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聖霊の炎を掲げて㉚

日本聖書教会教団監督 村井
村井(1897-1970)村井スワ(1900-1988)

鈴木正和
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

村井
【道央イエス之御霊教会ブログ】

 日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の前身の団体には、1920年設立の日本ペンテコステ教会、日本ペンテコステ教会を1929年に再編した日本聖書教会、1937年に日本聖書教会から分かれた滝野川聖霊教会、1940年に再編された日本聖書教会教団があります。日本ペンテコステ教会は宣教師中心の団体で、日本聖書教会になって日本人の教職者たちも参加します。日本人が教団の理事者になるのは後のことで、村井 が1937年に最初の日本人理事、そして1940年に最初で最後の監督となります。

 村井は1941年6月に日本聖書教会の他のリーダーたちと共に招かれて台湾の日本真耶蘇教会を訪問するのですが、その際に真耶蘇教会の熱い聖霊信仰と特異な教義に触れ、イエスの名による再洗礼を受けて帰国します。村井は新設の合同教団である日本基督教団に加入することを好まず、1942年に大塚日本聖書教会と彼の支持者たちと共にイエス之御霊教会を設立します。そのために戦前のアッセンブリーの群れに大きな足跡を残した村井ですが、戦後の日本アッセンブリー教団は村井の業績について言及することがありませんでした。

生い立ち

 村井(じゅん)は1987年6月27日鹿児島県加治木町に父村井競(きそう)、母きぬのもとに生まれます。父の競はメソジスト派の教職者で、特に沖縄の読谷村のリバイバルで有名です。兄の一(はじめ)は青山学院大学神学部に学び、後にJ. B. ソーントンの始めた兵庫県柏原の日本自立聖書義塾で弟のと共に教鞭をとっています。

 村井の従姉妹の三好誠は、1913年に英国のペンテコスタル・ミッショナリー・ユニオンの宣教師として再来日したウィリアム・テーラー夫妻の婦人伝道師でした。1914年に村井の家が長崎にあり、当時テーラー夫妻も長崎で伝道していたために、村井は1914年春に三好に励まされてテーラー夫人を通してキリスト信仰を持ったと言われます。その年に村井は上京し青山学院神学部に学びます。しかし1918年の夏に鬱的症状があり自殺をも意識していたのですが、村井は長崎から東京に戻る途中、当時岡山で伝道していたテーラー夫人と三好誠に会いに行きます。村井はテーラ夫人と三好と共に児島湾を蒸気船に乗って下津井の信者のお見舞いに行きます。それまでにも村井は幾度もテーラ夫人に聖霊のバプテスマを受けることを勧められていたのですが、村井はその帰りの蒸気船上で聖霊のバプテスマの体験をします。9月8日午後6時のことでした。

 その後村井は三好の勧めもあって、神学では人は救えないと説く神戸のJ.B. ソーントンの集会に参加します。ソーントンのメッセージに感動した村井は、1919年に青山学院神学部を退学し、ソーントンの働きに参加します。また同じく青山学院神学部で学んでいた兄の村井一も岡山の三好を訪問した際にソーントンを紹介され、青山学院神学部を退学してソーントンの働きに参加します。当時ソーントンは兵庫県の御影に居住し、日本伝道隊に所属していました。1920年にはソーントンは兵庫県柏原に移り、1922年に日本自立聖書義塾を開設します。ソーントンはこの学校を「預言者学校」とも呼んでいました。

 村井は1919年3月3日にテーラー夫妻の婦人伝道師の横田スワと結婚します。スワはテーラ夫人を通して信仰を持ちます。スワは元看護婦でキリスト信仰の故に家族から縁を切ると言われます。スワは信仰を持つ以前はとても短気で有名でしたが、信仰を持ってから全く変えられ、ソーントンやテーラー夫妻は彼女にJoy(喜び)というニックネームをつけて呼んでいました。村井も妻のことを生涯ジョイと呼んでいたと言います。村井はソーントンから通訳者としてではなく、自立した伝道者となることを促されて岡山に向かいます。

岡山福音伝道館と村井

 村井が参加した岡山での働きは、1916年8月に横浜や大阪で英語教師をしていたホーリネス派の独立宣教師ロールスティンが再来日した際に、岡山で既に活動していた英国人アガール(神戸山手通りの薬店の店主/日本伝道隊宣教師/岡山の官立学校の英語教師)の働きを助けて始めた岡山福音伝道館です。

 当時岡山の人口は10万人ほどで、ロールスティンは内山下35番に居住していました。1917年初頭にロールスティンは独立宣教師のミラーと共に働き始めます。しかし1917年7月にロールスティンは病いに倒れ、神戸の病院で亡くなり春日野霊園に埋葬されます。1918年5月からアガールを通して、カリフォルニアでの日本人伝道を終えて帰国した木田文治が岡山でミラーの働きを助け始めます。ミラーの思いに賛同した神戸のクリスチャンたちが応援を申し出るのですが、その中にJ. B. ソーントンやウィリアム・テーラー夫妻がいました

 ソーントンは1917年に米国製の2本柱の大テントを購入しており、これを岡山の旭川の河原に設置し、1918年夏にはソーントンやテーラー夫妻と彼らの婦人伝道師たちが3ヶ月余り毎晩伝道集会を開きました。ソーントンは大テントの横に小型テントを張り、そこに簡易ベッドを置いてミラーと寝起きを共にしていました。ソーントン夫人は毎週一回神戸から岡山に通い、岡山の商業高校(中学校)で英語を教えていました。村井は1918年の夏にこの伝道集会の開催中に岡山訪問し聖霊体験をするのです。

 1918年秋には岡山ではミラー、木田、ソーントン、テーラ夫妻たちが共に働いていました。メアリー・テーラーは1919年もひき続き彼女の婦人伝道師と共に岡山で活動しています。ミラーが病いを得てテーラー夫人が彼を介護します。後にミラーは帰国を余儀なくされます。テーラーたちは岡山で1919年3月までテント集会を続け、ソーントンも1919年末まで岡山にいます。しかしソーントンは自慢の大テントが大暴風雨で破壊されたことを受けて、彼は岡山での活動をやめる決心をします。

 1919年にまだ新婚の村井夫妻が岡山に派遣されて、1920年には木田文治も岡山を去り、木田の後を受けて村井が岡山福音伝道館の牧師となります。村井は米国アッセンブリー教団のペンテコスタル・エヴァンジェル誌の1920年5月14日号に彼の岡山での働きについて寄稿しています。木田は山口県柳井津で2年ほど活動した後にまた岡山に戻ります。

岡山時代の村井と弓山喜代馬

 村井夫妻が岡山で活動していた頃、弓山喜代馬は岡山医学専門学校の学生でした。村井スワは、1988年に四国の立川イエス之御霊教会を訪問した際に、岡山時代のこと振り返りながら、村井夫妻がどのようなきっかけで四国での伝道活動を始めるようになったのかを述懐しています。

 ・・・大正8年(1919年)の暮れに私達は其の頃岡山に住んで居りまして、岡山の今の医大がその頃は専門学校でありますから、岡山の医専でありました。医学専門学校、其処に学んでいらっしゃる一人の兄弟を、今治のホーリネス教会の牧師先生が訪ねていらしゃって、たまたま其の大学の近所に私達の教会がございましたから、先生は其の訪ねていらっしゃった、其の兄弟を訪ねていらっしゃった事によって、私達は其の長井喜三郎とおっしゃるホーリネス教会の牧師先生とお知り合いになり、・・・

 あの弓山先生、後にアッセンブリーの理事長になられた弓山先生が岡山の医専に学んでいらっしゃる其の先生を訪ねていらしゃった長井先生との出会いによって四国の道が開かれ、・・・

  「村井スワ監督の説教」(立川イエス之御霊教会)(1988年10月27日)

     村井夫妻が四国での宣教活動を始めたきっかけは、弓山が今治中学校時代に通ったことのある今治ホーリネス教会の長井喜三郎牧師が、岡山の村井夫妻を訪問したことだったのです。

 弓山は1913年4月には今治中学校に進学し、1919年3月に卒業します。弓山が最初に聖書に触れたのは今治中学の生徒の時で、弓山は1918年の1月に姉が病死したことをきっかけに医学の道を志して岡山医学専門学校に進学します。しかし医専で「解剖学とか組織学等を研究する為に人間の屍をいぢり廻したり顕微鏡を覗き込んだりしていた」弓山は、「益々人生は淋しく止め度もない死の恐怖」に襲われ、魂の不安を抱える日々を送ります。

 そして1920年の6月10日に「机の上に開かれた洋書の上に肘をついて洞の様な瞳をして果てしもない悩みの世界に浸っていた」時に、突然「閃光の如く私の脳裏に聖書が思い浮かび」、弓山は荷物の中からかって友人から貰った新約聖書を手に掴むと外に出て行き町を歩き回ります。そしてフト目の前にあった「福音伝道館」に飛び込みます。そこではちょうど礼拝が終わった時でしたが、弓山は牧師と会って自分の心の悩みを打ち明けます。牧師がヨハネ伝3章16節とロマ書6章23節から罪と救いの問題を話し、弓山はそのまま「心を開いて聖言を信じてそっくりその儘受入れた、泣いて神に祈り感謝した」のだと言います。

 弓山は21歳で洗礼を受け、1921年には岡山医専を中退して、上京、結婚、そして池袋近くの堀之内に居を構えて伝道活動を始めます。弓山が飛び込んだ岡山の伝道館が岡山福音伝道館で、弓山を救いに導いたのが村井の可能性があるのです。

【資料】

米国アッセンブリー教団のPentecostal Evangel誌の村井の寄稿文

村井のクリスチャンネームはTimothyだった。

【Jun Murai, “The Same Yesterday and Today and Forever: A Testimony From Japan,” Pentecostal Evangel (1921年5月14日号), p. 9.】

兵庫県柏原の日本自立聖書義塾

 村井は1921年3月には佐世保に赴きメソジスト教会で父から按手礼を受けています。村井の岡山滞在は短く、1921年末には岡山を去り、兵庫県柏原のソーントンの日本自立聖書義塾に行き、そこで宣教部長として働きます。当時兄の一も学生部長として奉仕していました。

 村井が日本のアッセンブリーの群れである日本聖書教会と最初に接触したのは、1929年の東京の滝野川教会のカール・ジュルゲンセンの特別集会であったと言われます。村井は他にも大塚教会のゴードン・ベンダー夫妻や八王子教会のジェシー・ウエングラーにも招かれて奉仕しています。大塚教会は村井を1930年11月の特別伝道集会にも講師として招聘します。1930年に柏木のホーリネスの聖書学院に通っていた大塚教会出身の伊藤智留吉は、日本自立聖書義塾の校長代理であった村井が聖霊信仰を持っていたこともあり、フローレンス・バイヤスの支援を得て、日本自立聖書義塾に転校します。しかし伊藤夫妻は大塚教会の要請で1931年3月に柏原を去り、大塚教会から横浜に派遣されてノーマン・バースと共に働くことになります。

柏原教会 (年代不明)
【伊藤顯榮師所蔵】
後列右側から二人目が村井、前列右側から二人目が村井スワ
資料 柏原教会 (年代不明)
【伊藤顯榮師所蔵】
最後列左から二人目が村井、柱の前が村井スワ

大塚日本聖書教会

 大塚教会の中山萬吉が1932年6月に急死すると、ノーマン・バースと大塚教会は村井を大塚教会の牧師として招聘し、村井は1932年10月に大塚教会に赴任します。

 村井の聖霊体験は、先述の児島湾上の1918年のことでしたが、大塚教会へ赴任するまでは村井は聖霊体験を強調することがありませんでした。それどころか異言に関しては批判的な考えさえ持つようになっていました。そのような村井でしたが、大塚教会に赴任後に新たに聖霊体験をします。それが1933年の7月23日夕方の大塚教会でのリバイバル体験でした。そしてその4週間後には近くの向ヶ丘での大塚教会の祈祷会で聖霊が豊かに注がれます。この時のリバイバルでは聖霊の臨在の中で「笑い」も与えられていました。これらの体験を通して、村井は「異言」や「神癒」を改めて強調し始めます。大塚教会ではその後しばしば待望会が持たれ、多くの人たちが聖霊体験をしていきます。

 村井は1933年2月に大塚教会の教会誌『草苑(まきば)』誌を創刊し、これが後の『聖霊』誌になります。当初、村井とバースは『聖霊』誌を千部ほど印刷して配布しています。この『聖霊』誌を通して、日本のペンテコステ運動が拡大し、村井は日本各地で用いられるようになります。カール・ジュルゲンセンのもとでクリスチャンになり富士前教会の牧師であった谷力は1929年に日本聖書教会を離れて神の教会に移籍するのですが、1933年12月に村井を練馬神の教会に招いて特別集会を開催しています。村井は1934年3月に聖霊を受けた人々を訓練するために「日本聖書神学校」を大塚教会で開設します。

日本聖書教会と聖霊運動の拡大

 日本聖書教会理事長のノーマン・バースは、大塚教会(村井)、関本教会(朝倉敏・須藤和男)、横浜・篠原教会(伊藤智留吉)、長後・戸塚教会(長島ツル・大地兼香)などの主管者でもありました。そのため村井はバース傘下の長島ツル、大地兼香、伊藤智留吉、朝倉敏などと一つのミッションを形成していきます。バースがペンテコステタル・エヴァンジェル誌で彼の日本人スタッフを紹介していますが、その中で村井について「村井は東京の私たちの牧師で、私たちの特別集会のほとんどで伝道師としての役目を担っています。彼はいつもとても忙しく、そして神様に燃やされています。」と紹介しています。

 1936年9月の横浜の篠原の空き地で開かれら聖霊待望会は、その後の日本のペンテコステ運動に発展に大きく寄与します。この聖会に聖霊のバプテスマに関心を持つ他教派の教役者たちが参加し、その後のペンテコステ運動の拡大を導きます。村井はこの聖会に参加した大阪の粉濱基督教会の上井乙熊を1937年7月に訪問しています。そして1938年1月には日本聖書教会の聖会を初めて大阪の粉濱基督教会で催します。1939年の初頭の粉濱基督教会での聖会では、奈良の川崎一、大阪の内村誠一、沖千代などとの交流も深めます。村井は他にも広島県呉の田中種助のアメンの友、東京の立川のハリエット・デスリッジ、函館のレイモンド・マクノートン、カナダのバンンクーバーの教会などとの交流持ちます。

 村井を先頭に1933年から1940年にかけて日本聖書教会はペンテコステ信仰を全国に広めて行きます。村井の聖霊信仰は受け身ではなく、ホーリネス派を攻撃してやまないほどに強いものでした。

横浜篠原の高台での第一回聖霊盈満大会 (1936年9月)
【伊藤顯榮師所蔵】
後列左端が村井、その隣が上井乙熊
前列左端が伊藤智留吉、その隣が徳木力
写真 大阪の粉濱基督教会での関西聖霊盈満大聖会(1938年1月15日)
【伊藤顯榮師所蔵】
前列右から:村井、上井乙熊、伊藤智留吉、川崎一、長島ツル、沖千代、大地兼香
後列右から二人目がメアリー・テーラー
看板の前がフローレンス・バイヤス、その隣がバース夫人、その後ろが鹿島外雄

『聖霊』第12号、1934年2月号
他教会の発行誌と同名であったことがわかり『聖霊』に改題します。

『聖霊』第17号、1934年11月号
【木田徳男師提供】
この号から活版印刷になります。

日本聖書教会の再編

 1937年8月にノーマン・バース、ジョン・ジュルゲンセン、ジェシー・ウェングラー、村井、弓山喜代馬が軽井沢で会合し、日本聖書教会の再編案をまとめるのですが、それが機能せず、10月には新たにバース、ジョン・ジュルゲンセンと村井が再編委員となって新たな再編案がまとめられます。(どのような再編が話し合われたのか不明です。)その結果として1938年滝野川教会の働きがマリア・ジュルゲンセンと弓山喜代馬に委ねられ、滝野川教会は滝野川聖霊教会として日本聖書教会から分離独立します。そして大塚教会が日本聖書教会本部教会の東京教会となります。これを受けて村井は1938年9月に日本聖書神学校を再開します。

日本聖書教会の教役者たち (1938年頃)
【伊藤顯榮師所蔵】
ジェイコブ・バイヤス、バイヤス、不明、長島鶴、川崎一、上井乙熊、不明、村井、伊藤智留吉、大地兼香、ノーマン・バース、グレイス・バース

 宗教団体法が1939年4月に交付され、1940年4月に施行されることになり、日本の諸教会は構造改革を余儀なくされます。1940年2月に日本聖書教会の緊急理事会が開かれて、日本聖書教会は米国アッセンブリー教団から独立することを決め、日本聖書教会理事長であったバースや他の宣教師の理事たちはその職から退き、代わって日本人主導の日本聖書教会教団に改編されます。これを受けて1940年4月30日から大阪の粉濱教会で日本聖書教会教団第一回総会が開かれ、5月1日に村井が日本聖書教会教団の初代監督に就任します。また理事には伊藤智留吉(財務)、山田盛彦(庶務)、上井乙熊が任命されます。

 村井は日本のキリスト教界で懸案となっている合同教会としての日本基督教団への加入には当初から反対で、1940年9月合同教会発足の準備会(合同の申合)にオブザーバーとして参加しますが、日本独立基督教会同盟会理事長の白戸八郎や谷口茂壽に、自分を除く他の日本聖書教会の教役者の合同教会への加入を要請します。しかし白戸は教団の全員加入が前提であるとして村井の申し出を拒絶します。10月17日に横浜で日本聖書教会関東聖会が開催されるのですが、10月21日に臨時理事会が招集されて、村井は「理事会は神の御旨ヲ行ヒ得ズ」として理事会を解散します。

 そのような状況下にあって、村井ら5人の日本聖書教会のリーダーたちが、1941年6月に台湾の日本真耶蘇教会に招待を受けて3週間の予定で台湾を訪問します。その時期に日本基督教団への加入申込み期限が迫り、村井はあくまで加入することを望まず、日本聖書教会の各教会が各自で加入の是非を決定することにして、合同教会への加入の取りまとめを伊藤智留吉に託して台湾に渡ります。そのため日本聖書教会は監督であった村井を欠いた形で、各自の判断で日本基督教団第10部へ加入することになるのです。

日本聖書教会
【『1939年基督教年鑑』pp. 79-80.】
日本聖書教会教団 告知」
【『聖霊』第60号(1940年6月号)、p. 4.】

 日本聖書教会教団を離脱し日本基督教団第10部に加入したのは、伊藤智留吉の神奈川日本聖書教会、長島ツルの関本教会、大地兼香の長後教会などです。ジェシー・ウェングラーの率いる八王子教会(坂本キミ)、甲府教会(田中篤二)、塩山教会(和田一男夫妻)は会議を開き、日本基督教団に加入せずに宗教結社として存続する道を探ります。名古屋教会の丸山栄は村井に同調し、合同教会への参加は見合わせます。弓山の率いる滝野川聖霊教会は聖霊教会として日本基督教団第10部に加入します。

日本聖書教会役員及び委員

【『1939年基督教年鑑』p. 122.】

日本聖書教会役員及び委員

【『基督教年鑑』p. 111-112.】

台湾の真耶蘇教会の訪問

 1941年6月に日本聖書教会の指導者であった村井、長島ツル、川崎一、太田福造、上井乙熊が台湾の日本真耶蘇教会に招かれて3週間の予定で台湾を訪問します。現地の真耶蘇教会との交わりの中で、特に村井と上井が彼らの強烈な聖霊信仰に影響を受けます。そして村井は「真の教会」は東から(東洋から)生まれるという彼らの教えを受け取り、真耶蘇教会の洗礼方式である「イエスの名による」洗礼を受け入れて、上井と共に再洗礼を受けます。しかし他の3人は村井たちのように真耶蘇教会の教理には同調せず、彼らの帰国と共に日本聖書教会は分裂の方向に進みます。その後上井が真耶蘇教会との関係に執着したためか、村井と上井との間にも亀裂が生じます。

 台湾訪問以降、村井はそれまでに増して聖霊のバプテスマを強調し、真の教会は東から来ることを説き始め、彼の信ずる正しき洗礼(イエスの名により、水の中に前に倒すやり方)での再洗礼会が持たれます。しかし彼の新しい教理を受け入れたのは村井の牧会する東京教会と限られた村井の信奉者だけでした。「真の教会」の出現を信じて村井と東京教会は新たな歩みを始めます。

「真耶蘇教会と日本聖書教会」
【『聖霊』第72号(1941年7月号)、p. 3.】

イエス之御霊教会の設立

 当時、宗教団体は文部省の管轄だったので、村井は文部省を訪れて新教会の設立届けを出そうとしますが、係の役人に日本基督教団に加入するよう言われ設立を拒否されます。この判断を不服とした村井は1942年5月に再度文部省を訪れ、新たに新教会の設立を申し出ます。その際に当時日本聖書教会東京教会を名乗っていましたが、教会の名に「東京」や「日本」を使うことを拒否され、そのために村井たちは新たな教会名を考え始めます。

 村井の最初の考えは「真耶蘇教会」のようでしたが、妻のスワが神からの啓示として「イエスの御霊」を示されたことによって、村井は文部省に腹案として「真耶蘇教会」「イエス之御霊教会」「活水教会」の三つを提示するのですが、文部省が「イエス之御霊」を受理したことにより、当時の村井の住所が豊島区であったこともあり、村井は新しい教会名を「豊島イエス之御霊教会」として届け出ます。(イエス之御霊教会では、1941年11月17日に文部省の認可、1942年3月31日に認可証の交付としていますが、『聖霊』(1942年11月1日号)では1942年10月15日の認可となっています。)

 村井はイエス之御霊教会の新しい祭礼として、祖先の霊が陰府からから天国に行くことを祈る「祖先祭」を取り入れ、「死者のための身代わり洗礼」も始めます。村井は戦時中も1943年12月まで『聖霊』誌を発行し続けます。1945年4月にはイエス之御霊教会(かつての東京教会)の会堂は空襲で焼失します。村井は会堂の焼け跡にトタン板に「失望するなかれ」書いて立てたといいます。

イエスの御霊教会教団
【『1948年基督教年鑑』pp. 260-261.】

戦後

 1952年頃までイエス之御霊教会は、自分たちの働きは1933年の大塚教会のリバイバルを源とし、1937年10月にノーマン・バース、ジョン・ジュルゲンセン、村井の3名の教団創立委員によって米国アッセンブリー教団関係の諸教会を統括した日本聖書教会、1940年3月に村井を監督とした日本聖書教会教団の後身で、イエス之御霊教会と改称して発足した教団としていました。戦後、全ての宗教団体が新規登録を義務付けられたために、村井は1952年4月新たにイエス之御霊教会を登録するのですが、それからは戦前のアッセンブリーの群れとの関係を強調することはなくなります。

 神学が異なり袂を分かつことになっても、大塚教会出身の伊藤智留吉家にとって村井は特別な存在で、戦死した伊藤智留吉の葬儀を1947年6月に村井が篠原教会で司式しています。

 戦後、東京の弓山喜代馬と大阪の川崎一らが新たなペンテコステ派の教会の設立を模索し1949年に日本アッセンブリー教団を設立しますが、村井も独自の道を模索します。戦前、奈良の生駒で活動していたレオナード・クートが1948年に日本の現状調査のために再来日し、1950年には米国のワンネス・ペンテコステ派のユナイトペンテコステ教団(UPC)の宣教師として再来日しますが、この時にクートは旧知の村井に声をかけ、村井はクート共にUPCとの宣教協力を始めます。UPCは1949年にはクートが設立したテキサスの国際聖書学校の卒業生で日系アメリカ人の貫田順を日本に派遣し、村井はクートと貫田との三者の協調関係を築いて行きます。貫田は東京のイエス之御霊教会に逗留し、そこでの英語教授によって経済を補充していました。

 この村井、クート、そして貫田の協調関係は数年続き、村井は東京から10人以上の神学生を奈良のクートの生駒聖書学院に送りました。イエス之御霊教会の牧師がUPCの教会で奉仕することもありました。しかしクートとぶつかって生駒を去る神学生が後を絶たず、また村井とクートとの神学理解の違いも明確になり(クートはある時から神学生たちが異言で祈ること禁じたと言います)、村井は神学生を生駒に送るのを止めて1952年6月は日本聖書大学院を設立します。

イエス之御霊教会教団【『1950年基督教年鑑』pp. 246-247.】
イエスの御霊教会教団【『1952年基督教年鑑』pp. 276-277.】
イエスの御霊教会教団【『1954年基督教年鑑』pp. 186-187.】

 1953年4月にUPC宣教部長のワイン・ステアーズが貫田のアテンドで、東京を皮切りに札幌、大阪、和歌山、四国、福岡、広島、神戸、奈良、静岡、東京と日本を1ヶ月かけて巡回します。ステアーズは日本を訪問した際の紀行文にUPCのペンテコステ・ヘラルド誌で村井について次のように述べています。

村井兄は、日本で長年にわたり主の名のために素晴らしい働きをしてきています。彼は日本生まれの日本人で、何年もの間私たちのメッセージ[注:ワンネスペンテコステ]を宣べ伝えてきました。彼は「人は水と霊から生まれなければならない」と説教し、またイエスの名で人々に洗礼を授け、彼らは聖霊を受け、霊が語らせるままに異言を語ります。日本人が聖霊を受けるその速さは、ほとんど信じられないほどです。これらの回心者たちは、偶像から主に立ち帰ってからわずか10分ほどで聖霊を受けます。村井兄は彼らに、神は今すぐにでもそれを行う準備ができていると言います。彼らも神が備えてほとんど即時的にそうされると真摯に主を信じています。村井兄の回心者のほとんどが、水のバプテスマを受ける機会の前に聖霊を受けています。

和歌山での特別集会 (1951年6月)
Pentecostal Herald(1951年11月号)、 p. 13.】
中央に村井、その右(X)が貫田順

日本聖書大学院前でUPC宣教部長を見送る(1953年7月)
前列左端に村井、後列左端に貫田順 【”Foreign Missionary Secretary Visits Japan,” Pentecostal Herald  (1953年7月号) 、p. 7.】

イエス之御霊教会の洗礼式 (1954年頃)
中央に村井、後列の左に貫田順がいる。
村井屯が旧知のメイ・グレイ夫人に送った手紙と共に掲載されている。
【Jun Murai, ”God Blessing in Japan,” Pentecostal Herald (1955年2月号)、p. 9.】
四国での洗礼式の写真 (1954年頃)
左側の村井夫妻、中央後ろに貫田順
【Jun Murai, ”God Blessing in Japan,” Pentecostal Herald (1955年2月号)、p. 9.】

 その後も村井とUPCとの関係は暫く続き、村井は1954年9月のUPCの米国オハイオ州コロンバスでの総会には出席しそこで挨拶し貫田が通訳を務めます。しかし村井とUPCとの関係もこのあと破綻します。その一因には教会の財政についての意見の相違があったようです。イエス之御霊教会は教会の自立自給を柱にしていました。その後、村井をリーダーにイエス之御霊教会は急速に国内外に教勢を伸ばします。

第30回UPC総会における村井と貫田順 (1954年)
【“Jun Murai Addresses Convention in Conquerors’ Service…,” Pentecostal Herald (1954年11月号)、 p. 17.】

 イエス之御霊教会の初代監督であった村井が1970年に亡くなると、監督を妻の村井スワが継承し、1988年のスワが亡くなると三女の村井美都子が継承します。2000年の美都子の死後は長男の純基が継承し、2006年の純基の死後は三戸富夫が継承しました。スワの死去した2000年以降に、イエス之御霊教会は大きな分裂を経験し、その後分離・独立するグループが起こっていきました。


筆者:鈴木正和

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