アポストリック・ライト』(Apostolic Light)という機関誌を発行していました。ライアンはロサンジェルス市アズサストリートのアポストリック・フェイス・ミッションの発行する『アポストリック・フェイス』(Apostolic Faith)誌の熱心な読者で、アズサストリートでの聖霊の働きに強い興味を持ち、1906年の秋には自らアズサストリートを訪れ、そこで聖霊体験をしています。アズサストリートでのライアンの体験を『アポストリック・フェイス』誌は以下のように記しています。
ライアン師が、...突然アズサストリートの出版事務所を訪れた。二言三言の挨拶を交わした後にすぐに2階の集会に行き、到着後2時間で聖霊のバプテスマを受けて聖霊の力で語り歌った。
この時にライアンはヘブル語と中国語を語ったと言います。セーレムに戻るとライアンはすぐに聖霊体験を生かした新しい働きを始めます。セーレムでまずライアンの継母であるシプリー夫人やその夫も聖霊体験をします。そして11月24日にはライアンの妻も聖霊体験をします。その後アズサストリートからクロフォード夫人など6人がセーレムに応援伝道に訪れています。そのうちの一人は黒人女性のワイリー夫人でした。アズサストリート同様にセーレムでの初期ペンテコステ派の宣教活動には人種の隔たりがありませんでした。
ライアンは1907年初頭に本拠をセーレムからオレゴン州ポートランドへ移しますが、ポートランドに長くは留まらず、すぐに活動拠点をワシントン州スポケンに移しています。それはスポケン周辺で、ミッショナリー・アライアンスの群れを中心に聖霊体験をした多くの人たちがいたからです。ライアンはその人たちを指導するためにスポケンに赴きます。
ライアンがスポケンに渡ってから僅か3ヶ月の1907年春に、彼は同信の仲間たちと「アポストリック・アッセンブリー・オブ・スポケン 」(Apostolic Assembly of Spokane, Washington)という名の教会を設立します。設立メンバーの多くはスポケンと周囲のラタ、スプレイグ、モンドヴィ、リアダン、エドオールなどに居住していました。彼らは初期の他のペンテコステ派と同様に、聖霊体験を通して与えられた異言が外国語であり、世界宣教が一人一人に与えられた使命だと考えました。そしてそれぞれが日本、中国、朝鮮、インド、フィリピン、ハワイ、ノルウェー、スウェーデン、アイスランド、オランダ、アフリカなどへ神様の召された宣教地だと思っていました。彼らは宣教師になるためには通常の神学校の教育や外国語の学習などは全く必要ないと考えていました。
1907年7月にライアンたちは「神からの直接啓示」によって、秋にはアジア宣教に旅立つことを予告すると、多くの人々は驚きをもって受け止めます。多くの新聞に彼らの宣教計画の記事が掲載されますが、見出しには「世界のために家族との全ての絆を切る」「誰もその言語を理解できないが、固い信仰によって任務を遂行する」「スポケンの宣教師たちが現金もなく外国での仕事に従事する」などとあり、周囲からとても奇異に見られます。アポストリック・アッセンブリー・オブ・スポケンの会衆はスポケン周辺をあわせて100人足らずで、多くは農業従事者で経済的には平均して中流以下でした。彼らは特にだれかに宣教資金の献金を求めることはなく、出航までに生きていくために必要なものだけを残し、神に示されるまま全てを宣教基金に献げました。
日本への旅立ち
ライアンたちがスポケンを出発する前日の8月27日には送別のための特別な天幕集会がもたれ、翌日ライアンたちはスポケン駅を「喜びの叫び、涙、祈り、そして讃美歌が混じり合う中で」家族に見送られて旅立って行きます。多くの人々がスポケンの駅頭で彼らを送りだし、中には列車の窓越しにそれぞれの思いを献金の形で手渡す人もいました。彼らは主の再臨は近いと信じ、これが家族とは今生の別れと覚悟し片道切符の宣教師の自覚を持っていました。ライアンたちはシアトルから9月12日にミネソタ号に乗船し日本に向けて出航します。
このライアンに導かれた一行は、大人14名子ども8名の総勢22名(4家族)でした。ライアン夫妻と3人の子どもたち、コライアー夫妻と2人の子どもたち、ロウラー夫妻 と2人の子供たち、マクドナルド夫妻、ライリー、そしてロー、ピットマン、フリッチ、ミリガン、キャラハンの5人の独身女性たちでした。来日前の彼らの職業や年齢はまちまちで、神学的訓練や牧会経験があったのはライアンのみでした。大人13人の最年長がライリーの53歳、そして最年少がフリッチの18歳でした。
ライアンたち一行 (1907)
前列左から: Leonard Colyar, Marion Colyar, Paul Ryan, Lester Ryan, Fay Harland Lawler, Estell Beatrice Lawler.
2列目左から: Edith M. Colyar, Rowena E. Ryan (膝の上Arthur Ryan), Martin L. Ryan, Homer L. Lawler, Emma B. Lawler.
3列目左から: William A. Colyar, Rosa Pittman, Cora Fritsch, Edward Riley, Eliza May Law, Lillian Callahan, Bertha Milligan, Vinnie M. McDonald, Archibald W. McDonald
*ライアン夫妻にはアールという8歳になる息子がいたが写真には入っていない。
【フラワー・ペンテコスタル・ヘリテージ・センター所蔵 】
日本での活動
メンバーの一人であるフリッチは太平洋を渡る船上で、同船の他派の宣教師たちによってホーリー・ローラーズ (Holy Rollers) と蔑まれたことを「気持ちの良いものではなかった」と記しています。また船中、ライアンは与えられた異言が日本語であるか試したりもしています。ライアンたちは9月27日に横浜に上陸します。
ライアンたちが最初に直面したのは入管税の支払いでした。彼らの主な持ちものは大きなテントとアポストリック・ライト誌の発行のための印刷機材だけでしたが、それらの入管税150ドル支払う必要があり、もう少しで没収されるところだったといいます。米国から多くの人の祈りのうちに送り出されたのですが、日本での彼らの生活はその後も財政面では恒常的に圧迫されていました。来日後の彼らは一カ所にまとまって住むことをせずに、東京の数カ所に分散して住み、独身女性たちは他の家族と同居しています。経済的状況によりライアン一家とマクドナルド夫妻は1908年初頭には横浜の本牧(山下町)に移りますが、1908年末には東京に戻っています。コライア夫妻は1908年夏にキャラハンと共に短期間仙台に移住しています。
宣教師団資料
【姓名、出生年、来日時年齢、滞在期間】
日本に上陸後もメンバーたちは、彼らの異言が日本語であることを期待し、勇気を出して試したりもしましたが、それが日常会話に耐えるものではないことを悟り、直ぐに日本語の学習を始めています。ですから彼らの日本での宣教活動は、英語教授やバイブルクラスを通しての学生間の伝道が中心でした。
ライアンは横浜滞在中の1908年に30フィートの船を15円で購入し、それにペンテコステ号(The Pentecost)と名付けて東京湾の沿岸地域で宣教活動をしています。時には100キロメートル離れた地域へも遠征したといいます。ライアンは1908年秋には3カ所(横浜、本牧、牛込)で伝道していました。ライアンは当時横浜で聖書学校を設立する希望を述べています。1908年にS・イトウ(S. Ito)という麻布在住の日本人の男子学生が最初に聖霊のバプテスマを受けています。ライアンたちは1909年以降は主に神田で中国人や朝鮮人そして日本人の学生に伝道します。他にも人力車を引く人たちにトラクトを配る働きなどをしていました。またライアンは1910年8月の東京の洪水の時には本所と千住での救済活動をしています。彼らの3年間の働きの平均的教勢の概数は、宣教師9名、日本人補助者5名、教会員92名、伝道所3カ所、日曜学校生徒80名、聖書学校学生23名です。日本でも『アポストリック・ライト』誌を英語、日本語、そして朝鮮語で発行していますが、現存していません。
アポストリックライトの宣教師たちは日本での最初の日曜日には救世軍の礼拝に出席し、その後も他の教会の人たちを自分たちの集会に招待してはみますが、しばしば否定的に扱われます。1908年6月には東洋宣教会のC・E ・カウマンを訪問し、その時には思いのほか暖かく迎えられ、宣教協力をも示唆されたことを喜んでいます。また彼らと接触が比較的に多かったのが日本伝道隊の宣教師たちでした。ライアンたちは次第に彼らに対する周囲の偏見が薄れ始めたと感じていたましたが、それを完全に打ち砕くことはできなかったようです。
ライアンは日本での宣教に困難を感じた時に、それは「日本人はとても移り気な人々で簡単に神様の方に心を向けるが、同様に簡単に実利的な考えに戻ってしまう」ためであり、日本にペンテコステ派の宣教師が少ないのは宣教の困難のためであると考えています。メンバーの一人のフリッチも「日本人は自尊心が強く頭が硬く」「日本は多くの宣教師たちが失望のうちに母国へ帰国する最も硬い畑の一つ」と記しています。アポストリックライトの日本での活動はライアンの1910年11月19日の帰国を持って終わります。
東京から大東亜へ
ライアンたちは東京から大東亜圏への宣教を考えていました。
【M. L. Ryan, “Japan Gateway,” The Pentecost (1909-04/05), p. 4.
フリッチとミリガン
ライアンの率いた宣教師団のなかのフリッチ(Cora Emma Fritsch)とミリガン(Bertha Effie Milligan)の働きが後の日本のペンテコステ運動に確かな足跡を残します。
コラ・フリッチは1888年10月23日に米国ワシントン州東部エドウォール近郊のドイツ系移民農家の8人兄弟姉妹の長女として生まれました。彼女は家から3キロほどの一教室しかない小学校に通い、中学校は家から20キロほど離れたカトリック系の学校で学び週末だけ家に帰って来ました。その後彼女は教員養成学校に通っています。彼女の母と妹はクリスチャンでしたが、コラは16歳の時に汽車で同乗したメイー・ローに誘われ教会のキャンプ集会に参加し1905年の7月に信仰を持ち聖化の体験をします。その後コラは信仰熱心なピットマン家の2歳年上のローザ・ピットマンと親友になり機会があれば彼女の家を訪問していました。
ライアンが1907年初めにワシントン州のスポケンで伝道を始めるのですが、ローザの父が3月のある日アズサストリートのペンテコステリバイバルを記す『アポストリック・フェイス』誌を家に持ち帰ります。その時もフリッチはピットマン家に滞在していました。フリッチはピットマン家の人たちは共に聖霊のバプテスマを祈り求め、特別な集会に参加するのでもなく3月に聖霊体験をします。フリッチは家に帰ると家族と友人たちに彼女の聖霊体験を分かち合い、それによって友人の数家族も聖霊体験を求めるようになります。しかしこれに強く反対する人たちもあり、彼女の通っていた教会は分裂してしまいす。
フリッチを含めメイやローザたちもアジアへの宣教の召命を受け、彼女たちは他のメンバーと共にライアンをリーダーとしてアジアに向かいます。コラは当時まだ18歳で、聖霊体験をしてからまだ半年も経っていませんでした。
バーサ・ミリガンは1886年2月5日にアイオワ州のメディソンで生まれます。彼女の祖父はメソジスト派の教職でした。ミリガンは1900年にはワシントン州スポケンの農夫の叔父の家に手伝いとして住んでいます。1904年にはラタのメソジスト監督教会のメンバーで、彼女は小さい時から宣教師の召命を感じていました。彼女の父はもしも宣教師になるならメソジスト派の宣教師になれと言っていました。ミリガンは教会には熱心に通ってはいましたが喜びを感じることがなかったのです。そのような時に聖霊を求め始め、そして聖霊体験をした彼女の信仰生活が大きく変わります。
来日してからのフリッチとミリガンは日本伝道隊のカスバートソンに日本語を習いますがそれには限りがあり、日露戦争後の日本人の頑なさもあって、彼女たちの思うような宣教活動が出来ませんでした。その上ペンテコステ派は異端的だと喧伝されたこともあり、他教派の宣教師との交流も限られていました。そのため彼女たちの主な働きは子どもたちや大学生の英会話クラスなどでした。最初に投宿した築地のメトロポールホテルでは、そこで働いていた大学生が友人たちをひっきりなしに連れて来てその中から信仰を持つ人たちも現れます。
フリッチとミリガンは1908年春から夏にかけて東京で日本伝道隊の英国人宣教師ウィリアム・S・テーラー夫妻の働きを助けます。フリッチたちはテーラー家に住み込みテーラー家の二人の子供たちの面倒も見るようにもなります。テーラー夫妻はフリッチたちからペンテコステ信仰について知らされ、次第に聖霊体験を熱心に求めるようになります。テーラー夫妻は来日前から米国メイン州のフランク・サンフォードのHoly Ghost and US Bible School[聖霊と我ら聖書学校]と関係が深く、近代ペンテコステ運動の先導者の一人とされるカンザス州トペカのチャールズ・パーハムとチャーチ・オブ・ゴッド(クリーブランド)の創始者であるアムブローズ・トムリンソンもサンフォードから大きな影響を受けています。そのようなこともあってテーラー夫妻は急進的ホーリネス運動から派生した近代ペンテコステ運動に耳を傾ける準備ができていたのです。
中国へ
フリッチたちは6月にはそれまでの働きに区切りをつけ、夏の2ヶ月間はコライアー夫妻と共に仙台の七ヶ浜に避暑をして過ごします。中国から来ていたA・G・ガー夫妻の勧めもあり、フリッチたちは日本から中国に移ることを真剣に祈り始めます。そして中国行きを決心し、神田YMCAなどでの働きをトロントのヘブデン・ミッション出身のヒッチ夫妻に引き継ぎ、1909年1月に香港へ向かいます。フリッチとミリガンは香港で米国から共に太平洋を渡ったメー・ローとローザ・ピットマンと共同生活をして宣教活動に励みます。
それから3年後の1912年2月1日にフリッチは中国で出会った3歳年上のペンテコステ派の宣教師ホーマー・フォクナー(Homer L. Faulkner)と広東で結婚します。仲睦まじく宣教活動に励んでいた二人でしたが、1912年10月に同僚の宣教師が病気になりその看病でフォークナー夫妻も疲労困憊します。また11月に入ってから親友のミリガンがマラリアに罹り、コラは献身的に彼女を看病します。フォークナー夫妻は翌年の春の休暇帰国を考え始めているのですが、今度はコラが11月27日の感謝祭の日にマラリアに罹ります。彼女の夫のホーマーはコラに病院に行くことを勧めるのですが、コラは癒しを固く信じて祈り続けます。しかし病状が急に悪化し、罹病から10日後の1912年12月7日に彼女は24歳の若さで亡くなるのです。彼女の葬儀には宣教師の友人の他に多くの中国人の友人たちもやってきます。コラは香港のハッピー・ヴァレーにある香港墓地に葬られます。彼女の訃報は1ヶ月後に米国の家族の元に届きます。
彼女の墓碑にはテトス書2章13節「Looking for that blessed hope, and the glorious appearing of the great God and our Saviour Jesus Christ」(「また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」【新共同訳】)が刻まれています。フォークナーは翌年4月に失意のうちに帰国します。
信仰の継承
英国に休暇帰国中のテーラー夫妻はコラ亡くなった知らせを受け、コラのことを偲び娘のエスターのミドルネームにコラの結婚後の姓であるフォークナーをつけます。24歳で亡くなったコラが日本に滞在した期間は僅か1年3ヶ月ですが、東京でのコラとの出会いを通してテーラー夫妻はペンテコステ信仰を求め始め、1913年にはペンテコスタル・ミッショナリー・ユニオン(後の英国アッセンブリー教団)の宣教師として再来日します。テーラー夫妻の婦人伝道師であった三好誠は日本人女性で初めて米国アッセンブリー教団から任証を受け、戦後に日本アッセンブリー教団の西灘基督教会の源流となります。またテーラー夫人はレオナード・W・クートや村井の聖霊体験を導き、自分たちの婦人伝道師であった横田スワは村井夫人に、そして同じく婦人伝道師であったエスター・キーンはレオナード・W・クート夫人となります。またメアリー・テーラーの働きが「社会福祉法人 神愛子供ホーム」の発端となります。
*メアリー・テーラーについては、「聖霊の炎を掲げて⑩」をご覧ください。
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コラ・フリッチの両親は娘との通信を大切に保管し、それをまとめて『Letters From Cora』を編み、それが米国アッセンブリー教団古文書館に保存されています。私たちはコラが米国の家族に宛てた手紙によって、当時の日本や中国のペンテコステ派の宣教師の活動について知ることができるのです。
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