ペンテコステ派生まれの最初の伝道者
谷 力【1905~1986】
鈴木正和
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師
日本アッセンブリー教団関連の古い写真資料の中に戦前の南米アルゼンチンの日本人教会の写真があります。それが全く驚きではないのはアルゼンチンに移住した日本人コミュニティーで伝道し、そこで日本人教会を立ち上げたのがジュルゲンセン一家や弓山弓山喜代馬と共に働いた谷力だったからです。マリア・ジュルゲンセンは1929年1月の『Pentecostal Evangel』誌で谷のことを「The First Pentecostal-born Worker(ペンコステ派生まれの最初の伝道者)」として報告し、弓山喜代馬は2001年の『現代宗教』のインタビューで「そして、ジョン[ジュルゲンセン]と私は『聖霊神学校』というのを始めたのです。・・・でもこれが、最初の学生で、この人は後にアルゼンチンに参りまして、日本人教会の監督になりました。」と述べています。ジュルゲンセン一家の教会で信仰を持ち訓練されて伝道者となった谷は、後に彼らと袂を分ち独自の道を歩み、そしてアルゼンチンに向かいます。谷力はどのような人だったのでしょうか。
谷力は1905年12月8日に静岡県富士宮市に日本橋兜町で証券業(弓山は家具屋さんと記憶する)を営む父作と母としの長男として生まれ、東京中学在学中の1922年頃17歳の時にキリスト教信仰に目覚めます。彼は家族の反対を受けながらもジョン・ジュルゲンセン夫妻の日本ペンテコステ教会富士前教会に通い始め、路傍伝道などにも欠かさず参加しています。(この富士前教会は駒込駅から遠くない六義園の先の駒込富士神社の近くにありました。)
谷は1925年に受洗し11月30日には聖霊体験をしています。谷は1925年に東京中学を卒業し、早稲田大学高等学院文科に進むのですが、1926年に献身を決意します。父の長男として期待を裏切ったために勘当されるのですが、早稲田大学高等学院文科を中退してジョン・ジュルゲンセン夫妻のペンテコステ聖書学校(滝野川聖書学校)で学び始めます。谷はペンテコステ聖書学校を1927年5月に卒業すると富士前教会の伝道師となります。
1924年に休暇帰国を終えて再来日したカール・ジュルゲンセン一家はジョン・ジュルゲンセン夫妻と共に既存の富士前教会だけでなく、新たに滝野川教会、赤羽教会、川口での開拓伝道を始めるのですが、彼らの日本人伝道師として、谷力が富士前、弓山喜代馬が滝野川、並木美麿が赤羽と川口の働きを担当します。
谷は富士前教会でクリスチャンとなった2歳年下の小林美恵子とカール・ジュルゲンセンの司式のもと1928年10月24日に滝野川教会(現 神召キリスト教会)で結婚します。美恵子の姉妹も富士前教会でクリスチャンになり、兄弟の一人は1927年10月の滝野川教会の献堂式の際に妻と共に信仰を持っています。
1929年4月に米国アッセンブリー教団日本支部の日本ペンテコステ教会が日本聖書教会として再編され、その際に富士前教会は本郷日本聖書教会となります。谷もこの滝野川教会で開催された日本聖書教会予備年会に参加しますが、この時期弓山喜代馬は滝野川教会を辞職して朝鮮に渡っていたためにこの予備年会には参加していません。
ジョン・ジュルゲンセンとネティ・グライムズの滝野川教会での結婚式
【『後の雨』第五号(1929年11月1日)、5.】
前列左から:アグネス・ジュルゲンセン、ジョン・ジュルゲンセン、ネティ・グライムズ、マリア・ジュルゲンセン
後列左から:ゴードン・ベンダー、ベンダー夫人、中山萬吉、カール・ジュルゲンセン、谷力、フレデリケ・ジュルゲンセン、メアリー・ラムゼイ、フローレンス・バイヤス、ノーマン・バース、バース夫人
しかし谷は1929年11月に生まれ育った母教会の牧師を辞任し、「神の教会」に参加します。そのために1929年に献身したばかりの大塚教会の伊藤智留吉夫妻が、フローレンス・バイヤスを助けながら谷力夫妻の去った本郷日本聖書教会の伝道師となり、伊藤はそこから柏木のホーリネスの聖書学院に通います。
谷は1929年12月には尾久神の教会を設立し主任牧師となり、1930年には尾久神の教会内に聖愛幼稚園を設立して園長に就任し、1932年3月には神の教会の日本聖書学校を卒業しています。神の教会の記録には、谷は「尾久地区のスラム街で尾久神の教会を牧会し、貧困と戦いながら自給伝道を続けていた」とあり、谷夫妻が敢えて貧しい人々の中に身を投じたことがわかります。そんな谷にフィリピンのミンダナオ教会から牧師としての招聘があるのですが、1932年11月に練馬神の教会の牧師であった矢島宇吉が召天し、矢島の遺言により谷は1932年12月に練馬神の教会の牧師に就任します。
谷は1933年4月に神の教会の按手礼を受けています。谷の就任当時の練馬神の教会の礼拝出席者は15名ほどで、谷はそのような教会の状況に不満と絶望感を持っていたようです。そのため谷は大塚(西巣鴨)日本聖書教会牧師の村井に協力を求めます。そして1933年11月に村井を練馬神の教会に招き「聖霊のバプテスマ」を求めて大特別伝道会を開催します。その時に谷と村井はこのような会話をしています。
谷「来る13日より三日間特集致すが御援助願われぬか」
村井「喜んで御用に当てて頂きませう。が金日は難しい。土曜日丈けなれば結構です」
谷「ではどうぞ」
村井「が、此の度は聖書的な聖霊のバプテスマの話をするが、それでもいいですか。ウッカリすると教会が潰れるかもしれませんよ。」
谷「エエ、結構です」
「練馬神の教会に於ける聖業」『草苑』(1933年12月15日)、1.
村井はこの特別集会で谷夫人が「美しい異言で祈っていた」と記しています。しかし谷は村井の主張するような「異口同音で語ることが聖霊を受けたことである」とする考えに疑問を持つようになり、数名の教会員の反感を買いながらも、村井に頼らず練馬神の教会の有志と共に大泉の雑木林や向ヶ丘の谷間で徹夜祈祷会などを持ちます。
当時の練馬神の教会のメンバーの一人は教会の様子をこのように述懐しています。
谷先生の牧会当時は出席者が少なかったが、会員相互間の有効関係は極めて親密で、あたかも同じ家族の成員のようであり、自分の身辺の問題を隠さず素直に語りあい、或る人から或る人に僅かながらも経済的援助が行われたこともあった。私は当時教会へ行くのが楽しくて、暇のあるときは殆ど牧師館を訪れ、そこで過ごした。
六ツ崎常武「谷、大田垣両先生の思い出」『練馬神の教会40年史』(1965年)、44.
谷は1934年2月に月刊誌『信徒の友』を主筆として発刊します。1936年4月には練馬神の教会の牧師のかたわら日本聖書学校の教義学と教会史の教授に就任します。
練馬神の教会の信徒であった人たちの中に南米のアルゼンチンに渡りそこで教会を立ち上げた人たちがいました。この教会は無牧であったために、谷は彼らの要請を受けてアルゼンチンで教会組織を作るために、練馬神の教会牧師と日本聖書学校教授を2か年の予定で休職し、1939年11月に教会を太田垣茂副牧師に託して、妻と二人の幼児(和子と圭人)を日本に残して単身アルゼンチンへと向かいます。谷は12月28日にアルゼンチンに到着すると、1940年3月の復活節にはブエノスアイレス市内のマガジネス街1230番地で日本人キリスト教会を設立し、第一回信徒総会にて主任牧師に任命されます。
2年間の帰国の期限が迫るのですが、谷は戦雲漂う中に日本へ帰国するかどうか迷います。「不安の中に帰国を待ち望む愛する家族、様々な重圧に打ち拉がれている移民のうめき」の狭間に立って葛藤します。日本からも再三帰国するようにとの連絡が入り、1941年12月の太平洋戦争勃発後も支援者によって帰国する交換船の手筈も整ったのですが、谷はアルゼンチンに残される信仰の群れと在留邦人のことを思いブエノスアイレスに留まる決心をします。一方、日本に残された美恵子夫人は夫の去った練馬神の教会にあって、肺結核患い病弱の後任牧師を助け支え続けますが、1942年7月に後任牧師も病死したために、失意の中に北海道帯広に二人の子供を携えて疎開します。しかし1944年2月に美恵子夫人は過労のため夫と再会することなく二人の子供を残して帯広で亡くなります。
谷は戦後も帰国することなくアルゼンチンに留まり、1949年6月にはブエノスアイレスで新村智恵子と再婚します。戦後、長男をブエノスアイレスに呼び寄せますが、後に彼は海難事故で亡くなっています。1950年9月には谷が設立した「在亜日本人キリスト教会」が宗教法人の認可を受けます。1954年には次男(ロベルト)が生まれています。1959年12月に谷は日本キリスト教団の在外正教師に認可されます。1976年の副牧師の招聘後に在亜日本人キリスト教会内で紛争が起こり教会内が分裂します。そのため谷は37年牧会した在亜日本人キリスト教会の牧師を辞任し、1977年4月には「在亜キリスト福音公同教会」を設立し主任牧師に任命されます。
1985年10月31日に膀胱癌を発病した谷は1986年9月26日にブエノスアイレスの自宅にて静かに逝去し、火葬の後チヤカリタ墓地の静和安眠堂158番に安置されます。智恵子夫人は2012年1月に自宅前で強盗に襲われ重症を負い亡くなります。
日本キリスト教団大森めぐみ教会の岩村信二牧師は1978年に日本キリスト教団世界宣教協力委員長としてブエノスアイレスを訪問し谷と面談した際に、谷から彼の書いた文章を故国日本で印刷・出版することを依頼されそれを快諾します。智恵子は谷の死後、谷の書いたものを次男ロベルトの日本への新婚旅行の際に託して岩村に届けます。岩村は東京在住の谷の娘の長坂和子の協力を得て、それを編集世話人として『み心の天になるごとくー谷力遺稿集―』(1987年)として出版します。その推薦の辞で岩村はこのように述べています。
読んでわかるように神学的あるいは信仰的立場は正統・オーソドックスの福音主義に立ち、アルゼンチンのバルトとも称せられるものである。我々日本人の知らない遠い海の向こうで、こうした毅然とした正統福音主義が語られていることを知って愕然とする方も多くあろう。
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