波乱万丈の伝道者人生
天利操(1912-1990)勝代(1910-1987)夫妻
鈴木正和
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師
20年以上も前に日本のペンテコステ運動史の研究調査のために、米国ミズリー州スプリングフィールドの米国アッセンブリー教団本部併設の古文書館(フラワー・ペンテコスタル・ヘリテージ・センター)を訪問したことがあります。その際に滝野川ミッション(現 神召キリスト教会)に関する一枚の写真資料を発見したのですが、それは1933年頃の滝野川ミッションの牧会スタッフのものでした。そこにはカール・ジュルゲンセン夫妻や弓山喜代馬と共に浜松教会担当の天利操・勝代夫妻の写真も掲載されていました。天利夫妻の名前はその後の研究調査上でも幾度か出て来るのですが、彼らの働きの全体像を掴むまでには至りませんでした。先日、ふとしたことから『零からの出発―天利操遺稿集―』(天利操遺稿集出版委員会、1992)の存在を知り、それによって天利夫妻の歩まれた道程を知り、それまで知ることのなかった日本のペンテコステ運動史の隙間を垣間見ることができました。天利夫妻の信仰の軌跡はどのようなものだったのでしょうか。
天利操は1912年3月7日に神奈川県愛甲郡荻野村のノンクリスチャンの家に生まれます。1926年には地元の小学校から仏教系の中学校の光明学園に進みます。横浜海岸教会長老の原田与三郎夫妻は1923年の関東大震災で罹災し、1924年に荻野村に移住して英語と漢学の私塾を開きます。この私塾に天利も通うようになります。天利は1927年に原田と親交のあった厚木バプテスト教会牧師の比留間五兵衛から初めてキリスト教の話を聞きます。
それから天利は毎週自転車で六里の道を熱心に厚木バプテスト教会に通うようになります。そして1928年12月に16歳で厚木バプテスト教会で洗礼を受けます。しかし仏教系の学校に通っていたこともあり、次第に教会から離れてしまいます。そんな時に夢の中で教会に行くことを迫られ、天利は近所の家庭集会に訪れるのですが、それがそのまま徹夜祈祷会となり、その夜に天利は「美しく輝く光の中心にイエスの姿を見て」泣き出して祈り続けます。このことを通して天利は伝道者として献身するように導かれ、再び熱心に厚木バプテスト教会に通い、学校ではクラスメートの迫害にも遭うのですが熱心に伝道します。
バプテスト派の関東学院のフィシャー宣教師は、天利に関東学院への転入を勧めるのですが、比留間牧師はキリストの再臨が近いと言って東京柏木のホーリネスの聖書学院へ行くことを勧めます。天利は光明学園を1929年3月卒業し、比留間牧師の勧めに従って聖書学院へと進学することにします。天利は比留間牧師に伴われて近くの温泉に逗留している米田豊牧師を訪ね、米田の勧めで米田と親交の深い淀橋教会牧師の小原十三司に紹介され、天利は1929年4月から淀橋教会の小原の元から聖書学院に通うことになります。天利の献身に父親が反対し勘当されたために、厚木バプテスト教会の大谷保行執事が天利の後見人となって彼を聖書学院に送り出します。
当時の淀橋教会には日曜礼拝に200名、伝道集会に130名、祈祷会には90名ほどの人たちが熱心に集まっていました。早天祈祷会は「猛烈な祈りで手をたたき、ひざを畳に打ちつけて大声で叫ぶ、実にすさまじい」ものでした。当時、毎週月曜日の朝から夕方までホーリネスの牧師たちが淀橋教会で断食祈祷会に集まっていたのですが、天利は彼らの熱心な祈りがホーリネス教会の発展の源泉だったと感じます。献身して半年ほど過ぎた頃に、天利は伝道者になる自信を失い、一旦帰郷します。しかし比留間牧師に翻意を促され、米田牧師に伴われて淀橋教会の小原牧師の元に戻ることになります。
当時の天利は内面的な苦悩や自信喪失、そして顔面神経痛を病む中で「聖潔」を求めて祈り始めます。当時のホーリネス教会の指導者であった中田重治は「ユダヤ復興のために祈ることがホーリネスの絶対的使命であると宣言し」、このため天利はホーリネス教会内に大きな信仰的混乱を感じます。このこともあり天利は次第にホーリネス教会に失望を覚え、淀橋教会の小原の元を去る決心をします。
そんな天利が向かった先は彼が信仰に導いた大学生によって紹介された高田馬場のR. A. フレミングの集会でした。フレミングはワンネス・ペンテコステ派のペンテコスタル・アッセンブリーズ・オブ・ザ・ワールドの宣教師でした。当時の天利は「聖霊のバプテスマは聖潔なのか、異言を語るとは何であろうか、聖潔られたキリストの生活が果たして完全だろうか、ホーリネスの起こりつつある分争は果たして聖潔だろうか」と悩んでいました。ある集会でフレミングが天利の頭に手を置いて祈りだし、共に1時間ほど祈ると「突然祈りの言葉が異なる言葉になって強烈な力」によって天利は圧倒される体験をします。
天利は淀橋教会に戻って小原にこのフレミングとの体験を話すと、小原は天利に「君は君の道を進み給え。・・・君が去ることは拒まない。」と言われ、1930年11月頃に天利は淀橋教会と聖書学院を去り、高田馬場に下宿して1931年3月までフレミングの働きを助けます。そして4月にはフレミングの推薦で奈良の生駒に向かいL. W. クートの生駒聖書学院に入学します。天利の生駒聖書学院での学びは1931年4月から1932年9月までの一年半ほどでしたが、その間に天利は二つの大きな事件に遭遇します。
一つは彼をフレミングの集会に誘った友人の弟が生駒の天利を訪問中に自死したことです。もう一つは1932年9月の生駒聖書学院における宣教師たちと神学生たちの間のトラブルで、神学生たちが聖書学院の建物を占拠して1ヶ月間に及ぶストライキを敢行します。これには生駒警察署の調査も入り、結局、天利はストライキのリーダーとみなされ自主退学することになります。
ロバート・A・フレミングRobert A. Fleming【1860-1944】
ロバート・A・フレミングは1860年1月18日に英国スコットランド出身の父母のもとにカナダで生まれ、8年生までの教育を受けます。1881年に米国に移住し1899年には米国に帰化しています。1906年11月29日にシカゴでドイツ生まれのマーガレットと結婚し、共にウィスコンシン州で救世軍士官として働きます
1919年に妻のマーガレットが異言を伴う聖霊体験をし、1920年にはローバートも異言を伴う聖霊体験をし、後にロバートはthe Pentecostal Assemblies of the Worldから按手礼を受け、夫妻でモンタナ州から来日します。彼らの活動は1927年から1934年9月までと1936年2月から1938年5月までの9年間ほどでした。
彼らはワンネスペンテコステ派のthe Pentecostal Assemblies of Jesus Christ からの支援も得ていました。当初は杉並区に居住し、英語教授をしながら生計を立て、学生たちに福音を伝えていました。後に大阪天王寺区六万体町や東京西大久保にも住んでいます。帰国後はモンタナ州ミゾーラに引退し、ロバートは1944年5月29日に、マーガレットは1961年に死去しています。
天利は生駒聖書学院を退学する直前の夏期伝道で、立川ペンテコステ教会のハリエット・デスリッジの元に派遣されたのですが、彼はそこで後に妻となる教会付属の平和幼稚園で働く2歳年上の清水勝代と出会います。清水勝代はデスリッジのべレア聖書女学院に学び、1929 年第二期生として長島鶴、武田かね、宮崎美智子、鈴木シナヨと共に卒業しています。勝代は卒業後もデリスリッジのもとで幼稚園保母・伝道師として働き、クートの外遊中にデスリッジが生駒聖書学院の留守を守る時などには共に大阪に行って猪飼野でも伝道しています。
行く当てもなく生駒から東京に戻った天利は、旧知の渡辺伝牧師に助けを求めます。そして渡辺から野畑新兵衛を紹介され、そして益富政助を介して天利は鉄道青年会宗教部に職を得ます。ここでの天利の働きは短く、彼は再度渡辺の紹介で鉄道ミッションのギレット宣教師と石井越次郎を通して鉄道ミッション柏木教会の伝道者として招聘されるのです。
天利は1933年5月には清水勝代と立川ペンテコステ教会で婚約します。その頃天利は夢の中で一人の若者がある教団の使者として彼を訪ねて来る夢を見るのですが、その翌朝に彼の元に夢の中に出てきた服装と同じ青年が滝野川日本聖書教会の弓山喜代馬の使いとしてやってきます。天利が弓山の元を訪れると、弓山は天利に浜松の開拓伝道を依頼します。天利は先日の夢のこともあり、浜松に行くことが御心をと思い、鉄道ミッション柏木教会の伝道師を辞任して浜松に行くことにします。
1933年5月に天利は弓山と当時まだ聖霊神学院の神学生であった菊地隆之助と共に浜松に向かいます。当時の浜松の人口は12万人ほどでした。浜松では弓山と菊地と共にまず天幕伝道を開始するのですが、わずか1週間ほどで15名ほどの決心者が与えられます。そして間もなく浜松警察署の近くの大通りに面した2階建の建物を伝道館として伝道を始めます。その頃、天利は持病の眼病が再発するのですが、菊地と共に祈り癒されます。菊地が聖霊神学院の学びのために東京に戻ると、東京からアグネス・ジュルゲンセンが婦人伝道師兼メイドとして滝野川聖霊神学院の卒業生の遠藤志津代を伴って浜松にやって来て、浜松市富田町に家を見つけて住みます。
【Pentecostal Evangel (1933-10-14), p. 8.】
【Pentecostal Evangel (1934-11-24), p. 6.】
『永遠の御霊』第7号(1934年11月15日), pp. 5-6.
【『永遠の御霊』第3号(1934年7月20日), pp. 2-3.)】
【『永遠の御霊』第4号(1934年8月15日), p. 5.)
【『零からの出発』p. 134.】
天利は1933年12月12日に浜松日本聖書教会において弓山喜代馬の司式によって清水勝代と結婚します。東京から渡辺伝が親代わりとして出席します。その時のウェデイングケーキはアグネス・ジュルゲンセンがチョコレートのお菓子を買い集めて用意しました。1934年4月には浜松日本聖書教会における最初の洗礼式が天竜川でなされ、七人が洗礼を受けます。天利は遊郭の前で路傍伝道中に暴徒に殴られて負傷するのですが、そのことを通して幾人もの人が救われます。11月7日には長男の和康が生まれ、アグネス・ジュルゲンセンは自分の子供のように可愛がったと言います。しかし和康が生まれて2週間ほどして、天利の元を以前から交流のあった独立伝道者の柳田秀雄が訪ねてきます。柳田は浜松市の郊外で農業をしながら『活ける基督』誌を発行して農村伝道をしていました。柳田と諸問題を話している最中に、天利の心の中に「宣教師よりの月給を断って自給・独立伝道をしようと決心する気持ちが起こされ」、一晩にして天利はアグネス・ジュルゲンセンたちと袂を分ち独立伝道者になることを決心します。
その数日後には天利は浜松日本聖書教会の集会で独立教会の設立を会衆に相談すると、15名ほどが天利と共に教会を割って独立することに同意します。この時、勝代夫人は何も言わず天利と行動を共にしました。アグネス・ジュルゲンセンはこの天利の突然の申し出に「驚きのあまり口もきけず、やがて怒り、失望」するのです。その翌日に天利は浜松市内に柳田と共に浜松独立基督教会を設立します。しかし3ヶ月ほどで柳田との意見の対立が明らかになり、天利は浜松独立基督教会を柳田に託して浜松を離れることにします。
昭和七年の夏頃、私達夫婦はぶらりと夕べの散歩に浜松市鴨江町の街を歩いて居た。教会から主よ主よと謂う声が外まで聞こえて来た。立ち止まって覗いて見ると、大勢の男女が膝まづいて熱心な祈りを捧げていた。其後前を通ったが教会は静かで何か説教をして居たので立ち止まり聞くともなく、聞いて居ると、手引きされ中へ入り神妙に耳を傾けた。今想ふと其の説教はパウロの宣教旅行の話で熱の入った名講演で二十代の青年牧師でした。思へば其の人が天利牧師であったのです。其の後家庭訪問が幾度か行われ信仰の導き、良い種を播いて下さったので個人的にも親交を温め妻助産婦であったので天利先生の御子様を何人か取り上げた様でした。当時は宣教師としてアグネスジュルゲンセン師と弓山師が居り、夕方の路傍伝道にも御供した記憶が有ります。
【安形佐伝「想い出すままに」『零からの出発』pp. 323-324.】
行くあてもない天利は1935年2月から3月にかけて何度も断食祈祷をします。その結果、天利はホーリネス教会に戻る道を探り、米田豊と小原十三司に彼の窮状を訴えます。そして米田の執りなしと小原の支援によって、天利はホーリネス教会の諸委員の了解を得て、1935年4月に教授派のホーリネス教会の牧師として鳥取県の江尾ホーリネス教会牧師に任命され、同時に聖書学院の卒業証書も授与されます。
天利は1935年10月には江尾ホーリネス教会を離任し、岡山聖教会の牧師に任命され赴任します。1936年に1月1日に長女の順子が生まれ、1937年3月16日には次女の園江が岡山で生まれます。天利に岡山を去って東京へ出て伝道をしながら学びを続けたいという思いが生じ小原に打ち明けます。東京行きが決まったと思った天利は岡山を離れる準備をして、1938年3月に東京で聖教会の年会に参加するのですが、彼の意に反して東京に出ることが認められず岡山聖教会牧師に再任命されます。
そのような時に妻の勝代の師である立川のハリエット・デスリッジの休暇帰することになり、天利は立川ペンテコステ教会の牧師に招聘され、それを受けて天利は1938年6月に岡山を去って立川へ向かいます。
休暇を終えてデスリッジの再来日後も天利夫妻は立川に留まります。(デスリッジの自叙伝『Twenty-Years in Japan』には、彼女の休暇帰国に合わせて天利夫妻が招聘されたことや天利夫妻が立川に留まってデスリッジと共に働いたことを示す記述は何もありません。しかし『基督教年鑑』などには、単独教会の立川ペンテコステ教会の牧師として天利操の名前が掲載されています。)
1940年1月15日に天利家に三女の輝美が生まれます。戦雲高まる中教会のメンバーの斡旋で天利は立川工作所に嘱託として働き始め、1941年9月には立川飛行機株式会社に入ります。1941年11月25日に次男の信司が生まれ、そして太平洋戦が始まるのです。デスリッジは戦雲急を告げる中でも帰国を望まず、1941年12月の太平洋戦争勃発後も立川に留まり、細々と宣教活動を続けます。1942年夏には120人の他の外国人女性たちと共に敵国人収容所に送られ、1943年秋には日米捕虜交換船でアメリカに送還されます。
デスリッジは1940年の夏に米国の友人宛の手紙に日本や立川の様子をこのように伝えています。
・・・最近数年間の日本の変化は実に大きなものがあります。各宗派の宣教師の半数以上は本国に引き揚げて帰りました。これは主として排外国人思想(殊に反米感情)の結果です。私たち残留者も此の感じを強く受けます。日本人は昔の様に決して親しみを持っていません。日本各地(殊に立川は軍都ですから一層困難である)に於ける仕事は実に困難です。日本の民衆は福音を聴こうとしないのです。基督教徒すら教会に来ないのです。私たちの教会は多くの場合がら空きで私を援助して働いて呉れる人以外は一人も教会に来る人はなく一番多数集まったときも僅か十人位です。・・・
【『戦時下のキリスト教運動2』(新教出版社、1972)、p. 65.】
1942年6月26日に全国一斉にホーリネス派の牧師の検挙が始まり、天利の友人たちの多くが投獄されるのですが、天利は既にホーリネス派を離脱していために立川憲兵隊から呼び出しがあっても検挙されることはありませんでした。1943年7月1日に三男の静雄が生まれます。戦時下において天利家は立川曙町と神奈川の田舎への疎開を5回ほど繰り返します。1944年5月11日に長男の和康が11歳で脳挫傷が原因で亡くなり、1945年7月11日に四男の武人が生まれます。
1945 年8月に終戦を迎えると、天利家は立川を引き払って厚木の実家に戻り、再び厚木バプテスト教会に通い始めます。その時に教会の友人の勧めもあって、天利は9月20日から愛川町半原で開拓伝道を始め、後に「半原基督教会」の看板を掲げます。以前から知遇のあった賀川豊彦の講演会も開催し、賀川伝道グループの一員にも加えられて毎月の経済的支援も受けるようになります。1948年2月12日には五男の満矢が生まれます。
天利は子供たちの教育のことを考え、1950年に厚木から横浜に移り、中国宣教から引き上げて来たリチャード・ヘスキンド宣教師を助けて横浜フィラデルフィア教会を開拓します。天利は3年余りヘスキンドと共に働いたのですが、ヘスキンドとの伝道上の考え方の違いもあり、また妻の勝代も祈りのうちに宣教師から離れることを示されて、彼らはヘスキンドのもとを去ります。
天利夫妻は1953年に横浜新契約バプテスト教会のユージン・M・レイガン宣教師(American Baptist Associationランドマーク・バプテスト)と出会い、彼を通して「聖書的なバプテスト信仰」につて学び、改めてバプテストの伝道者として立つ決心をし、天利夫妻と上の二人の娘たちはレイガンから再浸礼を受けるのです。
1955年に天利は千葉の幕張聖書バプテスト教会のオールソン・ハジス宣教師に招かれて幕張聖書バプテスト教会の牧師になり、後に日本バプテスト聖書神学校の教壇にも立ちます。しかし教会の諸問題によって天利は1959年には幕張聖書バプテスト教会を離れ、1959年7月にJ. D. ボークの助けによって再び新契約バプテスト教会に戻り、千葉県柏市で開拓伝道を始めます。1961年にはくるみ幼稚園内に「第一宣教バプテスト教会」を設立します。天利はそれ以降新契約バプテスト教会に留まり、1967年には「日本バプテスト連合」(JBA連合)の議長を務めています。妻の勝代は1987年6月23日に胃癌のため77歳で亡くなり、天利も1990年5月1日に敗血症で78歳で亡くなります。
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天利操の伝道者人生はまさに波瀾万丈でした。1929年に17歳で献身し、1959年に第一宣教バプテスト教会の牧師となり1990年に79歳で召されるまで、60年に及ぶ伝道者人生でした。その軌跡をまとめると以下のようになります。
1.厚木バプテスト教会【日本バプテスト同盟】→2.聖書学院【ホーリネス教会】→3.フレミングの集会【the Pentecostal Assemblies of the World】→4.生駒聖書学院【日本ペンテコステ教会】→5.鉄道青年会宗教部→6.鉄道ミッション柏木教会→7.浜松日本聖書教会【日本聖書教会】→8.浜松独立基督教会【単立教会】→9.江尾ホーリネス教会【ホーリネス教会】→10.岡山聖教会【聖教会】→11.立川ペンテコステ教会【単立教会】→12.会社員→13.半原基督教会【日本基督教団】→14.横浜フィラデルフィア教会【フィラデルフィア教会】→14. 横浜新契約バプテスト教会【新契約バプテスト教会】→15.幕張聖書バプテスト教会【日本バプテスト・バイブル・フェローシップ】→16. 第一宣教バプテスト教会【新契約バプテスト教会】
天利にとって「聖潔」、「聖霊」、「聖書信仰」がとても大きな課題でした。「聖潔」を求めて苦悩し顔面神経痛まで患います。そして聖霊を求めて聖書学院を飛び出し、フレミングの元に走り、生駒聖書学院へと向かいます。紆余曲折を経て、最後には極めて保守的な新契約バプテスト教会に行き着くのです。しかし所属団体が変わっても「零からの出発」を繰り返し、天利のキリスト信仰と献身にはブレはなく、妻の勝代と共に最後まで伝道者人生を駆け抜けました。
また、天利夫妻はハリエット・デスリッジとの出会いと訓練を通して、幼児教育の分野にも大きな足跡を残しました。妻の勝代は立川のデスリッジの元での生活をこのように述懐しています。
立川のべレア聖書学院を卒業後、宣教師と住んでいる時は、昭和のはじめ頃でした。自転車に乗ることを一生懸命習い、あの当時の三多摩地区を、午前中は幼稚園で働き、午後は農村伝道にでかけ、村々町々をめぐり、神社の境内や、町の広場など、また求道者が出来ると、その家をかりて子供会を開き、学校の近くで子ども達の帰りを待って、神様の御教え、キリストの救いを語り、さんびかを教えたりして、その時の楽器はタンバリン一つでした。
【『零からの出発』pp. 261-262.】
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